ユニークな苗字の方にはじめて会うと、「お名前の由来いわれは?」と、つい聞きたくなってしまいます。
だいぶ前のことですが、中京の町中を歩いていたとき、ふと目にとまった表札には、「神」と一文字。わたしは愕然驚愕し、のけぞってしまいました。姓、苗字が神さんなのです。いったい、どのような方がお住まいなのでしょうか。一度お会いして、少しでも苗字についてのお話しを、お聞かせいただきたいものだと思った。しかし突然に、見ず知らずの人間が玄関でピンポーンと鳴らしても、神社神前の鈴の音に等しく、おそらく門前払いであろう。またわたしも赤面してしまって、まともに質問もできないのではないか。
ところが偶然ですが今日、京都市中の電話帳をみていたら、「神」の苗字が二軒。それで気づきましたが、わたしがかつて見た表札の神は「しん」さん。そしてもうおひとり、上賀茂の神氏は「かみ」である。
神について調べ考えるのは、ふつうは宗教学ですが、苗字から追跡していく氏姓学からの神の追及も興味深い。
しかしそのような作業を進めるくらいなら、わが家のカミさん、「山のカミ」をもっと理解することが、先決の課題、重要問題であることに思い至ってしまった…。「神さんは、理解することが困難である。だから神である」。オットーも『聖なるもの』(邦訳・岩波文庫)で、切々と述べています。
ところで先々週のことですが、ある女性と話していましたら、「旧姓はナマズエです。変な苗字なので子どものころ、いじめからかいを受け、ずい分いやな思いをしたものです」。ナマズエ? 鯰絵かと思い聞きましたら、「鯰江」とのこと。「滋賀県には鯰江の地名があり、決して変わった名ではないと思うのですが…」
そしてわたしの悪い癖がはじまりました。好奇心がむくむくと湧いてきたのです。「鯰江さんの名誉挽回のため一肌脱いで、来歴を調べてみようじゃないですか!」。本当に困った性格です。何かに疑問をもち、知りたい、調べたいと一度思うと、もう停まらないのです。そして、にわか仕立ての興信所のごとくですが、いくらかわかって来ました。書いてみます。
滋賀県東近江市に「鯰江町」があります。この町の歴史は古い。一帯は古代に渡来集団の秦(はた)氏、秦朝元たちが開拓した広大な土地と伝承されています。考古学、古代史ともに、朝鮮半島から来た秦氏が開いた土地であると解説しています。秦は、古代中国の秦帝国「しん」の末裔とも自称しています。「神」さんも「しん」さん。もとは秦かもしれません。
元総理の羽田(はた)孜さんは長野県出身ですが、何かでかつてみた羽田家の家系図では、始祖は秦(はた)氏でした。五世紀以降に渡来した彼ら集団は、河内(大阪)、山背(特に京都太秦と伏見)、播州(姫路あたり)、吉備(岡山)そして近江(滋賀)、信州(長野)などへと拡散したのです。京の神(しん)さん、長野の羽田(はた)さん、鯰江の秦(はた)さん、太秦の秦さん。ルーツはもしかしたら、古代において繋がっているのかも知れません。
古代に秦氏が開いた湖東の一帯ですが、その内の鯰江庄は奈良時代、聖武天皇のころに天皇祈願起請で、奈良・興福寺領となります。そして平穏だった平安時代が過ぎ鎌倉時代以降、近江の大勢力となった守護・佐々木氏を核とした地元豪族たちと、興福寺との争いが深刻化します。鯰江庄は現在の東近江市(旧:愛知郡愛東町)鯰江町、中戸町、妹町、曽根町、青山町など。広域な愛知川(えちがわ)右岸の農村地帯です。
中世には、水利をめぐり争いがたびたび起きています。集落のすぐ横を流れる愛知川は、いまでもふだんは水量の乏しい川です。河幅は広いのですが、水は流れているのか溜まっているのか分からぬほど。
かつて対岸の近衛家領の柿御園などが、新しい水路を愛知川上流から切り開いた。下流の鯰江庄はたまったものではありません。死活問題です。八ッ場ダム以上の大問題が起きました。対岸上下流のひとたちは、何度も激しい葛藤を繰り返したことが記録にみえます。
