狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

県民かく戦えり! 大田実少将の遺言

2006-06-22 07:41:28 | 未分類

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事件は会議室で起こっているんじゃない!」。

「現場で起こってるんだ!」。

これは、映画「踊る大捜査線」の織田祐二扮する青島刑事の名セリフ。

本庁の幹部達が会議に明け暮れる中、事件の現場に乗り込み凶器に倒れる青島刑事の後姿と共この言葉が観客の胸を打った。

映画では特捜本部に本庁からやり手の女性本部長が送り込まれる。

彼女は青島刑事の現場主義を批判する。

そして有能な幹部が会議室から出す的確な指示・命令こそが最重要と言い放つ。

現場は余計なことを考えずその指示・命令に従えば事件は解決すると云うのだ。

言わば、現代日本のあらゆる組織が持つ、現場派と会議室派の葛藤がこの映画のテーマである。

                     *

この現場と会議室の葛藤は現代だけの問題ではない。

組織が持つ現場派と会議室派の葛藤は遠く明治の時代から、先の戦争の軍隊組織においても見られた。

62年前の沖縄戦で、現場の指揮官をしていた大田実海軍少将は、東京の会議室で現場に指令を出す海軍次官に遺言ともいえる長文の電文を送った。

レインボーブリッジの現場に立つ青島刑事と同じく満腔の怒りを込めて。

戦争は作戦室で起こっているんじゃない!」。

「現場の惨状を作戦室は知れ!」と。

今月の14日の沖縄タイムスは、戦地現場である海軍壕で自決した大田実司令官と戦没将兵4000人の慰霊式典を報じた。

太田実少将が豊見城の海軍壕で自決したのは1945年(昭和20年)6月13日。

毎年この日には遺族が集まって何故か密やかに慰霊祭が行われる。

現場の司令官や将兵の慰霊祭と言う理由で地元新聞の取り扱いは他の戦没者慰霊祭に比べて扱いが小さい。

沖縄戦で戦没した朝鮮人の慰霊碑でさえ建立して大々的に報じるのに。
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/6344846c2b9598aab
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しかも大田司令官が命を賭して東京の「会議室」に現場・沖縄の惨状、住民の命がけの協力を打電し、「県民斯く戦えり。 今後のご高配を」と結んだ事には新聞は一言も触れていない。

県民が戦争に協力したのは平和運動にはそぐわない」というのが地元メディアの大田司令官への冷遇の原因らしい。

平和学習として沖縄の戦跡を修学旅行に取り上げる学校が増えているが、沖縄戦の現場の報告を血を吐く思いで東京の会議室に報告して自決した大田司令官の終焉の地「海軍壕跡」は平和学習コースからは何故か外されている。

沖縄の戦後復興についても気にしながら自決した大田実司令官について沖縄のメディアは冷めたい。

沖縄タイムス 2006年6月14日(水) 
 
旧海軍司令部壕慰霊祭

 沖縄戦で、旧海軍司令部壕やその周辺壕などで亡くなった旧日本海軍関係者や現地招集された住民など四千余のみ霊を慰める「旧海軍司令部壕慰霊祭」(主催・沖縄観光コンベンションビューロー)が十三日、豊見城市の旧海軍司令部壕公園で開かれ、県内外から参列した約九十人の遺族らは献花や焼香をし、冥福を祈った。
 同ビューローの仲吉朝信会長は「尊い命や文化遺産が失われた悲しみは癒えない。戦争体験を風化させず、平和な沖縄を次世代へ引き継ぎたい」と述べた。

 夫が大田實司令官の四男だという大田昌子さん(59)は「国のためといえ、家族を残して先立たなければならなかった義父の気持ちを考えるとやりきれない」と話した。
 


                   ◇

太田実海軍少将が万感の思いで東京の海軍次官宛てに打電した、遺言ともとれる長文の電文を下記に紹介する。

注:読みやすさを考え,原文漢字カタカナ混じり文を平仮名に直し,句読点を付加した。 これを筆者が更に読みやすく書き直した。

◆海軍沖縄特別根拠地隊司令官
大田実少将(自決後中将に昇進)海軍次官宛電文

昭和20年6月6日付け

「沖縄県民かく戦えり!」

「県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを!」

沖縄県民の実情に関して、報告は本来県知事より報告すべき事だが、県には既に通信力はなく、第三十二軍指令部(牛島中将の最高司令部)も通信余力がない。

県知事の依頼を受けたわけではないが、沖縄の現状を見過ごすに忍びないので、私大田司令官が知事に代わってご緊急に報告する。

敵が沖縄に攻撃開始以来、陸海軍とも防衛戦闘に精一杯で、県民を顧みる余裕は殆どなかった。

しかし、私の知る限り県民は青壮年の全てを防衛召集に捧げた。

残りの老幼婦女子は、相次ぐ砲爆撃で家屋と全財産を焼き出され、軍の作戦の邪魔にならない小防空壕に避難、しかも爆撃、風雨に晒される窮乏生活にあまんじた。

しかも若い婦人は率先して軍に協力し、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運び、斬り込み隊をを申し出る者すらあった。

