ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

伊藤若冲と阿弥陀寺<若冲連載2>

2007-09-17 | Weblog
上京区寺町通今出川上ル、御所御苑の東北、相国寺の東。徒歩数分のところに浄土宗・阿弥陀寺があります。
 上ル(あがる)とは、ふたつの交差する道路、ここでは今出川通と寺町通の交差点を北へ、という意味。道路が格子の形で連なっている京都市中ならではの表現です。ちなみに下ル(さがる)は「交差点を南に」。東入ル、西入ルは同様に、交差点を東あるいは西へという意味です。
 京都では町名は地元の方でもあまり言わず、また知りません。通り名をふたつ言って、上下、東西でこと足りるのですから、町名よりも道路の名を覚えることのほうが大切なのです。子どものときから、通り名を読み込んだ童歌で、覚えます。
 話が横道にそれてしまいましたが、阿弥陀寺の墓地が、実に興味深い。いちばんは、織田信長一族の墓です。広い墓地ですが、入口をまっすぐ東に向かうと、織田氏や、森蘭兄弟など家臣の古い墓が何基も固まり並んでいます。いずれも決して大きくはなく、何より古色豊かで、不思議な光景です。
 明智光秀が本能寺に信長を急襲したとき、阿弥陀寺の清玉上人は同寺に駆けつけ裏口より境内に入った。清玉は信長とは別懇の間柄だったといわれています。上人は信長の家来から遺骨を預かり、本能寺の僧たちにまぎれて本能寺から逃げ帰った。また光秀の許可を得て、織田信忠の遺骨も得たといわれています。
 京都の古い墓地を巡るのは面白い散歩ですが、阿弥陀寺には、伊藤若冲の同時代人でもある、文人・皆川淇園の立派な墓があります。墓地の南西の一角が皆川家の墓域です。淇園の墓碑銘文は弟子の松浦静山が記しています。松浦は『甲子夜話』の著者で、平戸藩主だった文人です。
 淇園は画家の円山応挙、呉春らと一緒に、石峰寺を訪れています。天明8年(1788)正月28日のことです。若冲は留守でしたが、「応挙の案内で石峰寺に伊藤若冲制作するところの石羅漢を見物した」と淇園はそのときの石像群のことを詳しく記しています。しかしその2日後、正月30日晦日、京都は大災に襲われます。天明の大火です。京都市中の8割以上が灰燼に帰してしまいました。若冲も応挙も淇園も住居を失い、また相国寺も阿弥陀寺も火難に遭いました。
 墓地には、阿弥陀寺帰白院住持だった蝶夢和尚の墓もあります。彼も若冲と同時代人。俳句で知られた俳僧ですが、大典和尚や皆川淇園などとも親しく交流した当時の京都を代表する文人のひとりでした。
<2007年9月17日 南浦邦仁>
 



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