なお柿御園ですが、現在の東近江市(旧:八日市市)御園町、池田町、今代町、寺町、岡田町、林田町、中小路町、妙法寺町。山上町(旧:神崎郡永源寺町)などの農村地帯です。
鯰江庄はその後、室町時代には嵐山渡月橋近くの臨川寺領になったりもしましたが、ますます力を増した佐々木氏に侵食されていく。
そして佐々木六角氏の有力家臣、地元豪族の鯰江萬介貞景が本拠とした鯰江城ですが、織田信長の近江侵攻に対し、最後まで抵抗します。六角氏本城の観音寺城が落ちた五年後の1573年9月、信長の家臣、柴田勝家ら四将らによって激烈な攻撃を受け、平城だったが堀を巡らした堅固な鯰江城も落城。近江の名族・佐々木六角氏と部将だった鯰江城主・鯰江貞景たちの最後の城、闘いは終わったのです。
参考までに、鯰江城は信長との一戦に備え、防備の備えを充実したのですが、かつての発掘調査記録によると、そもそもの築城は十六世紀早々とみられます。古くとも、せいぜい十五世紀末あたり。鯰江氏が城を築いた時期を、もっと早いころとみる見解があるようですが、同城発掘報告書は、築城の時期を歴然と語っています。
そしてその後、鯰江庄は一時、豊臣氏の支配下となりましたが、関ヶ原合戦の後、1617年のころ彦根藩領となり維新まで続きます。
ところで大阪市城東区にも鯰江があります。鯰江小学校・中学校・公園など。城東区役所の東一帯は、いまでは今福という町名ですが、かつては鯰江町といい、鯰江川がありました。川はいまでは道路になってしまい、痕跡もありませんが。
この川、堤はかつて鯰江備中守が掘り開いたのでこの名があるという口承があります。記録では、1586年に近江愛知郡鯰江郷出身の毛利備前守定春が、居住したとする。定春は鯰江城で最後まで戦った鯰江一族の将・鯰江定春。彼は鯰江貞景から改名したようです。戦後、秀吉につかえ姓を後に、鯰江から森そして毛利に改めたという。近江鯰江城落城の十数年後のことです。近江の鯰江から、落城の数年のあとに大坂に来たに違いない。
蛇足ですが、定春のその後の名、毛利備前か備中守といえば、秀吉の高松城水攻めを思い出します。1582年、本能寺の変の急報で、備中高松城を落とした秀吉はあわてて畿内に引き返す。中国大返しです。鯰江郷で愛知川の水を扱うことに優れた才をもつ定春たち鯰江の残党たちは、このとき既に秀吉の配下として、高松城水攻めの戦に加わっていたのでしょう。鯰江落城の九年後です。ありうる事と、わたしは思っています。
定春の弟のひとりは森高次。高次の子の森勘三郎高政は、秀吉の配下として備中高松城戦に参加。終戦時、高政は秀吉の命により人質交換のため、毛利方に預けられました。そしてこれを機に、森高政は毛利氏より同姓を与えられ、毛利高政と名のる。その後、同毛利家(旧姓:森)は大分豊後の佐伯藩城主として幕末まで続く。豊後の毛利(森)氏は、もと鯰江の一族だったのです。鯰江庄内大字鯰江には、森村がかつてあり、村の出身者は森姓を名のりました。森と鯰江は同族です。鯰江の定春も甥の高政と同様に、毛利輝元候から同姓の毛利姓を与えられたのでしょう。「もり」は「もうり」に通ず、故の賜姓という。
江戸時代の人物をみると、鯰江伝左衛門直輝がいる。1815年に但馬城崎に生まれた。鯰江城が落ちたあと、彼の祖先は城崎に流れ落ちて来た一派である。代々当地で温泉宿と農を営み、庄屋をつとめた。幕末、勤皇の志士と交わった直輝は、長州に走り生野事件にも参加する。同志のひとりに、後の京都府知事・北垣國道もいました。
過激な運動のために妻子は捕らえられ、獄につながれた。そして禁門の変で長州が破れたが、鯰江は遍歴ののちに危険な京に入って国事に奔走するも、病に倒れる。1866年5月5日、享年52歳。維新の二年前である。
鯰江城で最後まで織田信長に刃向かった鯰江貞景、幕末の志士・鯰江伝左衛門直輝、鯰江一族は熱血豪快な血流のようです。きっと立派な鯰ヒゲをたくわえていたのでしょうね。
<2009年9月27日 南浦邦仁> 続編をはじめました。「鯰江さん考」。シリーズになる予定です(2012年5月17日)
