退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「宗教と占いとコント」について

2012-03-17 03:28:08 | Weblog
くもり。寒さは緩む。

ニクラス・ルーマン「宗教論」を途中まで読む。

まだ「コツ」がつかめていないのか相変わらず読みにくい文章。
「内在と超越」というコードについて少しだけわかったつもり。

詳細を説明できるほど理解できるかどうかは不明。
とりあえず読み進めることにする。

「将来の夢は女優」という少女に「突っ込みが早すぎる」と言われる。
彼女は友人から「相当なマイペース」だと言われているらしいのだけれど。

「占いは信じるの?」と聞かれたので
「仲間内で遊ぶ時にツールとして使うだけ」と答える。

要は書かれている内容を元にあれこれしゃべるということ。
当人のキャラを面白おかしく指摘するという「ゲーム」をするわけ。

それが当たっていようがいまいがどうでもよく
「誇張の度合」がおかしさを生めばそれでよし。

たとえば「常に申し訳なさそうな顔」をしているヤツがいれば
「前世でかなりヤバいことをしたのだろう」と言う。

「ひょっとして現世でもしてるんじゃないか」とたたみかけ
「今のうちに懺悔しておけ」と勧めたりして。

「そんなことはない」と言う相手に
「そういうヤツに限って何かしらしてるもんだ」とかぶせる。

誰にでもある「後ろめたい過去」を思い出してちょいと考える素振りが見えたら
すかさず「ほらほら喉元まで来てるから」と促し。

「楽になれるよ」と言いつつ
オーソドックスな「刑事と犯人のコント」が始まり「カツ丼食うか」という展開に持っていく。

そこで「設定を理解している友人」なら「すいませんでした、オレ実は」などといった台詞をのたまうので
「今はいいから。早く食わないとカツ丼冷めちゃうぞ」と煙草に火をつけるポーズで「キメる」。

「オレも昔はな」と「余裕」を見せつけたりするところで
唐突に犯人役の友人が「刑事さん、たしか○○さんでしたよね」と聞く。

「ああ、そうだが」と答えた後で相手が一瞬のためらいののち「お父さん」とつぶやく。
そこで犯人が「別れた妻の子ども」である「事実」がどういうわけか発覚する次第。

立場が完全に入れ替わり「なぜぼくらを捨てたんですか」と問い詰める息子に「父親」は
「お前の顔がキライだったんだ」と答える。

エイドリアーン。

映画「ロッキー」のテーマが流れ「息子」は立ち上がって尋問部屋を出る。
崩れ落ちる「父親」の背中に当然のように「夕日」が当たる。

警察署の外で待っている母親もいればさらに「新たな展開」も。
もちろんそうなると「話」はどこへ行くのやら。

そうした友人たちがいれば別に神などいらない。
神も仏もいずれ「物語」。
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「銭儲け」と「縁側の幸福」について

