狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

負傷した日本兵と沖縄女性

2008-07-02 07:56:10 | ★集団自決

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琉球新報の「慰霊の日特集」で、「住民虐殺―“銃”を向けた日本軍」という連載記事があった。

そのタイトルが示すとおり、日本軍は沖縄住民を殺して回るのに忙しく、とても米軍と戦う暇などなかった、といった印象を読者に植え付けるのに必死の模様。

思いつくまま、にその「見出し」を列挙すると、

次のような凄まじさである。

「銃声、崩れ落ちた少女」
「日本兵、無言で引き金」(
6月13日)

「母きょうだいをつぎつぎ」
「逃げる子追い刀で
」(6月14日)

「幼子いる壕に手榴弾」
「敵より友軍憎い」(
6月16日)

「一時米保護の夫婦銃剣で」
「軍への忠誠心失う
」(6月17日)

まだまだあるが、もうよそう。

ここには住民と日本軍の剥き出しの憎悪しか読み取ることは出来ない。

だが実際にはどうだったのか。 

激戦の中にもいろんなドラマがあったはずだ。

百の出逢いがあれば百のドラマがあってもおかしくない。

平成20年7月1日
真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から63年 第3部 <15>

重傷の兵士を背負い、救出

重傷の兵士を背負い、救出

picture 戦後34年ぶりに再会を果たした金城芳子さんと山本義中氏=昭和54年3月21日、成田空港ロビーで(『沖縄戦に生きて』より)
 歩兵小隊長として沖縄戦を戦った山本義中氏がつづった手記『沖縄戦に生きて』(ぎょうせい、昭和六十二年)は、圧倒的な迫力をもって読み手に迫る。いかなる読者も涙なしでこの本を読み終えることは不可能だろう。氏の頭脳には、優れたビデオカメラとテープレコーダーが内蔵されていたのであろう――そう錯覚させるほどの抜群の記憶力が、この優れた戦記を誕生させたのだが、併せて自分の命を助けてくれた多くの戦友の人間愛を書き残したいという強い衝動があったことも間違いない。

 大正十年生まれの山本氏が沖縄入りしたのは昭和十九年八月中旬。陣地構築、初年兵教育などに汗を流した。二十年四月。米軍の“鉄の暴風”にさらされた友軍は果敢に攻撃を仕掛けるも連日、戦死者は増えた。山本氏もわずか八人で敵の戦車五両、敵兵数百人と相まみえた。部下の肉弾攻撃で戦車一両を爆破炎上させた。だが、山本氏も左手首に戦車砲弾の破片を受け、左手を自ら切断。右大腿(だいたい)部や頭にも傷を負った。四月二十九日のことである。

 女子挺身隊員、金城芳子さん(当時20歳)や防衛隊員が、山本氏を担架に乗せて野戦病院壕(ごう)に運び込み、手術が行われた。左手の切断部は治療が旋された後、包帯を巻く。右大腿部の後ろは大きく肉がえぐられていたためガーゼを入れて縛る。破片や弾片をえぐり取ること十五カ所。五時間の手術の末、一命を取り留めた。

 その後、運ばれた南風原陸軍病院二十四番壕にも敵は迫り、南に下がるよう命令が下される。金城芳子さんは、看護婦から「山本氏は重傷で助からない」と宣告される。しかし、「私は部隊から山本少尉に付き添って行けと命令されたのです。山本少尉が生きている限り離れる訳にはいきません」。「私は少尉を背負って(南へ)下がります」と告げる。

 そんな彼女に、山本少尉は語り掛けた。「金城芳子、貴女は私に十分尽くしてくれた。責任もこれで果たしたから女学生達と一緒に南にさがりなさい。(中略)金城芳子ありがとう。私もこれから頑張って自分のことを考える」

 だが――。

 〈金城芳子はそうは受け取らなかったようだ。また姿が見えなくなった。今度は乾パンの袋を持って帰って来た。袋の中のコンペイ糖を私の口に入れ、自分も口の中に一粒入れてニコッと笑った。その顔が観音菩薩に見えた〉(『沖縄戦に生きて』より)