下田さんの新しい発見や展開、を楽しみに応援いたしております。
どんどん調査が進んでいますね。これからも楽しみにしております。
さて、判明済みの鯰江さんの流れを整理してみました。
1 滋賀県東近江市鯰江町に現在も居住の鯰江氏。数十戸ありそうです。
2 落城後に同地から大坂に移った鯰江氏。本家当主は鯰江定春(毛利備前守定春)の流れ。
3 やはり落城後に兵庫県城崎に移った鯰江氏。本家筋は幕末の志士・鯰江伝衛門直輝。子孫は現在、城崎居住。
4 広島安芸・浅野藩家臣の三井出羽守従五位下鯰江又太郎の子孫。又太郎は定春の弟。
5 財閥三井家の祖、三井備中守鯰江高久。落城後に三井当主・鯰江高安は伊勢、松坂に移り、孫の高利が三井家家祖。
6 九州豊後・佐伯藩藩主の流れ。毛利勘三郎高政(森高政・鯰江高政)を初代城主とする佐伯毛利氏。高政は定春の甥。毛利佐伯藩は維新まで続く。
7 東近江鯰江郷元出身で、全国に居住しておられる鯰江氏の末裔。
とりあえず、現在のところこのように分類できそうです。
また、西村敬蔵と兄弟の朝倉心斎に診療所は、田井屋から300m円山川方にありましたが、今は酒屋になっていました。
5・6月に「生野の変」に加担した但馬の庄屋や武士の邸宅や墓をお参りしました。ほぼ、子孫がわかります。来年が変後150年となり朝来市が何か考えているそうです。また、その調査資料も渡っているはずです。
また、田中河内介(関係で小豆島福田にも2回行きました。)を11月から調査して、傳左衛門や朝倉心斎も直接・間接にかかわっていました。ますます、但馬は狭いと再認識しました。
大阪の鯰江貞嗣さんからメールが届き、「やってみましょうか」。
このブログへの寄稿のかたちで、古い鯰江文書史料の現代語を載せる方向で、考えて下さっています。
ホームページ作成はわたしもできません。
このブログを使って、いろんな方の不定期連載「鯰江氏考」(仮題)をはじめませんか。
一度ぜひわたしのアドレスまで連絡メールをお送りください。
お待ちしております。
インターネット等が苦手なためにホームページ等に出せません。「生野の変」15Pに参加した但馬の人の子孫はほゞわかりました。「山陰線香住・鳥取開業100年」140P、「田中河内介」寺田屋騒動・明治天皇の養育掛P30の冊子を作っています。 小物ですが別の欄に私が載ってます。
その後、思ったのですが、鯰江に関係や興味あるみなさんが、鯰江資史料や伝承やらエピソードやらあれこれ、
それらを発表するフォーラムができたらおもしろいだろうな、という考えです。
下田誠一さんは城崎の鯰江を調べておられます。
貞嗣さんの貴重な系図とか、それらをネット上でオープンにすれば、全国の鯰江氏や興味をお持ちのみなさんに、大きな収穫を送ることがのではないかという思いつきです。
どなたかが「ホームページ鯰江」を開設されるのがいちばんですが、とりあえずこのブログで「鯰江連載」を開始することも可能です。
送稿下田誠一、とか寄稿鯰江貞嗣とか表示します。
いかがでしょうか。下田さんもこの記述をもしご覧になったらご意見をお聞かせください。
当然ほかの方々も同様です。
下記メールアドレスにご連絡くださればうれしいです。
km09071123365@gmail.com 南浦邦仁
系図には、「愛知之郷」に領地をもらったような、当初「鯰餌」が、「江湖の犀(竹生島の竜神?)」を治めて「鯰江」に改名したような、ほか「森備前」なども読めるのですが、
なにか、思いつくまま書いているようで。
インターネットで鯰江氏の家系をいろいろたどれますが、さっきグーグルで確認しましたが、以前にみつけたいい系図が出てきませんでした・・・
それにしても「鯰の背に童子乗りて」は面白いですね。
意外と鯰江一族にはそのような伝承があったのかもしれませんね。
さらなる探求のほど、期待し楽しみにしております。
ちなみに、いずれの府県にお住まいですか?
