団塊世代おじさんの日常生活

夏 日本で二番目に気温が高く、陶器と虎渓山と修道院で知られる多治見市の出身です。

今の犬は、家族なんですね。人間以上に大切にされているんだ。

2022-01-31 01:50:22 | 日記
 中日新聞の「くらしの作文」に「虹の橋へ」というタイトルで、70歳の女性が投稿されていました。

 昨年十二月十九日午前二時二十分、「キューン」と鳴いて、愛犬「るる」は虹の橋へと駆けていきました。

 十六歳六カ月。よく頑張りました。お利口さんでした。

 十五歳になってから、病気で両目を失明しました。

 「これは大変」と、誤ってぶつかった際のけがの予防に、緩衝材を段ボールに貼ってリビングのありとあらゆる所に取り付けました。

 心配をよそにすみ慣れた部屋で、夏は冷たい板間、冬はお日さまの当たる所と自由自在に動き、不自由さは感じませんでした。

 食事は三十分以上かけ、一口一口食べさせました。

 スイカが大好きな子でした。

 しかし十二月に入り、食欲がグーンと落ちて、最後の一口は頭を上げて力を振り絞ってのみ込みました。

 それから三日間、水だけでとうとう・・・。

 るるがいなくなって、お父さんとお母さんは、日に日に涙の量が増えています。

 寂しくて悲しくて、辛い。

 虹の橋のたもとでは、すべての病気が治って、食べ物もお水もたっぷりで、お友達と遊びながら、飼い主を待っていると聞きました。

 何年先かわからないけど、きっと会えます。

 その時はよく見える目で見つけてください。

 そして一緒に虹の橋を渡りましょう。

 以上です。


>スイカが大好きな子でした。

 今の犬は、家族なんですね。

 息子は、社宅を出て一軒家に住むようになりました。

 先日息子からLINEが着ました。
 トイプードルの動画が添えてありました。

 「家族が増えます」と書かれていました。

 もうじき、トイプードルがやってくるようです。

 かみさんは「見に行く」と言ってました。😁

 息子は犬を飼いたかったので、マンションではなく、一軒家を買ったようです。

 うちの団地は、犬や猫を飼うのが禁止です。

 きっと息子は、子供の頃 犬を飼いたかったんですね。

 私の子供の頃は、犬は番犬でした。

 食べ物は私たちが残した残飯で、いつも鎖に繋がれて外の犬小屋にいました。

 愛情はありましたが、家族と思ったことはなかったです。

 かみさんも同じようで、息子が家族が増えたと言ったことに「犬が家族、子供が三人もいるのに」と、私と同じく違和感を感じたようです。

 今の犬は、幸せですね。

 今の犬は、家族なんですね。人間以上に大切にされているんだ。







終楽章 ー 竹内まりや ー
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親より先に死ぬなんて親不孝だっていうのは、健康な人がいうことだって思ってた。

2022-01-30 01:16:54 | 日記
 以前も押富さんのことをブログに載せましたが、今回もいいお話でしたのでブログに載せました。


 押富さんが挑んだバリアー<2> (中)親孝行って… 安藤明夫(編集委員)
2022年1月23日

 母校の日本福祉大高浜専門学校の卒後研修会で講演した押富さん(中央)=2012年5月、名古屋市内で






 昨年四月に亡くなったNPO法人ピース・トレランス代表理事押富俊恵さん=享年三十九、愛知県尾張旭市=は、二〇一二年四月、母たつ江さんの六十歳の誕生日に「親孝行って」と題したブログを記した。

 【発病してから、どれだけ、親不孝をしてきたんだろう…(中略)とくに、この二年間は親不孝といえることをしている私。

 なにが親不孝かって…
 「今回の肺炎はとても危険です」
 「血圧が下がっていて危ない状態です」
 敗血症になって、何度もICU(集中治療室)に入ったこの二年間。そのたびに、両親は医師から「危険な状態」という説明を受けてきた。