 金城さんは少尉を背負って行くと言い張り、聞かない。山本氏は泣いて説得した。

 〈自分一人が助かりたいと逃げまどう敗戦の戦場、まして軍司令部までが主陣地をすてて後退し、陸軍病院が数千人の重傷の患者を壕の中に残したまま後退する。この敗戦の修羅場で、私のような重傷を受け、生ける屍となった患者を、おぶってでも南へさがるという彼女の言葉に、感きわまった私は、「その気持ちだけで沢山。その気持ちだけで十分。芳子さん。ありがとう。私はここで十分だ」と泣きながら礼を言って、「どうか貴女は南へさがってくれ」と説得した。しかし、金城芳子は頑としてそれを聞き入れない〉(同著より)

 そこに砂山という上等兵が手伝いを申し入れると、金城さんは自分の体に山本少尉の体を巻ききゃはんで背負ってしまう。少尉は驚く。「この女性は何と大きな女性だ」

 山本氏は手記の中で、金城さんのことを何度も「観音菩薩」と呼ぶ。この明るく気丈でスケールの大きな沖縄の女性と数人の戦友の力を借りて、山本少尉は六月十三日、部隊に合流し、奇跡の生還を果たす。

 氏の手記には、壕に避難した住民と遭遇する場面も出てくるが、兵士が住民を追い出すような場面は一度もない。住民は兵士に極めて親切であり、激励を忘れない。

 山本氏は戦場で誓った、「もし、生きて帰れるならば、死ぬまで戦死者の慰霊をつづける」と。その気持ちを失わず、昭和二十三年に沖縄入り。地元の人々と、名前の判明した遺体千体、不明の遺体一万二千体を収集した。これが、国が予算をつけて遺骨収集を始める契機となった。山本氏は四十八年三月から六十二年まで沖縄への慰霊の旅を続け、その数は八十五回にも及んだ。彼は『沖縄戦に生きて』でこう書き記している。

 〈戦場の具体的な事例をあげて、真実を伝え、決して人に後ろ指をさされるような非人間的なことはなかったことを伝えたい。戦場では沖縄県民が示した人間愛の素晴らしさ、そして、私が沢山の人びとの情けで生き残ったことも知らせておきたかった〉

(編集委員・鴨野 守)

(世界日報 平成20年7月1日)

                     ◇

戦争体験者が語る体験談にはそれぞれのドラマがあるだろうし、そのドラマには光の部分もあれば影の部分もあるだろう。

影の部分のみに焦点をあて、針小棒大に「悪逆非道の日本軍」のキャンペーンを張る沖縄紙には辟易する。

「日本軍は住民を守らなかった」というイデオロギーまみれのスローガンが、いかに歴史を歪めているかは上記記事を読めば自ずとわかる。

記事は、皮肉にも「軍は住民を守らなかった」ではなく、

「住民が軍人を守った」ドラマを伝えているが、

そもそも「鬼のような日本軍」だったら、金城さんのように自分の身の危険も顧みず、山本少尉を助けたりはしなかっただろう。

そこに見えるのは自分の身の安全より、相手のことを気使う人間の心の尊さが描かれているではないうか。

このようなドラマは沖縄の新聞では、最近ではほとんど報じられることはない。

そんな中、「慰霊の日」の翌日24日の琉球新報社会面のトップを飾ったのは次の「見出し」であった。

「祈り 命を尊ぶ世界に」

「せめて子供たちへ・・・」 佐藤安枝さん 地獄の体験切々と

 この記事で紹介されている佐藤安枝さんとは、あの佐藤優氏の母上のことである。

記事は次のように始まる。

<戦前、那覇市にあった昭和高等女学校の元生徒で、埼玉県在住の佐藤(旧姓上江州)安枝さん(77)が、戦後60年以上を経て、沖縄戦体験を語り始めている。>

安枝さんら三姉妹は、浦添市の意思部隊の軍医部部に勤めるが、石部隊の師団が首里へ移動すると、同市に入ってきた旅団に就くが、直ぐに首里へ移動を開始する。

金城さんたちは、米軍の激しい攻撃の中、浦添から首里へ逃避行を続ける。

<旧真壁村の壕から、左脚が付け根から切れた軍曹を肩で支えて逃げようとしたが歩けなかった。 先に逃げろという軍曹に従えずにいると、軍曹に怒鳴られ、一人先へと走った。 「置いていったことを今でも思い出す」。つらい記憶を語る。>

