狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

大江健三郎の屈折したエリート主義 「選ばれた読者」と「選ばれた民」 

2008-11-09 07:15:21 | 大江健三郎のいかがわしさ

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大江健三郎のいかがわしさの続編です。

           

≪ 『沖縄ノート』はいろいろな謎に満ちた作品である。なぜ、取材もなしに、このような重要な主張をふくむルポルタージュを書けたのか。事実の根拠もないままの日本軍へのあまりに露骨な嫌悪と、意外なほどに軽視されているアメリカ軍の存在は、いったいどういうことなのだろうか。これほど日本軍への嫌悪をもちながら、なぜ彼は沖縄以外での日本軍のかつての実体を探求しようとはしないのか。≫(評論家・渡辺望)

                 ◇

 大江健三郎は、ことさら難解な表現で読者に奇怪なハードルを課して、読者に「選ばれた読者」であることを強要する。 

「選ばれた」読者になることを欲しない筆者(狼魔人)は、大江の文学作品の読者ではないが、必要にかられて『ヒロシマノート』と『沖縄ノート』は読んだ。

だが、そのあまりの情緒過剰で難解な表現に辟易し、意味を捉えるのに難渋した。 

大江は自身が設けた奇怪なハードルを超えられない一般読者を「誤読した」として非情にも斬り捨てる。

読者が誤読するような、ーそれどころか、曽野綾子のような高名な作家さえも誤読するというー作品、それもドキュメンタリー作品なら、作品としては不良品であり、これを販売するのは読者を侮蔑しているのではないか。

「誤読だ」と切り捨てられた読者は、不良品を売りつけられたとして返金を要求してもよいくらいだ。

金返せ!

まぁ、それはさておこう。

大江は、昨年の11月11日、大阪地裁の証言台に引きずり出された。

一般読者には個人に対する罵詈雑言としか思えない自著の出版差し止めの「集団自決訴訟」の被告側証人としてである。

大江は、一般読者には馴染みのないラテン語の辞書の、更に馴染みの薄い辞書の二番目の意味をヒントにして、「罪の巨塊」という、日本語として熟していない大江独特の表現を用いて、渡嘉敷島の元戦隊長を断罪していた。

それを法廷で指摘されると卑劣にも読者の誤読だと開き直った。

作家が独自の表現を、自己の「文学作品」に使用するのなら是としよう。

だが、少なくともドキュメンタリーを標榜する作品で、それも他人を批判する表現に用いるのなら、

最低の礼儀として、その言葉に脚注をつけるべきだろう。

他人を罵倒する微妙な表現なら、なおさらのことで、注意書き等で、

「この本はラテン語の素養がない方は、誤読の虞があるのでご購読は遠慮願います」くらいの表示をしてしかるべきだろう。

さもなくば不当表示商品とされて、返金を要求されても文句は言えまい。(金返せはしつこい?)

しつこいついでに繰り返すが、驚いたことに、大江は「沖縄ノート」の中で、ラテン語のcorpus de・lic・tiをヒントにして、「罪の巨塊」という日本語としては熟していない造語を、

注釈もつけずに「死体」の意味に用いたというのだ.。

あまりにも高邁過ぎて、凡人には到底「選ばれた読者」になれる余地はない。

 

冒頭の引用文は評論家渡辺望氏が、「選ばれた読者」や「踏み絵」といったキーワードを使って大江健三郎のいかがわしさを、見事に一刀両断した論文の引用である。

渡辺望氏は昭和47年生まれ、早稲田大学大学院法学研究所終了(法学修士)で新進気鋭の評論家である。

これから同氏の「大江批判」の論文から「ヒロシマノート」、「沖縄ノート」に関連する部分を抜粋して、何度かに分けて紹介したい。

なお、同論文の全文を読みたい方は冒頭のリンク先で読むことが出来る。

                  ◆

以下引用。

渡辺 望 氏 「選ばれた読者」と「選ばれた民」 大江健三郎への一批判」   

(前段の大江と江藤淳との対談部分は省略)

 ここで大江は、自分が意識している読者が、いわゆる不特定多数の一般的読者ではなく、実は「選ばれた読者」を意味している、ということを言っている。しかもその読者すなわち批評家たちに対して自分は「誠実」である、というほとんど自惚れに近い自負を高言するのだ。「選ばれた読者」に対する過敏な意識こそが、大江にとって問題なのであろう。つまり、私家版の『個人的な体験』はこの「選ばれた読者」に向けて書かれたものにすぎない。このことは、大江という作家がもっている、不可思議な文学エリート主義とでもいうべき個性を示しているといえる。もちろん、江藤は最初から大江のそのような屈折したエリート主義の高慢を見透かしていて、もっと明瞭な形でそのことをこの対談で大江に言わせようとしたのである。

  「踏み絵」あるいは「ハードル」を乗り越えない限り、大江文学の読者は大江にとっての「選ばれた」人間にはなりえない、と大江は認めている。言い換えれば、大江の世界というのは、「選ばれた」人間によってのみ、ささえられているということになる。いうまでもなくここに認められるのは、とんでもない読者蔑視に他ならない。
 
 問題なのは大江の「選ばれた読者」という不可思議な文学エリート意識が、この大江の作風の変化と期を同じくして、大江の政治的方向性をも規定していることなのである。「読者」が「民衆」という言葉に置き換わるのである。江藤はこの対談で大胆にも大江に向かって直接、「あなたの創作方法はある閉鎖的操作で自分に味方する社会とそうでない社会にわけるんです」と言う。大江の作為が文学の次元に限定した行為であれば、「自分に味方する社会とそうでない社会にわける」ということの弊害は、せいぜい大江の文学のファンクラブをつくることにとどまったであろう。しかし政治的価値判断に敷衍してしまうとき、大江のこの意識は、極端に頑迷な政治的主張を解禁してしまうのである。

  ここで、『個人的な体験』と『万延元年のフットボール』の間に書かれた『ヒロシマ・ノート』という書を取りあげてみよう。

 『ヒロシマ・ノート』は、そのあまりにセンチメンタルな記述の連続に、かなり辟易とさせられるのであるが、『沖縄ノート』と異なり、被爆者への取材や反核政治集会への参加など、とりあえずはルポルタージュの体裁を整えている作品にはなっている。しかし、この書においても、大江の「選ばれた読者」への意識は、あちらこちらに充満している。「個人的な体験」の私家版を書いた大江と実はまったく同一なのである。
 
 いうまでもなく、第一義に大江が「選ばれた読者」として意識しているのは、この作品内部にあらわれる、悲惨な体験をした広島の被爆体験者たちである。彼らに対しての祈るような描写と思いいれは、多くの読者に、大江が純粋に広島の被爆の世界を描こうとしているのだ、と一読して感じさせそうになる。

 だが、『ヒロシマ・ノート』の中の、次のような実にいかがわしい表現を見逃すべきではない。

 中国の核実験にあたって、それを、革命後、自力更生の歩みをつづけてきた中国の発展の頂点とみなし、核爆弾を、新しい誇りにみちた中国人のシムボルとみなす考え方がおこなわれている。僕もまたその観察と理論づけに組する(原文ママ)。しかし、同時にそれはヒロシマを生き延びつづけているわれわれ日本人の名において、中国をふくむ、現在と将来の核兵器保有国すべてに、否定的シムボルとしての、広島の原爆を提示する態度、すなわち原爆後二十年の新しい日本人のナショナリズムの態度の確立を、緊急に必要とさせるものであろう。したがって広島の正統的な人間は、そのまま僕にとって、日本の新しいナショナリズムのシムボルをあらわすものなのである。    

 この文章は、前半と後半で、まったく内容矛盾を来たしている。当時の中国は文化大革命のもっともひどい時期にさしかかっており、左派ジャーナリズムの偽宣伝が横行していたとしても、中国で何か重大な異常事態が進行しているらしいという情報は、大江にももたらされていたはずである。しかしその可能性を全く切り捨て、のみならず、核兵器保有を、「新しい中国人のシムボル」とみなす「観察と理論付け」に与する、と大江はいう。そして後半部分になると、同じ核兵器であっても、広島における核兵器の使用はマイナスであったということを、核保有国に対して主張し、新しい日本のナショナリズムとして主張しなければならない、というのである。

 広島の被爆ナショナリズムのセンチメンタルな主張の貫徹のためには、単に、核保有国の中国を非難するか、文章上、あえて無視すればいいはずである。しかしあえてなぜこのようなくだりを付け加えるのか、といえば、大江は欲張って、「ヒロシマ」という真実に、もう一つ、「アジアの共感」という真実を盛り付けようとしているのである。真実は一つであればいいはずであるが、幾重にも「いい子」であろうとする大江は決して一つの真実では満足しないのである。
 
 言い換えれば、中国という「選ばれた読者」を想定して、彼は、「広島への祈り」をあえて修正してしまったのだ。このことは「個人的な体験」の私家版の作成とまったく同じ精神的地点より生じている。編集者・批評家だった「選ばれた読者」が、「選ばれた民衆」となって、「ヒロシマ」に、そして「中国」に姿を変えて、江藤がいう「自分に味方する 世界」をつくりあげてしまっているのであるといわなければならないであろう。

 

 この『ヒロシマ・ノート』のしばらく後、『万延元年のフットボール』のさらに後にかかれた『沖縄ノート』では、大江の世界のメカニズムはさらに露骨な形をとる。(続く)

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2 コメント

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Unknown (涼太)
2008-11-09 23:38:00
狼魔人様

大江健三郎は、裁判で
「命令したとは書いていない。軍の構造を書いた。」とか「時限爆弾としての命令があった。」とか裁判では逃げまくっています。
裁判官はそのよう大江の詭弁を、全て退けています。
所詮その程度の人間なんでしょう。
大江のいかがわしさ (狼魔人)
2008-11-11 11:12:28
涼太さん

>所詮その程度の人間なんでしょう。

最高裁の裁判官はもっと程度の高い人間だと期待したいです。
岩波とかノーベル賞とかの権威に惑わされないで欲しいですね。

被告側の場外乱闘に対抗するには、今のうちに大江のノーベル賞の虚像を叩き潰しておく必要があります。

ネットが普及した昨今でしたら、ネジズンがその気になれば可能だと思いますが。

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