団塊世代おじさんの日常生活

夏 日本で二番目に気温が高く、陶器と虎渓山と修道院で知られる多治見市の出身です。

受診時、医師から「長生きできないだろう」と言われたこともあったそうです。

2024-03-31 02:07:59 | 日記
 中日新聞の読者投稿欄に「病弱だった私が傘寿に」というタイトルで、80歳の女性が投稿されていました。

 私が育ったのは戦後の混乱期です。

 物資が日常的に不足し、食料も十分ではありませんでした。

 私は病弱でした。

 受診時、医師から「長生きできないだろう」と言われたこともあったそうです。

 それでも母は諦めず、私のために、健康にいいというリンゴのすり下ろしジュースをよくこしらえてくれました。

 他にも母は私に、真っ赤なバラの刺しゅう入り帆布のランドセルを作ってくれ、学芸会の前の晩には着ていくワンピースを縫ってくれました。

 母は10年前に逝きました。

 私はといえば、気付けばすっかり年を重ねていて、3年前に患った大病が完全には癒えていませんが、今もこうして何とか生き永らえているのも、天国にいる母がいつも見守ってくれているおかげだと思っています。

 母への感謝を胸に、この先も前向きに生きていきたいです。

 以上です。

 私は小学校4年生の秋、朝起きようとしたら起き上がる事が出来ません。

 母親を呼んで起こしてもらいました。

 かかりつけのお医者さんに来てもらって診察を受けました。

 その時、心臓とリュウマチを患っていると言われたようです。

 学校を休んで1ヶ月ぐらい家にいました。

 ある日かかりつけのお医者さんがやってきて、父親に「1週間ぐらいで危ない」と言われたようです。

 本人は、まさかそんなに酷いとは思っていませんでした。

 父親は慌てて県病院に私を入院させました。

 心臓弁膜症と腎臓、リュウマチが悪かったようです。

 毎日薬と注射で治療を受けました。

 腎臓が悪いという事で、タンパク質を取らねばということで、カレイなどの高級魚を食べました。

 水分を取らねばということで、スイカの季節は終わっていましたが、スイカの缶詰も食べました。

 ちっとも美味しくなかったです。

 治療が功を奏して、3月末近くに退院出来ました。

 5年生の1年間は、体育の授業は休みました。

 私は体育は苦手だったので、1年間ではなく卒業するまで休みたかったです。

 65歳ぐらいの時、寝ていると心臓があぶって寝られません。

 翌日内科医に行ってCTなどの検査を受けました。

 高血圧ということで、高血圧の薬をもらいました。

 念の為に大病院で検査を受けました。

 とりあえず今もらっている薬でいいと言われました。

 心臓弁膜症は治っていると言われ、安心しました。

 幼い時からの病弱ではないですが、何とか76歳まで生きる事が出来ました。

 父親は74歳で亡くなったので、父親を抜く事が出来ました。

 取り敢えず、80歳までは生きたいです。



Connie Francis "Where The Boys Are" on The Ed Sullivan Show
コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 私は、自分の若い頃と比べないことが大切なように思います。