 自分の子供のそんな病状を受け止めさせなければならなかったこと。
 それは、とんでもなく親不孝なことだと最近分かるようになった。】

 長生きできないけど
 この時期の押富さんは、しばしば感染性の肺炎を起こして右肺が真っ白になり、全身に炎症が広がる敗血症も併発していた。

 「死」を身近に感じながら、翌月の母校・日本福祉大高浜専門学校の卒後研修会での講演準備に励む日々だった。

 【自分はそんなに長生きはしないと思う。
 きっと両親より先に死んじゃうと思う。
 でも、介護が必要な子供を残して死んじゃうより、先にいなくなったほうがきっと両親の心残りにはならないだろう…

 本気でそう思っていた。
 親より先に死ぬなんて親不孝だっていうのは、健康な人がいうことだって思ってた。】

 「親より先に死にたい」は、神経難病の患者に多い感情だ。体が動かなくなるつらさから、怒りや悔しさを医療者にぶつけたりした時期もあった。

 だが、作業療法士として、自分の状況や両親の思いを客観的に見ることで、精神的なピンチを乗り越えた。

 【やっぱり、自分の子供が死ぬかもしれないって現実を突きつけるのはいけないことだって思う。

 どんなに頑張ったって、介護が必要なのには変わりない。
 だけど、両親がいなくたって、生きていける。
 そう、大丈夫だって思わせてあげられることができたら…
 それが一番の親孝行になるのかな…なんて漠然と考える。

 病気や障害はあるけど、元気でいること。毎日、楽しく笑って過ごしていられること。

 それくらいしかできないけど…
 両親が元気な間、もう、子供の死の覚悟みたいなことをさせないでいられたらいいな。

 親より先に死なない。
 できる保証はないけど…
 だけど、いつも元気で笑って過ごしていられたら…
そうしたら、きっと両親だって喜んでくれるはず。】

 私は、押富さんと知り合ったのが一九年で、最後の二年間しか知らない。

 いつも笑顔で精力的に活動し、忙しさを楽しむ姿を尊敬していた。

 昨年四月に亡くなってから、過去のブログをたどって、この一文に出会い、強さの根源を理解できた。

 楽しむことは、彼女にとっての親孝行であり、人工呼吸器を着けて「生きる意味」だったのだ。

 父・忍さんは一六年に亡くなったが、たつ江さんは十五年に及ぶ娘の闘病を間近で見てきた。どう受け止めていたのか。

 押富さんが亡くなって一カ月後に自宅へうかがうと、娘を語る口調の弾むような明るさに驚いた。

 「一緒にいて、本当におもしろい人ですよね。いつも楽しそうだし、たまに真剣な表情をしてるときは、何かいたずらを考えてる」

 みとった時の話になっても「短くても自分でやりたいことを見つけて、中身の濃い人生を送ってほしいと思っていました。

 やりたいことがあるから頑張れる。よく今まで生きたって思いますよ」と、声に陰りはなかった。
 最後まで前を向いて

 最後の入院時は、右肺がつぶれ、左肺からも出血し、救命の見込みはなかった。

 心臓マッサージなどの延命治療は望んでいなかったが、ICUに入るときに医師に「もう少し頑張ってみようかな」と、治療を続ける意思を伝え、最後まで前を向いた。 仲間とメールで仕事のやりとりもした。

 「私は何もしなかったけど、自分のことは全部自分で引き受けて、恐れ入りますって感じ」。

 たつ江さんの笑顔に、娘の“親孝行作戦”の成功を感じた。

 一二年の押富さんのブログは、こう続く。
 【なにが幸せかなんてわからない。
 幸せは、見つけるものじゃなくて感じるものだから。

 いまの生活を幸せに感じること。
 当たり前の生活が幸せだってこと。
 それが、一番の親孝行なんじゃないかなって思ったり。】






「いのちの歌」竹内まりや
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「未曾有の物言い」とは、「これまでの出来事を一つひとつ問いなおし、その経験を語り共有することで、「明日」という不安定なものに対して再び身をひらいていく孵化の時でもあった。」

