ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

若冲 天井画 №8 最終回 <若冲連載18>

2008-09-21 | Weblog
 鳥屋通六は、魚屋通六が正しい。「魚屋」は鮮魚問屋と料亭を商っていた。琵琶湖の魚だけでなく、雪が降るころになれば、はるか日本海の敦賀の漁港から、雪でかためた鮮魚を陸送し、湖北の塩津港から、琵琶湖を帆船の丸子舟で運んだであろう。冬場にしかできない海鮮魚の搬送である。さらには新鮮な魚は湖南のみでなく、京の街にも逢坂越えで運ばれたのではなかろうか。京は新鮮な海の魚に乏しい。大坂から淀川を早船で輸送したことは知られるが、おそらく冬場、琵琶湖ルートでも日本海の魚が運ばれたであろう。魚屋は京の錦市場とも繋がりをもっていた。
 さて、これらの記載から思うに、前記義仲寺文書は明治中期以降に、過去の伝承や手控えをもとに書かれたのであろうと思う。執事のひとり小島其桃は大津後家町の筆墨商、通称墨安の小島安兵衛である。没年明治二十四年、享年八十一歳。おそらく彼の没後であろう。

 そして決定的な書付が同寺にあった。翁堂天井裏にあった墨書板である。
「若冲卉花之画/天井板十五枚/寄付之/安政六年己未夏/六月/
 大津柴屋町/魚屋通六」
 花卉図十五枚が天井に収まったのは、安政六年(一八五九)夏のことであった。寄進者は魚屋の通六である。

 それから、前の文書で気になるのは「堂再建 安政五戊午年十月十二日 遷座」の部分である。安政五年の芭蕉の命日である十月十二日に再建され、翌年の六月に絵がはめられたのであろうか。ずいぶん間延びしている。堂の建築構造は、同寺執事の山田司氏からご教示いただいたが、建物と格天井は一体になっており、後から天井を造ったのではない。建物を建てるとき、同時に十五格子の天井もはめ込まれている。
 「遷座」の字に注目すると、堂再建のため十月十二日に神聖なる翁の霊を焼失地から遷座。そして地鎮再建に取りかかり、翌年六月に完工し、同時に天井絵も据えつけられた。このように考えるのがいちばん素直な解釈ではなかろうか。
いずれにしろ安政六年六月に若冲画が天井を飾ったことに違いはない。和宮の降嫁決定はその翌年である。大津本陣にあったかもしれない天井画が移されたと考えることには無理があろう。

それならば、この十五枚はもともと、どこの天井を飾っていたのであろうか。まったくの推測でいえば、やはり石峰寺であろう。観音堂が完成する前、同寺の絵図に描かれている小さな楼閣ではないかと思う。観音堂完成後、おそらく十五枚の花卉図は取り外され、錦市場の伊藤家に収められたと考える。幕末期、大津町俳人の魚家通六が、新築する翁堂のために同家から譲り受けた。通六は仕事柄、錦街の同業者や俳句仲間と接触していたはずだ。飛躍した空想であるが、そのように考えるのも一興である。
 ちなみに若冲の次弟・白歳は家業にちなみ「白菜」のもじりであろうといわれているが、描画のすきな俳人でもあった。ただ絵は兄に似ず、うまくはない。また白は百から一を引いた九十九で、ツクモでもある。ユーモアのある、楽しいひとだったのだろう。
<2008年9月21日 「天井画」連載は終わります>
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