ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

若冲 天井画 №4<若冲連載14>

2008-07-14 | Weblog
不思議なことに、若冲の天井画・花卉図はもうひとつの寺にもある。滋賀県大津市馬場の義仲寺[ぎちゅうじ]に現存する。同寺の翁堂[おきなどう]の格天井を飾る十五枚である。
 義仲寺は名の通り、木曽義仲の墓で知られる。元禄のころ、松尾芭蕉がこの地と湖南のひとたちを愛し、庵を結んだ。大坂で没後、遺言によって彼は義仲墓のすぐ横に埋葬された。又玄[ゆうげん]の句が有名である。
  木曾殿と背中合せの寒さかな
 翁堂は大典和尚の友人でもあった蝶夢和尚[ちょうむおしょう]によって、明和七年(1770)に落成している。蝶夢は阿弥陀寺帰白院住持を二十五歳からつとめたひとであるが、亡き芭蕉を慕うこと著しかった。芭蕉七十回忌法要に義仲寺を訪れ、その荒廃を嘆き再興を誓った。三十五歳のときに退隠し、京岡崎に五升庵を結ぶ。そして祖翁すなわち芭蕉の百回忌を無事盛大に成し遂げ、寛政七年(1795)、六十四歳でこの世を去った。ちなみに阿弥陀寺は相国寺の東、徒歩数分のところにある。
 なお五升庵には、若冲の号・斗米庵[とべいあん]と同じ響きがあるが、明和三年(1766)に蝶夢が寺を出る三十五歳のとき、伊賀上野の築山桐雨から芭蕉翁の真蹟短冊を贈られたことによる。
  春立や新年ふるき米五升
 斗米庵号は、宝暦十三年刊『売茶翁偈語[ばいさおうげご]』(1763)に記載のある「我窮ヲ賑ス斗米傳へ来テ生計足ル」に依るのであろうか。若冲が尊敬し慕った売茶翁が糧食絶え困窮したことは再々あるが、この記述は寛保三年(1743)、双ヶ丘にささやかな茶舗庵を構えていたときのこと、友人の龜田窮策が米銭を携え、翁の窮乏を救ったことによるようだ。当時の売茶翁は、茶無く飯無く、竹筒は空であった。
<2008年7月12日 阿弥陀寺は信長の墓所 南浦邦仁記>
コメント