2024-03-30 01:59:52 | 日記
 中日新聞の「くらしの作文」に「若い頃と比べない」というタイトルで、95歳の女性が投稿されていました。

 齢を重ねて生き方の参考にと手に取る本には、よく「他人と比べない」という話が書いてあります。

 私は、自分の若い頃と比べないことが大切なように思います。

 あれもこれもできなくなった自分に自信を無くし、落ち込むこともありました。

 若い頃に比べて、気力・体力・能力の低下は加齢による自然なこと、できないことが増えて当然。

 今自分ができることは何か、です。

 毎週1回届く宅配の食材の一覧をプリントアウトし、うっかりして同じものを注文しないようにします。

 冷蔵庫にある食材の一覧と1週間の大まかな献立を書いたホワイトボードが、冷蔵庫の側面を占領し、レシピやメモを留めるマグネットと老眼鏡が定位置で待っています。

 子育てや仕事中心だった頃、義務感と責任感から完璧を目指して焦っていた日々は、遠くなりました。

 手作りしていた食材は、冷凍品の活用に替えたものもあり、完璧でいようとは思わなくなりました。

 涼しくなれば、小さな畑の畝が冬野菜の種まきを待っていて、天候と相談しながら手をかければ、食卓を彩る安全な食材が増えます。

 「無理しなくていいよ」という2人の娘の理解ある言葉と協力のおかげで、まだ当分は私の出番もあるようです。

以上です。

 95歳になられても、ご家庭の為に頑張っておられるんだ。

 完璧は求めず、今自分ができることで協力されているんだ。

 素晴らしい!

>私は、自分の若い頃と比べないことが大切なように思います。

 この言葉は、後期高齢者になった私の教訓になります。

 ペットボトルの蓋をなかなか開ける事が出来なくなったり、家で歩く時机のふちにつかまったり、台所の机をよけようとして頭はよけているつもりなのに身体がついて来ずぶつかってしまうのであざが出来てしまう。苦笑

 自分の衰えを感じますねぇ〜。

 歳を取ったから、仕方ないと思っています。

 カバーするために、少しは筋肉をつけた方がいいと思うのですがなかなかやらない。

 かみさんに少しは運動しなさいと、いつも叱られています。苦笑



コニー・フランシス - ヴァケイション Connie Francis - VACATION
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

40年も経つと、第一志望校に受からなかった傷も癒えていました。

2024-03-29 01:19:36 | 日記
 中日新聞の読者投稿欄に「進学先の高校 楽しめた」というタイトルで、56歳の女性が投稿されていました。

 6日付本欄「志望校に落ちても充実」を読み、私自身の高校時代のことを思い出しました。

 40年前の名古屋市公立高校の受験は学校群制度でした。

 志望校が含まれる学校群を受験し、属する2校のどちらかに振り分けられて合否を判断するというものです。

 私は志望校でないもう一方に合格しました。

 入学時は正直、複雑でした。

 しかしながら進んだ高校は伸び伸びとした校風で、周りの友達も穏やかなすてきな人ばかりでした。

 3年間は楽しくてあっという間でした。

 当時では最新のかわいい制服もよかったです。

 クラスメートと卒業後に交際を始め、やがて結婚しました。

 3人の子どもにも恵まれました。

 第一志望でなくとも、この高校に進学したからこそ夫にも、子どもにも巡り会えたと思えば実に感慨深いです。

 若い皆さん、一度しかない高校生活を充実させてくださいね。

 以上です。

 私の60年前ぐらいの岐阜県の公立高校の受験は、愛知県のような学校群制度はありませんでした。

 地元の第一志望校を落ちました。

 第二志望校を書いた記憶はないですが、地元からちょっと離れた高校に合格していました。

 当時はショックで第一志望校の学生を見ると辛かったです。

 電車に乗って第二志望校?の学校へ通いました。

 電車で仲良くなった級友たちと、行きは話しながら学校へ行きました。

 電車で好きになった女子学生もいて、彼女の顔を見るのも楽しかったです。

 体育を除けば、授業も楽しかったです。

 第一志望校でなかったですが、高校生活を楽しめました。

 55歳の時、同窓会に出席して第一志望校へ行った級友たちに会いましたが、なんとも思わなかったです。

 40年も経つと、第一志望校に受からなかった傷も癒えていました。




悲しき街角 デル・シャノン 1961
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昔3人の孫が幼い時、見守りに行くと「喉が渇いた、ジュースが飲みたい!」というので自販機まで買いに行ったことが度々ありました。