ちょうど、家に伝わる系図をスキャンして取込んで解読しようとしていたところです。
文禄4年に「鯰江氏元祖諸生の遺事を記す」となっているのですが、永禄3年の記事で切れていて、別卷が行方不明。
「養老7年…奈良の郷猿沢…鯰の背に童子乗りて…」と内容はかなり創作っぽいのです。
解明発見に驚いています。
地元には何かきっと書いたものがあると思います。
文書か本か。城崎の郷土資料館とか図書館なぞ、行ったこともありませんが。
京都も墓地がキーポイントで、いろいろなことを教えてくれました。
先日も友人が、若冲の弟白歳の墓の謎を解明しました。
寺の過去帳もみせていただければ、たいへんな史料です。
テニス上達のためにも、一層のご精進を。
墓・寺・遺族・地元の研究者・文書・図書……
僭越ですが、わたしの経験からのイメージです。
と次男で養子(傍系)板屋旅館に行った豊彦と朝倉心斎(生野の変参加の八鹿村西村一族、医者で寺小屋で教えた)関係者の墓を案内してもらいました。
傳左衛門の子の衆議院議員が先代に変わって叙勲を受けて、墓に刻んでありました。雪は20cmありましたが、いけました。子供の豊彦は三宅家に養子に行って、町長になり、その子は貿易商で成功した。今は、外湯一の湯の前でみやげ物屋を営んでいます。子孫に陸軍中佐もいて、その墓の文字は東郷平八郎が書いた。また、歌人(徳富)も墓横に花押を入れた。
傳左衛門の上の墓が1年間探した朝倉心斎の墓がであった。お墓には「心斎 朝倉翁」と刻まれていた。生野の変後、子孫は神戸で子供は医者、孫は歯科医師で平成10年死亡しお墓は心斎の横に、曾孫は神戸付近で外科医をしています。案内して頂いた方は、鯰江家を訪ねて安土城に行って佐々木源氏の家来で鯰江の墓又は碑を見たそうです。また、佐々木氏は羽柴秀吉が攻めて来る前に逃げたとも言われた。
他に坂本・・・の逃げた城主が沢山城崎に落ち延びて、磯ヶ谷を最後の安住に地(眠る)に選んでいた。 本日は午後にテニスをしましたが鯰江・朝倉さんの霊に守られ4戦全勝でした。・・・・・めでたし、めでたし・・・感謝
城崎には小学生のころ、家族で行ったことを思い出しました。
ちょうどいまごろで、雪がわたしの身長ほども積もっていました。
ただ当時は背が低いのですが、それでも1メートル以上です。
鯰江傳左衛門の石が雪から顔を出すころに、行こうと思っています。
思いでも雪同様に、深い町です。
究明を続けられますよう、ささやかですが応援いたします。
直輝は鯰江一族のなかでも、
もっともといっていいほど、気になる人物です。
わたしに文筆力があれば、歴史小説の主人公にできる反骨の英傑です。
残念ながら、その力はありませんが。
城崎に行けば、湯島の墓にまいります。
ありがとうございました。
全国の鯰江氏にも朗報です。
すごく調べておられますね。
鯰江さんのこと、卒業のつもりでおりましたが、
わたしもほそぼそ探求を続けてみます。
また何か発見がありましたら、ご教示ください。
ご健闘を、祈念しております。
鯰江家の開いた名前の旅館は今は?城崎町に鯰江の名は?子孫が気になります。解れば教えてください。
関連して八鹿の西村一族の子(大江甚助・朝倉心斎・宮代与左衛門)を暇になれば調査したいと思います。特に、大江甚助の日記を見たい。(西村一族系は庄屋や廻船問屋・酒屋で生野の変で罰を受け、明治維新で国侍になっています。)大江・宮代の子孫はわかりましたが、城崎の医師朝倉の子孫も八鹿の西村3家の子孫もまだ調べていません。)
感謝します。
鯰江直輝については、私の蔵書の中にあった前嶋雅光著「幕末生野義挙の研究」にも名前と分析が載っておりました。ただし、記述がわずかで半分は長男直寛の話ですが…。今度図書館の人名辞典を調べてみます。ありがとうございました。
遅くなりました。
旧姓鯰江さんから、資料を戻していただき、
直輝、鯰江伝左衛門をみてみました。
人名辞典3種のコピーからとっていました。
ただ書名をメモしていませんので、出典不明。
大きな図書館に行けば、人名辞典からだけでもかなり判明すると思います。
鯰江全般で詳しい資料は
『近江愛知郡志』滋賀県愛知郡教育会 昭和4年発行。
これがすごく参考になりました。
この程度で申し訳ないです。
先日のことですが、この稿を記すきっかけになった旧姓・鯰江さんに、
手持ちの「鯰江資料」(といってもほとんど文献コピーですが)を、
すべてをプレゼントしてしまいました。
再度確認いたします。
しばらくお待ちください。
鯰江氏の系図は、本当にすばらしいですね。
後で知りましたが、定春の親は、鯰江定秀。子の鯰江定春はその後、森家を継ぎ、そして毛利姓を名乗る。
どうもこのようです。
それから備前島、教えてくださってありがとうございます。網島ですね。藤田伝三郎に興味があり以前、
何度か太閤園や藤田美術館を訪れたことがあります。あの地にかつて、定春が住んでいたのですね。備前島ですか…。うなっています。
これから大阪・鶴橋に向かい、友人と焼肉を食べます。鯰江小学校の近くのようですね。奇遇です。
> 堤はかつて鯰江備中守が掘り開いたのでこの名があるとい
> う口承があります。
鯰江備中守定春ですね。
備前島(現在の太閤園があるところ)に、屋敷を構えたと言われています。その後、大長寺(現在は移転)になり、藤田男爵邸を経て、現在に至ります。
なお、鯰江氏については、Wikiでも触れられていますし、家系図を見ると、すばらしい一族だと分かります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/鯰江氏
なお、滋賀県の鯰江城跡には、碑があるようです。
http://www.siromegu.com/castle/siga/namazue/namazue.htm