所詮、敵が来たら老人子供は殺され、婦女子は拉致され毒牙にかかってしまうと、親子生き別れになり娘を軍営門に捨てる親もいる。

看護婦に至っては、軍移動に際し、衛生兵は既に出発した後なのに、身寄りのない重傷者を助けて、その行動は真面目で一時の感情で動いているとは思われない。

更に軍の作戦大転換があり遠隔の住民地区が指定されると、輸送力がないのにもかかわらず、夜間、雨の中を自給自足しながら移動するものもいた。

要するに、陸海軍が沖縄に進駐して以来、県民は終始一貫して物資節約を強要され、ご奉公の心を抱き、遂に勝利する事無く、戦闘末期には沖縄島は形状が変わるほど砲撃され草木の一本に至るまで焦土と化した。

食料は六月一杯を支えるだけしかないという。

沖縄県民はこのように戦った。

沖縄県民に対して後世になっても特別の配慮をお願いする。

打電を終え、大田実海軍少将はその一週間後、現場で自決する。

享年54歳。

なお現場の大田司令官が打電した相手、「会議室」の海軍次官・多田武雄(将官議員)は終戦の8年後、62歳で没している。

沖縄戦の現場で県民と共に戦い、県民の蒙った惨状を見かねて戦後の県民の行く末までも心配して「会議室」に報告後自決した大田実少将。

この大田少将に対する県民の態度は冷たい。 これも地元メディアの影響か。

戦後、日本軍批判の先鋒を担いだ「鉄の暴風」と言う言葉の原型は大田少将の「沖縄島は形状が変わるほど砲撃され草木の一本に至るまで焦土と化した」と言う電文に伺い見れる。

「鉄の暴風」で沖縄島の地形を変える程の焦土作戦を行こない無差別に住民を殺戮したのは米軍なのに、何故か戦後この言葉は日本軍人を糾弾するキーワードと化す。

県民は「鉄の暴風」の下手人の米兵の顔を直接見ていない。

米軍は沖縄住を日本人から分断する占領方針から沖縄住民には「優しく」対応するようにしていた。

沖縄住民は、やっと命が助かりほっとした時に、「優しく」年寄りや子供に手を差し伸べる米兵の顔だけを見ている。

自分達は安全な戦艦の中にいて、そこから艦砲射撃という「鉄の暴風」を吹き荒れさして住民を無差別殺戮した米兵のもう一つの顔を見ていない。

一方、自分達を守れず、食料補給もままならず、痩せこけて、圧倒的物量の米軍の前に醜態も晒しただろう敗残兵としての日本兵の顔を沖縄住民は現場で見ていた。

そしていつしか「鉄の暴風」を実行した米軍ではなく、そういう状況に沖縄住民を陥れた日本軍こそ敵だったと言う理屈に一気に飛躍する。

食べ物をくれた米軍は解放軍、「鉄の暴風」を防止できなかった日本軍は敵軍、という理不尽な論理だ。

その結果が、復帰後続く「物呉ゆしどぅ我御主」、「命どぅ宝」の伝説である。

県民と共に戦い、県民の行く末を案じつつ現場に散った大田司令官と海軍将兵の霊に、

合掌。

                   ◇

大田実少将の魂の叫び「県民かく戦えり。 」の電報・原文を煩雑を承知で下記に記録する。。(不明な箇所は□で表わしている。)

沖縄戦関係資料室http://www.okinawa-sen.or.jp/050707/index.html

 沖縄県民斯く戦えり

発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官

 左の電文を次官に御通報方取り計らいを得たし

 沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せらるべきも、県には既に通信力なく、32軍司令部また通信の余力なしと認めらるるに付き、本職、県知事の依頼を受けたるに非ざれども、現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急御通知申し上げる。

 沖縄島に敵攻略を開始以来、陸海軍方面、防衛戦闘に専念し、県民に関しては殆ど顧みるに暇(いとま)なかりき。

 然れども、本職の知れる範囲に於いては、県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子のみが、相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、僅(わず)かに身を以って軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難、尚、砲爆撃下□□□風雨に曝されつつ、乏しき生活に甘んじありたり。

 しかも若き婦人は、率先軍に身を捧げ、看護婦烹炊(ほうすい)婦はもとより、砲弾運び、挺身斬り込み隊すら申し出る者あり。

 所詮、敵来たりなば、老人子供は殺されるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて、親子生き別れ、娘を軍衛門に捨つる親あり。

 看護婦に至りては、軍移動に際し、衛生兵既に出発し、身寄り無き重傷者を助けて□□、真面目にして、一時の感情に駆られたるものとは思われず。

 さらに、軍に於いて作戦の大転換あるや、自給自足、夜の中に遥かに遠隔地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者、黙々として雨中を移動するあり。

 これを要するに、陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、物資節約を強要せられつつ(一部はとかくの悪評なきにしもあらざるも)ひたすら日本人としての御奉公の護を胸に抱きつつ、遂に□□□□与え□ことなくして、本戦闘の末期と沖縄島は実情形□□□□□□

 一木一草焦土と化せん。糧食6月一杯を支うるのみなりという。沖縄県民斯く戦えり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。

                  *

★付録①;大田実少将自決前日、最後の電報

発 沖根 昭和20年6月12日 1335

一、朝来、敵戦車および歩兵、当司令部壕外に蝟集(いしゅう)し、煙弾を打ち込みあり
二、我方、およそ刀をもって戦いうる者は、いずれも敵に当たり、然らざる者は自決しあり
三、74高地2か月余りの奮闘も、本日をもって終止符を打つものと認む

発 沖根 昭和20年6月12日 1619
これにて通信連絡を絶つ

 

★付録②大田司令官の三女、愛子さんの歌

身はたとへ沖縄の野辺に朽ちるとも祖国守ると父は逝きにし

参考文献
『沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』、田村洋三、講談社文庫 

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