ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

GHQ占領下の京都 第2回 「日本占領」

2011-08-21 | Weblog
敗戦から2週間後の8月28日、日本人が鬼畜と信じていた米兵が、厚木飛行場に到着した。第11空挺師団部隊の先遣隊200人近い面々である。はじめて米軍を目にした日本国民の感想は「小柄で痩せた日本兵が、こんな大男に勝てるはずがない…。彼らの腕の太さはわたしの太ももほどもある…」
 そして8月30日には、GHQ最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥が、愛用のコーンパイプを手に、専用機「バターン」から厚木に降り立つ。連合国軍、実質はアメリカ軍による日本占領がはじまった。
 マッカーサーは皇居の堀に面した第一生命ビルを本部とした。泣く子も黙る、と恐れられたGHQ進駐軍、彼はその最高指揮官であり、その絶大な権力は戦前戦中の天皇をもしのぐといわれた。なお皇居とその周辺部の空爆を、米軍はあえて控えていた。天皇の宮殿への攻撃は禁止されていたのである。また占領時の米軍統治用施設として、まわりのビルやホテルなどを無傷で残していた。
 GHQとわたしも呼んでるが、正確には「GHQ/SCAP」連合国軍最高司令官総司令部。General Headquarters/Supreme Commander for the Allied Powers。GHQにはSCAPを付すべきですが、連合国軍総司令部「GHQ」と記します。
 占領軍は当初、東日本は第8軍、西日本を第6軍、両軍が日本本土を制圧した。第6軍は司令部を京都、烏丸四条の大建ビル(現在の古今烏丸)に決定した。
 進駐軍はその後、続々と追加派遣され、年末には45万人にものぼる連合軍将兵が日本各地に進駐する。

 昭和20年9月(1945)の京都進駐史をみてみよう。
○9月21日 ハイライン大佐率いる進駐軍調査団15名が先遣隊として京都に到着した。蹴上の都ホテル(現・ウェスティン都ホテル京都)で日米による受け入れ実行本部の会議が開かれ、米軍は入洛する進駐軍を収容するための接収建物の確保を指示した。
○9月24日 正午をもって、都ホテル全館が占領軍に引き渡される。星条旗が本館入り口、屋上、ロビー、大食堂正面に掲げられた。なお全館接収の内示は、同月7日に外務省終戦連絡局京都事務所の中村豊一公使が来館して告げていた。
○9月25日 米第6軍が京都進駐開始。部隊は京都駅前広場に集結したのち、大久保村(宇治市広野町/現・陸上自衛隊大久保駐屯地)に駐留。27日には第6軍主力部隊約3千人が奈良線新田駅に続々と到着。
○9月27日 司令部を大建ビル(現・古今烏丸)に置き、星条旗が玄関・屋上ほかに立てられた。
○9月28日 第6軍司令官クルーガー大将が赴任。接収された下村邸が司令官宿舎にあてられた。現在の大丸ビラ、烏丸通丸太町上ル。
○将兵宿舎のため、下記など多数の施設が接収された。
 都ホテル:高級将官宿舎として約200人収容。
 勧業館:下士官兵員500人。岡崎公園、現・京都市勧業館みやこめっせ。
 旧日本陸軍京都第16師団兵舎:約1300名収容。伏見深草。
 旧陸軍工兵隊兵舎:通信隊150名。伏見桃山、現・市営住宅と市公園。
 市美術館:兵舎、後に軍病院。岡崎公園。
 公会堂:兵舎100人収容。岡崎公園、現・京都会館別館。
 ステーションホテル:将校50名宿舎。京都駅前。
 京都ホテル:当初は大建ビルに通う将校用ホテル。植物園住宅完成後は家族連れは引っ越し、単身独身の将校ばかりになってしまう。現・京都ホテルオークラ。
 日本電池寮:黒人兵専用宿舎200名、西七条。

 そして12月、年末に45万人にも達していた駐留米軍だが、日本国民の軍事抵抗も受けず、予想以上に順調な占領支配を展開することができた。マッカーサーは半数以下の20万人での日本占領体制に切りかえることを決定した。第6軍は朝鮮に移動が決定する。第6軍は第1軍団だけを日本に残し、1軍団は第8軍に統合される。
 1946年1月1日、GHQ京都司令部は第6軍から、第8軍第1軍団に引き継がれる。第1軍団京都司令官にはウッドラフ少将がついた。そして46年初頭より、進駐軍は続々と復員を開始する。
 なお接収だが、米軍が施設を指定し日本の官民が米軍に提供する。使用料は持ち主に支払われた。しかし占拠した米軍からではなく、日本政府の終戦処理費から施設使用料が毎月交付された。

 昭和20年8月15日(1945)以降の占領略史を、京都から上記のようにみてみた。翌年にかけて一応の落ち着きをみせるかごときの京都だが、庶民は特に食生活には難渋した。空地はどこもイモや野菜の畑になってしまった。1946年秋の収穫までは、特に苦しかった。45年秋は大凶作で、かつ復員兵と引揚者の帰国で、人口が膨れ上がったためである。また大空襲がなく建物が残った京都には、住処を求め縁者を頼ってたくさんの被災民が流入した。
 空襲を受けた街には、焼け跡に粗製のバラックが立つばかりで、都市住民の住まいは住宅などとよべる状態ではなかった。京都はさいわい、住む所にはあまり不自由な思いをすることがなかったが…

 GHQ京都司令部は翌21年7月に、難題を持ち出す。「将校家族住宅DHを数十戸建設するため、京都御所外苑を接収する」。これには京都府市民のみならず、府庁も宮内省も仰天してしまった。東京のGHQ本部にも陳情し、なんとか京都御苑を回避することができた。
 このころになるとアメリカ本土から軍将校のたくさんの家族たちが、日本に駐在している夫や父と同居するために押し寄せてきた。日本軍では占領地で家族と暮らす軍人はまずいないであろう。しかしアメリカでは一般の兵卒は別にして、少尉以上の将校は家族とともに暮らすのが当然であり常識であった。子どもたちには幼稚園から小学校まで、アメリカンスクールが住居地内に併設さる。当然、グラウンドもテニスコートもプールも付いている。

 御苑をあきらめた司令部は代替地を要求した。府は淀競馬場を提案したが「水害の心配がある」と断られてしまう。そして米軍が下した結論は、京都植物園である。同園の広大な敷地すべてがDH将校家族用住宅(デペンデントハウス)数十戸建設のために、接収されてしまった。御所御苑の身代わりに、京都が誇る日本最大最高の公立植物園が取り上げられてしまったのである。
 1946年8月28日、正式に全敷地接収が決まり、10月1日よりブルドーザーやクレーンで突貫工事が開始される。たくさんの樹木が電動ノコギリで伐られ、また重機でなぎ倒され、草花や貴重な山野草などが埋め立てられていった。
 第1期工事は翌47年4月に完了し、第2期は同年6月から11月。1947年暮れ近くにDH工事は終わった。2万5千本以上もあった樹木は、周辺部を主にわずか6千本あまりになってしまった。

 広大なDH敷地内には、GHQ発行のパスポートを持っていなければ、日本人は立ち入ることができない。ミリタリーポリスMPに所属するセキュリティポリスSPふたりがケヤキ並木の向こう、旧植物園の正門前に歩哨として立っていた。横にはSP何人もが待機する詰所もあった。なお大建ビル玄関に立っているのはMPである。白いヘルメットと腕章には黒い「MP」2文字が鮮やかであった。

○参考
『占領下の京都』 立命館大学産業社会学部鈴木良ゼミ編著 1991年刊 文理閣
「花と緑の記録―府立植物園の五十年―」 駒敏郎著 京都『府政だより』資料版連載 №185~197 昭和46年5月~47年5月
<2011年8月21日 南浦邦仁>
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1 コメント

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初めまして (山田)
2014-09-15 21:13:46
GHQ米第6軍の大久保村駐留中の記録を探しています。
正確にいうと米軍内での消防隊の活動期間を正確に知りたいのです。
昭和33年まで米軍が駐留していたことまではわかりましたが、消防隊の記録が全く出てこないのです。
こちらのブログを拝見して、もしかしたらご存知かもと書き込みさせていただきました。もしヒントかご存知の事があれば教えていただけないでしょうか?
よろしくお願いいたします。
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