ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

若冲からGHQへ

2012-12-09 | Weblog
 伊藤若冲の年譜を作成していましたが、本日やっと仕上がりました。といっても若冲還暦までの前編です。それでもずいぶん長文になってしまいました。後編は後日にチャレンジです。メールで石峰寺に先ほど送信しましたので、ほっと一息です。
 ところでこのブログ連載のことを、すっかり忘れていました。若冲ばかりで近ごろの毎日を過ごして来ましたので、さっぱり発想がわきません。
 それと現在の宿題がもうひとつあります。京都在住の熊井隆一さんのことです。年明けに迎えられる米寿に合わせて、自分史の聞き書き本を完成させること。原稿はほぼ仕上がったのですが、タイトルもまだ決まりません。とほほ…です。
 本日は横着して、熊井さんが復員して京都GHQに勤めるころのことを、本の宣伝を兼ねて紹介することにしました。昭和18年12月、新兵の彼は知多半島の河和海軍航空基地に配属されました。彼は特攻隊の一員として国に尽くす覚悟でしたが、同郷の軍医から地上勤務を厳命され、基地食堂の洋食調理師に配置転換されてしまいます。そして敗戦後も基地にとどまり、武装解除の作業にかかわり復員は昭和22年春、桜花爛漫のあたたかい日和日でした。
 そして松竹映画京都撮影所の伊藤大輔監督の伊藤組助監督の配下として1年近く、華々しい映画の世界に浸ります。そんなある日のことです。


 町内の世話役さんから話しがありました。「進駐軍司令部が日本人従業員を募集している。各町内にひとを出すようにお達しが京都府から来たのだが、だれも行きたがらない。アメリカ兵はこわい、英語が話せない……。どうだろう? 行かないか?」
 わたしは府庁で開かれた説明会に参加しました。募集されていたのは、大工仕事、ガラス屋、ペンキ屋、営繕、電気、調理などなど、さまざまな仕事がありました。調理師としてすぐに申し込んだことはいうまでもありません。
 日本を占領した連合国軍、実態はアメリカ軍でしたが、終戦の直後に東京と京都に司令部を置きました。京都は四条烏丸下ルの大建ビル、後に丸紅ビルそしてCOCON KARASUMA古今烏丸ビルと名をかえますが、このビルを接収したのです。
 わたしは、面白いととっさに思いました。これからはアメリカ抜きでは日本の復興はない。市民であっても、米軍と密着するのが生きる道に違いない、そう思ったのです。「戦争では負けたけど、これからは米軍相手に正々堂々と対す」覚悟でした。
 松竹を辞めて、連合国軍総司令部GHQにつとめることにしました。京都司令部の大建ビルなら錦小路の自宅から徒歩わずか10分足らず。これほど近いなら余裕の時間もとれます。進駐軍の仕事だけでなく、ほかにも仕事をみつけて人の倍ほど働こうと決意しました。(父は亡く弟4人の面倒をみなければなりません)
 ところが配属されたのは伏見深草です。現在は龍谷大学、聖母女学院、京都教育大学、京都府警察学校などがある広大な土地は、もと陸軍第十六師団だったのです。師団街道という名がいまもありますが、陸軍京都師団にちなむ呼び名です。元師団司令部は聖母にありましたが、近くの藤森には有名な陸軍第三十七部隊が陣取っていました。あたり一帯は接収され、米兵がたくさん駐留していました。
 わたしのGHQ最初の仕事は藤森キャンプでした。配属されたのは調理場のコックです。帝国海軍基地では配置転換になり洋食の調理を習ったのですが、その腕が米軍基地で活きたわけです。深草で数カ月働きましたが、人生は不思議なものですね。
 次に配属されたのが岡崎公園の勧業館です。市立美術館は後にアメリカ軍の病院に、動物園は車両置き場。勧業館はいまの「みやこめっせ」ですが、武器や軍資材の置き場などでした。岡崎にもかなりの米兵が駐屯していました。わたしは勧業館のなかの食堂のコックをつとめました。
 そしてここで運命的な出会いがありました。日本人のミセスMです。彼女は謎の女性ですが、GHQの日常生活面の仕事を仕切るキャリアウーマンでした。ミセスMがわたしの仕事ぶりを認めてくれたのです。(彼女の名はあえて伏せます)
 岡崎での勤務も一年足らずで、こんどはGHQ司令部のある烏丸の大建ビルにつとめることになります。ミセスMにスカウトされたわけです。
 大建ビルでの職場は地下の調理場でした。料理は軽食スナックが多く簡単でしたね。メニューはサンドウィッチ、ハンバーガー、ポテト、サラダなどが多かったと記憶していますが、わたしはステーキでもスープでも何でもつくれます。海軍時代の調理師の腕前が活きました。
 ビルの一階がレストラン、二階はPXでした。PXはなじみのない言葉でしょうが、アメリカ人専用のスーパーマーケットです。昭和二三年のころ、日本人は食べることにも窮しているのに、PXにはそれこそ何でもありました。そして三階より上が司令部。わたしは入ったことがありません。一般人は立ち入り禁止です。
 そしてこのビルで働くことによって、わたしのその後の人生が大きく変わっていきました。「戦争は負けたがこれからは経済の戦争がはじまる」。復員するとき、河和基地を出て京都に向かう列車のなかでそう確信していました。
<2012年12月9日>
コメント (2)
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