中日新聞の日曜版「おじさん図鑑」に「お葬式」というタイトルで飛島圭介さんがエッセを書かれていました。
昨年の暮れ、おじさんの実兄が78歳で他界した。
新型コロナウィルスが死因原因だと、死に目に会えないどころか、お骨になるまで対面できないと聞く。
兄は普通の(?)病死だったので、ちゃんと見送ることができた。
お葬式は兄の娘が喪主となり、ごく少数の身内だけで執り行った。
この2年間、兄のみならず多くの友人知人、先輩が幽明境を異にした。
しかし、通常なら必ず出席して、その冥福を祈るべき大切な人の葬儀にも、コロナ禍でおじさんは不参加を余儀なくされたのだ。
哀悼の気持ちは、供花やお香典に込めるしかなかった。
弔辞の代わりに、ご遺族に故人との思い出などをしたためたお悔やみ状を出したこともあった。
事ほどさように、コロナ禍は葬儀の様態を劇的に変えてしまった。
密接、密集、密閉を避けるために、これまでのようなお葬式ができなくなったのである。
盛大なお葬式を挙行することが個人の供養になるとの”考え方”が無効となり、近しい身内だけでささやかに見送るというスタイルが一般化せざるを得なくなってしまったのだった。
新型コロナウィルスは、日本の宗教的儀式まで変容させてしまった。
以上です。
私が思うのコロナ禍以前に盛大なお葬式を挙行することが個人の供養になるとの”考え方”が無効となり、近しい身内だけでささやかに見送るというスタイルが一般化されていたように思います。
葬儀会館も家族葬専用のホールが次々と出来ています。
身内だけでしめやかに行う葬儀が当たり前になっているのでは。
私の母親の葬儀も家族葬で行いました。
じっくり母親を偲ぶことが出来ました。
身内だけの方が以前の葬儀より慌ただしくなくてよかったように思います。
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