2024-03-28 04:59:28 | 日記
 中日新聞の読者投稿欄に「誰もが使いやすい形に」というタイトルで、小学6年生の男の子が投稿されていました。

 ちょっと変わった自動販売機を見つけた。

 商品を買うときに押すボタンが低い位置にあった。

 一方、商品の取り出し口はふつうのものより高いところにあった。

 お金の投入口と釣り銭を取る場所はともに受け皿の形だった。

 購入した商品を何かに置けるテーブルも付いていた。

 家に帰って自販機に付いて調べたら、ユニバーサルデザインというものらしかった。

 車いすの人や障害者も使いやすいように工夫されていた。

 そう、誰もが使えるように配慮されたものだった。

 ぼくは自販機にテーブルがあることと、低い位置にボタンがあることはとても良いと思った。

 縦方向は十分考えられているが、左右、すなわち横方向には問題があるように感じた。

 お金の投入口が左側にあって不便だと感じたことを思い出したからだ。

 でも、こんな自販機が登場したのは前進だと思う。

 さらなる改良を待ちたい。

 以上です。

 この子の観察力すごいですね。

 ユニバーサルデザインの自販機の長所、改良点をしっかり把握していますよね。

 昔3人の孫が幼い時、見守りに行くと「喉が渇いた、ジュースが飲みたい!」というので自販機まで買いに行ったことが度々ありました。

 ここで紹介されている自販機と違って取り出し口は下にありますので、ジュースを取り出すのに苦労しました。
 1本ならともかく3本も取り出さなくてはいけません。
 1本取り出したのを手に持って、次の1本を取り出す。
 もう少しで1本落としそうになりました。

 この自販機のように取り出し口が普通より高いところにあるなら、取り出すのも苦労しなくて済んだのに。

 またこの自販機のように、自販機にテーブルがあればここにジュースが置けたのに。 

 早くこんな自販機になって欲しいです。



悲しき片想い / ヘレン・シャピロ
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もしあなたが大勢の前で話をすることになったら、そらでぺらぺら話せますか?

2024-03-27 02:31:26 | 日記
 中日新聞の日曜版「おじさん図鑑」に「人前で」というタイトルで、飛島圭介さんがエッセーを書かれていました。

 おじさんは、しょうもない「おしゃべり」男だ。

 おしゃべりというのは、ただうるさいだけの無駄口をいう。

 肝心の場面になると、とたんに口数が減る。

 例えば、会合などで突然指名されたりすると、言葉が出てこない。

 だから聴衆の前で一定時間「内容のある話」をする講演は、苦手どころか資格すらない人間だ。

 が、どうしても断ることのできない講演依頼もある。

 引き受けざるを得ない時は、きちんと”原稿”を用意する。

 よくメモも何もなしで、流れるように話す講演上手の人がいる。

 そういう人を心からうらやましく思う。

 おじさんの講演は、事前に書いた”原稿”をそれとなく読むことになる。

 原稿に目を落とし文章を確認しながら声に出す。

 政治家が官僚の書いた原稿を棒読みするのと似ている。

 そんなテレビ中継に「顔を上げて自分の言葉で答弁しろ」と毒づいたりしているのに、己が講演する段になると同じようなことをしている。

 ただし、おじさんの場合、自分で書いた原稿だし、ずーっと下向きなわけでもない。

 そこで開き直ってお聞きしますが、もしあなたが大勢の前で話をすることになったら、そらでぺらぺら話せますか?

 以上です。

>もしあなたが大勢の前で話をすることになったら、そらでぺらぺら話せますか?

 ぺらぺら話せないですね。苦笑

 以前ブログにも書きましたが、小学校5年の時クラス代表として、発表会?のようなものに参加した事があります。

 講堂で私の入院生活を話したのですが、途中でクラスの子の顔を見たら話の内容を忘れてしまったのです。
 手元の原稿を見ましたが、どこまで話したのか分からず1分間?ぐらい沈黙してしまいました。

 それ以来、人前で話すのは苦手です。

 でも話さないといけない時があります。

 採用の仕事をしていた時、ある大学で自社のアピールをするために講演をした事があります。

 大学生の前で話したのですが、教授たちの顔が目に入ったら自分が何を言っているのか分からなくなりました。

 だいぶあがっていたんでしょうね。

 うまく自社のアピールが、出来なかったように思います。




子供じゃないの/ヘレン・シャピロ
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする