よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします
戦後65年にもなると物故した戦争体験者も多く、また当時幼なかったり少年だった体験者が口を開く場合も多い。
琉球王国の血筋を引く日本軍将校が沖縄戦で亡くなって、その骨を拾ったという元農林学校・大城さんの証言である。
65年後 遺族と対面 元農林学徒・大城さん2010年6月21日
沖縄戦当時、県立農林学校生徒で農林鉄血勤皇隊として動員された大城仁光さん(80)=糸満市=は、米軍との戦闘で亡くなった農林隊の配属将校だった尚謙少尉の遺族と戦後65年目に初対面を果たした。大城さんは当時、亡くなった尚少尉の遺骨を取りに戦場に戻るよう命令を受けており、琉球王家の血を引く尚少尉の最期を知る数少ない生存者の1人。大城さんは8日に那覇市首里にある尚家の神ヤーを訪ね、尚少尉のおいに当たる桃原農園社長の尚厚さん(72)と対面し、尚少尉の位牌(いはい)に手を合わせて冥福を祈った。
尚少尉に率いられた農林隊は、東村内福地で米軍の猛攻を受けた。15歳の少年だった大城さんは岩陰に隠れて銃撃を逃れたが、尚少尉ほか10人が亡くなった。
大城さんは内福地を離れた後、東村有銘で二中隊の配属将校、高山代千八中尉から尚少尉の遺骨を取ってくるよう命令を受けた。2日間かけて内福地に戻り、半ば白骨化した尚少尉の体から鎖骨を取り川で洗い清め、白い布にくるんだ。有銘に戻り高山中尉に遺骨を託した。その後、高山中尉は本土に帰ったという。「遺骨はちゃんと家族に届けられたのか」。役目を果たせたのか心にずっと引っかかっていた。
(略)(慶田城七瀬)
◇
沖縄紙で沖縄戦関連の記事を読むほとんどの読者のほとんどは、大体次のような先入観を持つ。
「戦前・戦時中の日本軍は残虐非道であり、一方敵であるアメリカ軍は人道的であった」と。
事実、そのような意味のことを平気で書く識者もいるし、それを掲載する新聞もあるくらいだから、無意識のうちに「日本は沖縄住民を虐殺に来たのだが、米軍が解放た」という錯覚に陥る読者もいるくらいだ。
沖縄紙が報じる沖縄戦は終始「日本人(日本軍)vs沖縄住民」という対立構造で描かれている。
日本軍の中にも、例えば『鉄の暴風』に登場する知念副官のように、多くの沖縄人がいたことは事実だが、たいてい悪役として描かれている。
沖縄戦史を研究している星雅彦氏によると、沖縄戦体験者の聞き取り調査の過程で日本軍の行った「善行」はすべて公的刊行物から削除され、
中には父親を米兵に虐殺された証言者が、射殺したのは「アメリカ兵ですよ」と何度も繰り返し念を押したにもかかわらず、実際は公的刊行物に「日本兵に射殺された」と記載されたという。
上記琉球新報記事には、琉球王家の血を引く尚少尉と高山大尉に関わる記事だが、本稿の主題は戦死した尚少尉ではなく、その骨を拾った高山大尉についてである。
ここで、ひとつの疑問が生じてくる。
尚少尉が県立農林学校の配属将校として北部地域に居たことは理解できるとしても、那覇の県立二中(現在の那覇高校)の配属将校である高山大尉が北部に居たのには何かわけがあるのか。
南部戦跡にある「沖縄師範・健児の塔」や首里高校内にある「一中・健児の塔」でもわかるように、沖縄の額とは第32軍とともに南部に移動したはずだ。
従って沖縄師範や県立一中、さらに「ひめゆりの塔」の県立一高女や「白梅の塔」県立二高女の学徒も皆南部に移動したため多くの死傷者を多く出したことが知られている。
それに比べ県立二中だけが那覇にある学校でありながら、北部に移動したため比較的死傷者が少なかったといわれている。
そのためか、「二中健児の塔」現在どこに建立されているかを知る県人は少ないし、二中や那覇高校関係者でさえもほとんどが知らなかった。
現在、那覇高校、二中卒業者の間で「創立100周年行事」が10月におこなれるための準備が着々と進んでいるようだが、何ゆえ二中だけが第32軍の命令に逆らって北部に移動し、そのため死傷者が少なかったのか、その理由を知る人は少ない。