2022-01-29 00:58:15 | 日記
 2021年12月18日の中日新聞に鷲田 清一(ワシダ キヨカズ)先生(哲学者)が「骨太のまっすぐな言葉」「政治の酷薄に抗おう」というタイトルで投稿されていました。

 あの大震災から三年経って、東北の陸前高田の初老の男性がため息とともにこう漏らしたと、美術家・瀬尾夏美の「あわいゆくころ」にある。

 <めちゃくちゃに色んなものを失くしてから(・・・・・・・)まだ失くすものがあるなんて思いもしなかったよねえ。>

 これ以上、失くすものは何もないと思っていたのに、まだあった。

 仲間はもう戻ってこない。

 新たな造成で元のまちも消えてなくなったと。

 このところの国政についても、わたしたちはつい同じような口調でつぶやいてしまう。

 「政治はもうこれ以上酷薄になりようがないと思っていたけど、いくらでも国民に冷たくなれるものだったんだねえ」と。

 公文書の改ざんを死で訴えた財務省職員にも、オリンピックの強行によって遅れた東北復興にも、米軍基地移転をめぐる沖縄の民意にたいしても、国の対応は酷薄をさらに超えて、非情ともいえるものであった。

 そしてもう一点、言葉の荒廃と責任の放棄がある。

 どれほど非道な発言をしても通るし、進退も問われない。
 
 永田町のそういう空気が路上やネット上に広がり、心無い誹謗中傷を野放しにしてきた。

 ‥‥   ‥‥     ‥‥


 これまでもえげつない政治はあまたあったけれど、戦後政治をふり返るに、この九年間ほどに酷薄な時代はかってなかったようにおもう。

 首相の姿勢もそうだが、それ以上に、それに同調、もしくはそれを黙認してきた政権与党の議員に、あるいは一部の自治体首長に、わたしは「残念」ということで済ませられない思いを抱いた。

 不幸なことにこれにコロナ禍が被さった。

 いわゆるエッセンシャルワーカーへの対応においても、休業者への給付金の、度を超えて煩瑣な手続きにあっても、政治の酷薄さは今なお続く。

 コロナ禍については、医学的見地のみならず、さまざまの文明史的見地からの判断がありうる。

 そのなかで上の被災地の男性の言葉を裏返しにしたのが、(前にこの欄でも紹介した)イタリアの作家、パオロ・ジョルダーノの次の言葉だ。

 <今からもう、よく考えておくべきだ。いったい何に元どおりになってほしくないのか>

 (『コロナの時代の僕ら』飯田亮介訳)

 かれの言葉は、コロナ禍のみならず、それをとおしてわたしたちの社会が野放図にくり返してきた思慮なきふるまいに、あらためて注意を喚起した。

 が、その後、ある映像で耳にした宮城県在住の美術家の言葉は、それよりもはるかに強烈であった。

 ‥‥   ‥‥     ‥‥

 コロナ禍のさなかにくり返しいわれた(ステイホーム)、「その内へのこもり方が中途半端だった。 まだまだ甘かったかも」と、志賀理江子は言う。

 そしてそれに続け、「どんな芸術、どんな表現よりも、いまは<外>の世界の方が過酷」。

 だから「一年ほど穴の中に入るとかしないと、状況は変えられない」というのだ(Kyoto Experiment  オンライン・インタビューズ03)。

 ここには、リモートワークできる人やいやでも現場に出向かざるをえない人たちとの分断を目の当たりにして、後者のリスクに拮抗するようなステイのありようを探らねばという強い思いがこもる。

 政治の酷薄に抗い、それを押し返してゆくには、骨太のまっすぐな言葉が要る。

 思い起こせば、陸前高田で母と家を失くした写真家の畠山直哉も、震災直後、同じ烈しさで次のように書いていた・・・。

 <大津波や原発事故をもし「未曾有の出来事」と言うなら、それに対しては「未曾有の物言い」が用意されなければならないはずだ。>

 以上です。


「未曾有の物言い」の意味がよく分からないので、ネットで調べてみました。

 畠山直哉 写真展「まっぷたつの風景」展覧会プラン [© sendai mediatheque]
「大津波や原発事故をもし『未曾有の出来事』と言うなら、それに対しては『未曾有の物言い』が用意されなければならないはずだ」と語ったのは写真家・畠山直哉だ。

 その言葉は、生まれ故郷や家族をあの大津波に奪われてしまったことへの憤りとともに、失われたものへの深いまなざしを感じさせた。

 2016年に開催された畠山直哉 写真展「まっぷたつの風景」では、2カ月の会期中に対談を3回、てつがくカフェを3回行なった。

 震災から5年の日々をままならないままに過ごしている人たちが東北にはたくさんいて、畠山はまず彼らに向けてこの場を開こうとしているように感じられたからだ。

 実際、会場には、あの日から自問自答を繰り返してきた人びとが多く集まり、なかには12回もこの展覧会に足を運んでくれた人もいた。

 いがらしみきお×畠山直哉 対談「人工天国─現在の風景に何をみるのか?─」2016年11月23日開催 [© sendai mediatheque]

 志賀理江子×畠山直哉 対談 「暗夜光路─写真は何をするのか?─」2016年12月24日開催 [© sendai mediatheque]

「未曾有の出来事」はひとりでは到底、手に負えない。向き合うには痛みが伴う。

 しかし淡々と「手間をかける」ことでしか向き合うことはできないと、ここに集った人びとはどこかで覚悟していたように思う。

 全6回にわたる対話の連なりを黒板に記し会場に展示したが、「未曾有の物言い」が体をなして現われたように感じられた。

 それは過剰な意味を求め過ぎるのものではなかったし、だからといって時に任せた諦めとも違った。

 これまでの出来事を一つひとつ問いなおし、その経験を語り共有することで、「明日」という不安定なものに対して再び身をひらいていく孵化の時でもあった。

 そして同時に、それぞれが歩んできた震災後の日々への労いが見られた。


「未曾有の物言い」とは、「これまでの出来事を一つひとつ問いなおし、その経験を語り共有することで、「明日」という不安定なものに対して再び身をひらいていく孵化の時でもあった。」と言うことだったんですね。




竹内まりや 元気を出して
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いつか真実が語られる時があると信じます。

2022-01-28 00:57:52 | 日記


中日新聞  を読んで 2022.01.23   堀田あけみ 「雄弁な手」


 
 年も改まったことだし、新しい話題で楽しい文を書きたかったのだが、昨年の紙面にどうしても触れたい。

 12月16日付朝刊の1面に掲載された一枚の写真についてである。

 血管が浮き出るほど強く握りしめた拳がすべてだ。

 顔は無い。服は黒一色。いわゆる「森友改ざん問題」に関する裁判の記事だ。

 文書を改ざんした自責の念に耐えかねて自死した男性のご遺族である。

 国などを相手どって約1億円の賠償を請求したものが受け入れられたという記事だ。

 これだけを読むと、国が負けを認めたようにみえるが、賠償金を支払うことで真実を闇に葬ろうとしたのだと考えるのが妥当だろう。

 本人のコメントが「負けたような気持ち」「悔しくて仕方がない」と紹介されている。

 このような逃げを打たれないように多額の賠償金を請求したのに、相手にとっては大金ではなかった。国だから。

 一面に手の写真、というのは珍しいのではないだろうか。

 普通は顔、つまり表情がなければ、人物の写真には意味が無い。だが、この写真は雄弁だ。

 この一件の後味の悪さは、真実が厚く覆われ隠されたことから来る。

 しかし、私は原告側の痛みの行き場がない点にも起因するように思う。

 「自分だったら、どうなんだ」が通用しない。

 近しい人の死は、その人の肉体の喪失と、その人と過ごす時間の喪失、二つの意味を持つが、前者の意でしか死を捉えられない人もいるのではないかと思っている。

 その人には時間の喪失について理解してもらえない。

 理解できないから、人の命を金で補填しようとする。そうではなく、理解したうえで行っているとしたら、もっと悪質だ。

 写真があってこそ痛みは伝わる。だが言葉も負けてはいない。「奇策 経緯解明 遠のく」との見出しにも、伝えるものの矜持がある。

 裁判を打ち切った側にとっては、これで真実は葬られたことになっているであろう。

 もう明るい場所には出て来ないはずだ。

 それでも、遠くなっても、まだ追求できると語りかけてくる。   (椙山女学園大教授)

 以上です。


 いつか真実が語られる時があると信じます。

 この時の権力者たちの悪事を。





返信/竹内まりや


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今更なんですが、ほんとうに自分は最低な人間だと思いました。

2022-01-27 01:55:19 | 日記
 中日新聞の読者投稿欄に「手書きの温かみ 大切に」というタイトルで22歳の男性が投稿されていました。


 机の引き出しから中学校卒業文集が出てきた。

 友人による寄せ書きもあり懐かしさを覚えると同時に手書きの温かみを再認識できた。

 もちろん文字は一人一人異なり、読み直すメッセージ内容や筆跡から書き手の性格や個性まで伝わってくる。

 スマートフォンで会員制交流サイト(SNS)を使えば簡単にやりとりができる昨今、手書きの機会は随分減った。

 今年届いた年賀状でも大半がパソコン作成だった。

 しかしながら手書きでしか味わえない面白さは確かにある。

 字に自分ならではのこだわりを持て、ちょっとした感情が筆圧や字の流れに反映する。

 書き間違いを直した跡にも味わいはある。

 そんな自分らしさのにじみ出る手書きをこの先も大切にしていきたい。

 以上です。

 年賀状を頂いても、何もコメントが入っていない年賀状は感慨を覚えません。

 一言手書きのコメントが書かれていると、うれしくなります。

 ご自分の近況など書かれていると、よりうれしいです。

 私も必ず一言、手書きのコメントを書きます。

 私の場合字が下手なので、教養のなさを露呈しますが。😅


 年賀状といえば、寒中見舞いを会社時代の友人の奥様から頂きました。

 印刷文の中を読みますと、「身体が思うように動かなくなり 年賀の挨拶を失礼させていただきました 今後も勝手ながら控えさせていただきます」と書かれていました。

 以前 高血圧で倒れられてからは、ひと月に一度様子伺いの電話をしていました。

 車椅子を利用されていましたが、デーサービスに行きながら、リハビリに励んでいらっしゃいました。

 ちょっと車がないと不便な場所なので、同じく会社の同僚に車に乗せてもらい、見舞いに行く予定を立てていました。

 ところがコロナ禍になり、この友人と連絡が取れなくなってしまいました。

 電話も繋がらないので、年賀状に電話をくれるように書いても音沙汰なしでした。

 翌年からも年賀状は来ますが、コメントは何も書かれていません。

 今回上記のような寒中見舞いをいただき、そうとう体調がお悪いという事が分かりました。

 私は友人の車をあてにし、とうとう一度もお見舞いに行きませんでした。

 かみさんに「あなたはそういう人だ、友達の車なんてあてにせず、自分一人で行けば良いものを。とうとう行かずじまいだった、私が懸念していた通りになった」と、言われました。

 今更なんですが、ほんとうに自分は最低な人間だと思いました。
 調子のいいことを言うものではないですね。😅





家(うち)に帰ろう ( 竹内まりや )
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