2012-03-16 03:42:34 | Weblog
晴れ。風強く夜に冷える。

「戦争と資本主義」読了。

「あとがき」にもあったのだけれどわが国で言えば朝鮮戦争とベトナム戦争、
アメリカで言えば最近のイラク戦争などを思い出せばよい。

「高度経済成長」を可能にした前者と
ハリバートン社を代表とする「戦争商社」が儲けた後者と。

思えばネットもそもそもは「軍事用」に開発されたものだったはず。
「植民地支配による経済拡大路線→さらなる軍備増大→それによる経済の発展」という仕組みの「妙」。

最近ではさすがに「植民地」はマズいので
「民主主義」を「御旗」にしてその国の経済を牛耳る模様。

「儲かる楽しさ」を知らない身分としては
「何が彼らをそうさせるのか」とあらためて聞いてみたいところではある。

引き続き田辺聖子「一生、女の子」を読む。

雑誌の特集記事を元にした文章とインタヴューや作品紹介、
巻末には鶴瓶との対談が収められている。

今は亡き父親と同い年生まれの著者の過去の作品が
最近では若い女子に人気を博していたりするらしい。

もっとも著者の小説でなくエッセイに親しんだのみの「よろしくない読者」なので
どのあたりがどう評価されているのかの詳細は不明。

「言葉」と「笑い」の貴重さをおだやかに伝える姿は好ましく
「上品な関西弁」に接することができるのがありがたい。

いまだに「大人」になっていないという発言からは
「『少女』の純粋としたたかさ」が同時に感じられる次第。

たしか著者のエッセイに接することになったのは
映画「ポセイドン・アドベンチャー」をもじった「お聖どん・アドベンチャー」が最初だったか。

「不倫は家庭の常備薬」という「刺激的」なタイトルの作品もあり
かつて「不倫は文化だ」と言った石田純一が総スカンをくったのはやはり「人徳」のせいかもしれない。

素直にうなずきたい人々、とりわけ女子にとっては「いいモデル」なので参考までに。
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「軍隊」と「兵士」について

2012-03-15 03:23:56 | Weblog
晴れ。冷えはやや緩む。

ヴェルナー・ゾンバルト「戦争と資本主義」を途中まで読む。

「軍隊」はそもそも「巨大化」するもの。
なぜなら「敵」に「勝つ」ためにはより強大な軍事力が必要になるから。

さらには武器の調達や傭兵あるいは徴兵で集団が大きくなることが
「武器製造」の「近代化」を生みそれが「資本主義」を進めたという見立て。

「技術革新」と「大きな市場」が用意されたと思えばいいのか。
なるほどそういう「視点」があったかということ。

その始まりには「貿易」があり
それぞれが「植民地という市場」と「利益」を確保するための「行動」であることを忘れずに。

初期の「軍隊」は「傭兵」によって作られ
彼らが勝手な行動を取らないようにするため「軍隊の近代化」があったと。

現代においても「教育」を強制され「24時間戦える戦士」となるべく育てられるのは
「一種の軍隊」だと思えばうなずける。

就職活動で「体育会系」が重宝されるのも然り。
彼らは「上司=先輩」の言うことはよく聞く存在だし。

「ひよわな若者」を鍛えるための自衛隊入隊などが時折言われたりするけれど
要は「兵士」をより多く作るためだと思えばいい模様。

さて。

彼らは誰のために何のために「戦う」のだろう。
「国家」のために「戦う」のだろうか。

そこで問題になるのは「国家」という存在で
実はその正体が「兵士」を使って自らの利益を得るだけの「特定の集団」だったりして。

自らの「承認」のために「国家あるいは多国籍企業」という「大きなもの」に身を預けるのもいいが
わずかであれ「誰かに利用されている」のかもしれないという疑問も必要。

むしろ「具体的な他人」のために生きるのがいい。
いたずらに「身内を守る」だけなのはよろしからず。

もちろんこれらは「男子特有の考え」であり
そうした男子を相手に少なくとも女子はどう思っているのかはチェックしておくべきだと思われる。

自分が女子なら正直「男子ってめんどくせー」というあたりに落ち着きそうではあり。
もっとも「オヤジ遺伝子」を受け継いだ女子は彼らに賛同したりするかも。

何ともややこしいこと夥しいかぎり。
まあ「兵士」ばかりが「職業」でないことは知っておいていいはず。
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「気付くことと気付かないこと」について

2012-03-14 03:16:36 | Weblog
晴れ。夜にはまた冷える。

中古智・蓮實重彦「成瀬巳喜男の設計」を今頃読む。

映画作品において美術監督が内容を決めることがあることを知る。
「プロの仕事」というものの凄さにあらためて感じ入ることしきり。

一方でその美術監督の思いをきちんと受け止められる監督がいる。
実に「贅沢で幸福なコミュニケーション」。

さらにはそうした「事実」を引き出すインタビューの技も忘れずに。
取材相手に「何事か」を感じさせることが「秘訣」。

いずれも相手の仕事ぶりを「正確に」捉えることのできる「視線」を持っているかどうか。
自らを省みると心許ない限りで。

「総合芸術としての映画」においては
「チームプレイ」の素晴らしさが浮かび上がる格好。

ある種の好ましい「水準」はたとえばサッカーにおいても同様。
「キラーパス」はそれを可能にする「出し手」と「受け手」がいて初めて「成立する」ということ。

そしてそれらを「正しく評価する者たち」も必要。
もっとも「不幸な出会い」もあるのでそのあたりは「巡り合わせ」なのか。

できれば「いいもの」を見分けることのできる「視線」を持ちたいもの。
そして「何事か」を感じさせる「発信」もできれば。

いかにも「野暮」な望みだと知りつつ
あれこれと気の多いままに。

「ゴジラ」が監督以外は「成瀬組」で撮られたことを迂闊にも初めて気付いた次第。

いやはや。
「頼りない自分」とは我慢して付き合うよりない。
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「居場所」について