実は当日記は、三年前に、その謎を解く記事をエントリーしているが、改めて高山大尉について取り上げる気になったのは、先月の8月15日の終戦の日に、高山大尉の親族の方からメールを戴いたからである。
偶然に当日記の古いエントリー見て、(お祖父さんにあたる)高山大尉の奥様(お祖母さん)見てもらったところ涙を流して喜ばれたという。
その記事を紹介する前に、関東在住の那覇高、二中出身者の同窓会である「関東城岳同窓会」の中にその謎を探ってみた。
以下引用です。
<太平洋戦争と県立第二中学校
沖縄におけるあの過酷な地上戦は当然のことながら二中の生徒達の頭上にも等しく襲い掛かった。しかし、女子師範・一高女の”ひめゆりの搭”、二高女の”白梅の搭”、一中の”健児の搭”に相当するものは幸運にも二中にはない。
伝えられる所によると、二中は南部の高嶺村に配置される予定だったが、ガダルカナル生き残りの配属将校高山大尉が「南へ行くとあぶない、北へ行こう」と指示、山城篤男校長(5代校長)もそれに呼応し、「いったん家に帰って肉親と別れを惜しんで来い」と帰省させたが、そのころには、首里、那覇のそれぞれの家族はみんな国頭に疎開していたため、疎開先の国頭に会いに行ってしまった。そのうち米軍の上陸で島が南北に両断されて、戦闘に参加出来ず、そのまま終戦を迎えた・・・と。
太平洋戦争の終結と共に我等が沖縄県立第二中学校は歴史の彼方に去っていった。 >
つづく
【おまけ】
同じように沖縄紙が無視する沖縄出身の軍人の例に、座間味沖に集結し島を取り囲んだ米艦船に特攻攻撃をかけ散華した伊舎堂大尉がいる。
昭和20年の3月26日。慶良間諸島の座間味島では忌まわしい集団自決が行われた。
これに関する膨大な記事が沖縄タイムスに掲載されたことは周知のことだが、その同じ日の26日の早朝、
慶良間洋上を埋めつく米艦船に特攻し散華した沖縄出身の伊舎堂大尉のことを報道した記事を、少なくとも筆者は見た記憶はない。
よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします
故に、缶詰,乾パン、乾物などなど沢山の食料を持っていた。
一般県民は、平素から食料に事欠く状況だったのが、当時の沖縄県である。
白米をそうそう食べられる状況では無かったし、県民の大半は裸足であった。
現在も県民の尊敬を受ける島田叡知事が、制空権を奪われた中を台湾に飛び、糧米を県民の為に調達しなければ、多くの餓死者がでたものと思われる。
本土復帰が佐藤ニクソン会談で決まった、’69年以前と以降では沖縄戦が全く違った語られ方をしている。
真実は、食料をもらったのは、一般県民であり、提供者は軍人であった。
当時の日本軍は死ぬ覚悟で沖縄戦に臨んだのではなく、如何に立派な死に方をするかという覚悟で臨んだのである。
そのような覚悟の有るのもが、老人と女子供だけの避難民をみて「缶詰でも何でも持てるだけ持って行きなさい」というのは、珍しくなかった。
先日、桜チャンネルの動画を見ていたら、上原義雄氏(元教員)は話の中で沖縄戦にふれ、日本軍から沢山食料を貰った事を語りながら胸を詰らしておられましたが、当時の兵士がサムライであったことは事実です。
沖縄のおじー、おばーは本当の事をあの世に行く前に語るべきだと小生は思っている。
前にもコメントしましたが、戦争の直接体験者のオジー、オバー達には日本軍に対する尊敬の念があります。むしろ戦後生まれの人達が日本本土への憎悪を剥き出しにしていました。
私の知り合いのオバーも確かに集落単位で疎開し、食糧の配給もあり、野菜などは自分たちで作った。と話しておられました。極限下の集落の人達同士の醜いドラマはあったと言いますが、被害者と加害者が現在も同じ集落内で生きていいるので、その話はタブーだと言います。要するに金武町の田中軍曹と似たような話が、沖縄中の集落で聞かれるようです。元琉球政府の照屋さんの証言の様に「本当の事を言ったら沖縄では生きていけない。」も、うなずけます。その様な沖縄の人達の弱みに左翼団体が付け込んだのが、今の沖縄の実体なのかなとは思います。