佐藤さんは助けられずに置いていった日本兵のことを思い出して、今でも胸を痛めている様子が伺える。 

当時、わずか14歳の少女が、左脚が付け根から切れた軍曹を肩で支えて逃げることが出来ず、やむなく置いて逃げたことを、誰がとがめることが出来よう。 

あの状況では不可抗力だったのだ。 あの軍曹のことを思い出すことはあっても、もうこれ以上贖罪意識にさいなまれる必要はないと佐藤さんに伝えたい。

 

奇しくも二組の「沖縄女性と負傷した日本兵」のドラマを紹介したが、彼らの間には、冒頭に羅列した見出しのような「憎悪に満ちた住民と日本軍」の関係は読み取ることは出来ない。

そこに見えるのは、自分のことより相手のことを慮るいたわりの精神である。 

このように究極の場所で人間の尊厳を表すような証言は、「戦争賛美につながる」とのイデオロギーの下、沖縄の新聞からは姿を消してて久しい。

「軍は住民を守らない」をスローガンにを掲げ、日本軍糾弾のキャンペーンを張る報道姿勢に怒りを覚える、

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4 コメント

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沖縄の名誉のために (kuma)
2008-07-02 15:48:00
ほんとに、今回の投稿で思いました。

「住民を守らなかった日本軍人」の話を必死こいてする沖縄の人は「日本軍人を守った沖縄の住民」の心を踏みにじってますね。

っていうか、日本軍人を守ってくれた沖縄の住民の話をたくさんすれば、本土の人も沖縄の人に敬服すると思うんだけど・・・

沖縄は、本土を守るための前線となってしまったことはわかるけど、戦争を知らない世代にいつまでも、償ってくれと言っても、実質的にしかたのないこと。同情するのは、なんだか悪いことをしたと思いたがりの偽善者だけです。

それよりも、沖縄の人の勇敢さを伝える話をもと聴きたい。
沖縄紙が伝えない戦争ドラマ (狼魔人)
2008-07-04 08:38:58
kumaさん

返事送れてすみません。

沖縄の新聞が「戦争賛美」の名の下に、

決して報道しない、感動的な証言は他にもたくさんあるようです。

機会があれば紹介したいと思います。

聞いたことがないのですが、 (それで、)
2008-07-04 22:40:57
その当時問題の島に何人ぐらいの人がおられたのか知りませんが、全員一丸であったとは、有り得ませんよね。普通の人、異端児、反逆者(軍に対して)、逃亡者、etc。
色々な考え、事情が錯綜し絡み合っていたことでしょう。
なのに、軍命
から逃げた人
に逆らった人
を聞かなかった人
の一人や二人はいてもよさそうなのに、聞いたことがないのですが。
逆に、受けたと言う人は山ほどいるのに、11万人と同じようなものですか?

身支度を整えた人、首を吊って死んでいる人を見て羨ましいと思われた人、杯を交わされた人、天皇陛下万歳と叫ばれて自決された人、この方達は少なくとも軍命を歓迎されたことになるのでしょうか?
K氏も一応軍命を歓迎された部類に入るのでしょうが、今は「悪の巨塊」と言い振れ回っている。
と言うことは、受け止め方も人によって違うんですね。

軍命あり派の方用に新説
自決された方は軍命を歓迎された、
自決に失敗された方も軍命を歓迎された
生き残った方は、軍命を拒否した

となるとK氏は歓迎派でありながら拒否もしている?
一個人の内部で矛盾を来たしている。
どういうことなのか、誰か説明お願いします。
いや、ただの二重人格か?
と言うことは、現在の裁判では、精神とか心神何とかで、無罪、となるのでしょうか?
戯言、お邪魔しました。しかし、今だに軍命ありと主張されている人たちは、どうして矛盾に陥らないのか、やっぱり精神病を患っているのでしょうね?


Unknown (涼月)
2008-07-05 21:42:17
宗教みたいになっちゃってますからな。
軍命あった教とでも言えばいいのか。

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