2012-03-13 03:02:48 | Weblog
くもりのち晴れ。風強く夜に冷える。

阿部彩「弱者の居場所がない社会」を読む。

印象的なのは「ホームレスのかっちゃん」。
彼は他人に暴言を吐くものの「新入り」にやさしいところもある。

全体で見れば「マイナス要素」の多い人間だろう。
結局彼は酔って眠っていたテントに放火され死んだのだけれど。

そうした人を受け入れる「社会的包摂性」が重要なのだと著者は言い
ある程度まではうなずけるとはいえ「実行」はというとなかなか。

「格差の大きい社会」では「上位」にへつらい「下位」を踏みつける
「自転車反応」というものが蔓延するらしい。

あるいは「富める者」がさらに富を得る「マタイ効果」も大きく作用する模様。
他人に敵意を持ちやすい社会にもなるのだという指摘もあり。

「経済的・精神的余裕」がないと「他人にやさしく」なれないのは「事実」。
人々をそうした「環境」に追い込むものをなんとかすべきだろう。

「孤立」しないまま適当に「ひとり」も確保しておきたいところ。
よくも悪くも「他人とのお付き合い」はあった方が好ましい。

そのためには一度「失敗」した人間がいつでも「やり直せる」環境整備が必要。
そうなると「おばちゃんのおせっかい」も案外大切なものになってきて。

眠くなってきたので寝る。
「眠る場所」があるのはありがたい。
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「才能」について

2012-03-12 03:26:25 | Weblog
晴れのち雨。少し濡れる。

今日は仕事関係で「早朝」から出かけることになり
めんどくさいあれこれをこなしたあと同僚と吉野家で昼を食べ図書館へ。

小倉千加子「結婚の才能」を読む。

「分析」はないけれどと言うより
こうした「描写」が「女子の分析」なのだと思う。

「娘」が「母親の影響」をよくも悪くも受けるのは長い間そばにいる「先達」だから。
おそらくそれは「実年齢」を問わない「事実」だろう。

もちろん「息子」も同じようにそばにはいるもののどうも「具合」が違う。
「異性」だからとまとめるのが適当かどうかは不明。

「男子」はどちらかというと「単純さ」において「自分」を発揮するのに対して
「女子」はどうやら「複雑さ」を生きているとでも言えばいいのか。

「知性」というもののあり方が違う印象。
もっとも「いろんな人」がいるのは楽しいわけで。

偏見なら申し訳ないが「女子」には揺るぎない「だってこうなんだもの」がある。
おそらくそれは一見「堂々とした男子の結論」とは別物だがより「力強い」。

「根拠」というものの捉え方が違うと言えばいいのか。
「出来そこない」にすぎない「男子の勝手」なのかもしれないけれど。

互いに「妄想」の持ち主であることは間違いないので
それらがどうやら「我慢」できるものであれば幸い。

大いに共感できるのは「従来の生活習慣」を「変えたくないこと」。
それでも「ご縁」を待つ気持ちはあったりもして。

さて。

「何を待っているのか」と問われた時に
「まちぼうけなのさ」と答える「余裕」はあるのかないのか。

「まちぼうけ」とは文字通り「待ち」ながら「呆ける」ことではある。
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「現実」はすでに「映画」を超えていることについて

2012-03-10 03:30:13 | Weblog
雨。結局一日降る。

「政府は必ず嘘をつく アメリカの『失われた十年』が私たちに警告すること」読了。

かつての広瀬隆「危険な話」と同じくらいインパクトがある内容。

いわゆる「多国籍企業」は自らの利益の確保のために広告会社の戦略に従い。
それらの企業から「広告費や研究費」その他をもらっているマスコミや学者も協力し。

「ニセの現実」が作り上げられ人々はそれを信じる。
その結果「1%が99%を支配する」という構図が完成すると。

「ニセの現実」の「嘘っぱち」を暴こうとする者たちには「クビ」や「妨害」が押し寄せる。
映画の中だけの話だと思っていたらとうの昔に「現実」になっていた。

今更そのことに気づく「うかつさ」よ。
その種の「リテラシー」を持たないといたずらに生きにくくなる模様。

もっとも持ったとしても生きにくさに変わりはなく。
ただしそれらの動きを止めることもできないわけでもなさそう。

「消費者」としてできる最大の抵抗は「不買運動」なのかも。
テレビも観ず新聞も読まず「多国籍企業」の商品も買わずとか。

その上で「事実」を報じるメディアや学者を確保すること。
そのために彼ら彼女らを「支援」すること。

要は「信頼できる筋」のみにお金を使うことが重要なよう。
「情報の中立性」を担保するには「金の出所」をチェックも忘れずに。

大統領選挙に莫大な費用がかかるアメリカでは
仕方なく「多国籍企業」からの献金を求めることになり。

かつて「ヒーロー」だったオバマもそれらの「影響力」に屈するよりなく
「公約」はことごとく「ハズレ馬券」と化した。

わが国においてとりわけ注意したいのは原発と津波災害で甚大な被害を被っている被災地で
地元企業の仕事を増やすこともなく「大企業」が仕事を「独占」していること。

さまざまな「特区」というのは一見いかにも被災地のためのようだけれど
実は「大企業」の「儲かる仕事場」にしかならない「現実」を知っておこう。

「自らの利益」のためならどんなことでもする。
われわれが相手にしているのはそういう「存在」なのだ。
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「蹂躙されること」について

2012-03-09 04:48:52 | Weblog
晴れ。夜に雨という予報ははずれる。

ラス・カサス「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を読む。

1492年のコロンブスの「アメリカ大陸発見」以降
当時のスペイン人がいかに地元のインディオたちを虐殺したかという内容。

老若男女かまわず手足を切り刻み火あぶりにもし
自らの欲望のためにあらゆる「非道」を尽くした模様。

「豊かな土地」で穏やかに暮らしていた中南米や南米のインディオたちは
「キリスト教徒の文明人」によって騙され侵されわずかな抵抗ののちにほぼ「全滅」した。

「簡潔な報告」ゆえか表現は「紋切型」になっている。
もっともそれ以上に言い尽くしがたい「事実」があったのだろう。

ゴヤの絵のタイトルのように「我が子を喰らう」悲劇まであったとのこと。
相手を「同じ人間」だと思わないとここまでのことができるものか。

その一方で一時隆盛を極めたスペインを「非難」するために
本書はのちの時代までその「材料」として使われた「歴史」も。

いずれも殺されたインディオたちにとっては「青天の霹靂」に過ぎず
単に「穏やかな暮らし」が一方的に奪われたのみで虚しいばかり。

堤未果「政府は必ず嘘をつく アメリカの『失われた十年』が私たちに警告すること」を途中まで読む。

「1%の人間が富の8割を持つ」アメリカでは
それに抗議する者たちを監視し抑圧する「システム」が出来上がっているとのこと。

かつての「権威」はもはや信用ならず
彼ら彼女らの発信する「情報」よりその「スポンサー」が誰であるかをチェックすべきだと。

すべては「広告会社」の描くシナリオに従って動き
いたずらに人々に「恐怖」を感じさせつつ自分たちに「都合のいい」法律を作り。

マスコミが「裏取り」もせずに垂れ流す「情報」は
常に「事実とは異なる」かたちで「現実」を作り上げる。

たとえばリビアのカダフィは「ただの独裁者」ではなく
むしろ「アフリカ随一の生活環境」を生み出し人々にも支持されていたという。

このところ起きているとされる「中東の春」も
実は全く関係ない理由で「動員された人々による映像」を「現実」にしたものだったり。

「湾岸戦争」における「油まみれの鳥」が「やらせ」だったのは事実だし
「映像技術」による「リアル」は素人には区別できないほどのものでもある。

いったいどこに「現実」はあるのか。

少なくとも明確なのは「特定の組織から金をもらっている人間」や
そこで「生計を立てている人間」は信用ならないということ。

ある種の「ドームの内部」で暮らすためにはそうした「嘘」が必要らしいので
それぞれに気を付けなければならない。

「確かな情報源」を確保するための「リテラシー=判別能力」がないと
「生きにくい世の中」になっていることを知ろう。

最低限「ダブルチェック」が出来ないとダメなので
自らあらためて「襟を正す」つもり。
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「ある気質」について

2012-03-08 03:20:15 | Weblog
くもり。夜風にわずかな冷たさ。

真壁昭夫「はじめての金融工学」を読む。

7年前の本で大雑把にまとめてしまえば
「統計学」と「数学」を使って「リスク」を減らすのが「金融工学」らしい。

さすがに「怠惰な元文系」なので微分方程式の理解はできない。
昔高校で習った「分散」や「標準偏差」は懐かしかった。

大学時代に一度だけ経済学部の友人にレポートを頼まれたことを思い出す。
「常に合理的行動をする」という「設定」に「ありえない」と書いた記憶があるけれど。

もちろん「単純なモデル」を敢えて作ることで「意外な事実」がわかることは承知の上。
とはいえあまりな「単純さ」にはついつい反発したくなるというもの。

数式上で「リスク」は消せても
「非合理的な人間の行動」は「計算」できないのではと思われるができるのか。

おそらく最近ではコンピュータによるシミュレーションによって
かなり「現実」に近い「設定」ができるのだろうとは思いつつ。

いずれにせよ「新しい成果」さえ生まれれば
どんな「単純化」も否定するものではないという「原則」は押さえておく。

その方面に詳しい友人がいないので詳細は不明。
ご縁があればあれこれ教えていただきたい。

自分でもいろいろと「単純化」はしているものの
「他人がする単純化」に厳しい理由を敢えて挙げておく。

ある種の人々は「原理原則」の理解を拒み
「その場限り」の「問題処理」ですまそうとする。

それが実は「将来の困難」を招き寄せることをいくら説いても「馬耳東風」。
「目の前のめんどくささ」と「束の間の解決」を必ず優先させるのだ。

仕方がないことではあるのだが
「墓穴を掘る」のを見るのはいかにもしのびなくついつい腹が立つ。

おそらくは「自分の欠点」を見せつけられているような気になっているのか。
ならば「適当」にしておけばよいのだと自分に言い聞かせても。

きっとそういう「性分」なのだというあたりで「着地」。
もっと「機能的に行動できる人間」でありたいという「あすなろ」が当分続く。
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「アフリカ」のある「過酷な現実」について

2012-03-07 03:45:01 | Weblog
くもり。風に冷たさがない。

米川正子「世界最悪の紛争『コンゴ』 平和以外に何でもある国」を読む。

映画「ホテル・ルワンダ」や「ダーウィンの悪夢」「ロード・オブ・ウォー」などで
アフリカの一部の「悲惨さ」について多少知らなくもないつもりではいたものの。

「世界で最も豊かな農地と鉱物資源をもつ国」の
どうしようもない「貧困」にはうなだれるよりない感じ。

先進国の「資源確保」などの思惑も絡んで事態は好転しない模様。
何より「人材」が育たない状況がなんともはや。

移動続きの避難民あるいは難民たちにとっての「穏やかな暮らし」を阻むものが多すぎる。
私腹をこやすための「争い」によっていたずらな「消耗」のみが残り。

「支援活動」も有効に機能せず国際社会もコンゴには「無関心」らしい。
むしろその種の「活動」が住民たちの「非難」を買うこともあったり。

たとえばかつての「植民地の独立運動」は
海外に留学した者たちによって「先導」されたこともある。

せめてその種の「活動」はないものか。
「軍事介入」がほぼ「無効」であることはどうやらわかっているのだから。

「教育」どころか毎日の「生存」に力を注ぐしかないのはどうにもマズい。
「過酷な環境」をしのぐだけでは「未来の指導者」も生まれようはなく。

誘拐された上で「戦士」にされる少年たちや「慰安婦」にされる少女たちも。
松本仁一「カラシニコフⅠ・Ⅱ」で報告されていたように。

問答無用に「凄まじい現実」に時には視線を向けても悪くはないはず。

「世界」はかくも「広い」のだ。
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