【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

平岩弓枝『日本のおんな』新潮社、1979年

2008-09-11 00:05:32 | 小説
平岩弓枝『日本のおんな』新潮社、1979年

           日本のおんな(新潮社)

 日本の女性の情緒、所作を書くことを自家薬籠中のものとしている著者の佳作が並んでいます。

◆「夕顔の女」(松村の不倫相手だった女性の娘「三重子」は、亡くなった松村の娘の許婚の尾形と結ばれるが、その結末は悲惨だった)。

◆「北国から来た女」(田舎から出てきてラーメン屋で働いていた「あづさ」が店で盗難事件にあい、大銀行の頭取のお手伝いさんになる。あづさはこの盗難事件と関わったそこの幸子夫人の甥である青年伊勢と結ばれる)。

◆「茜の女」(独身で婚期を逃したOLの「タミ」に北村という初老の富豪を世話した男友達の戸沢、実は戸沢はタミを好いていた、その顛末は・・・)。

◆「江戸紫の女」(母親の嫉妬が原因で離婚した「多江子」、娘の麻子と暮らしていたが彼女が結婚する段になって、突然ロンドンにいた元夫の洋右とハネムーンのやり直しが待っていた)。

◆「藍の女」(米子に住み浜絣を織る「美知代」は見合いで結婚した無骨で粗野な俊介という夫がいたが離婚同然の状態で姑の滝江と暮らしていた。東京の織物の取引相手、佐々間清志が美知代に求婚に来る。ふたりは結婚。高齢にも拘わらず妊娠、幸せな家庭を作ることができた。別れた俊介がすっかり老け込んで美知代を訪れてきて亡くなった姑の最期を伝えにくる)。

◆「パナマ運河にて」(豪華船での世界一周の旅、「信子」は夫である哲夫の浮気に愛想をつかし離婚を覚悟でこの旅に参加したのだが、入港したバルボアでその哲夫が乗船してくる。信子は困り果て、偶然を装って夫を殺害、意外な結末)。

◆「シンガポールの休日」(ビジネスマンの小沢輝夫はシンガで東京からの「鈴代」を呼び寄せ婚前旅行を実行したが、古色蒼然としたホテル、輝夫の持病である高血圧を知られることになり、もはやプロポーズは無理と思った矢先・・・)。

 どれもこれも一見、他愛ない話のようではあるが、当事者にとっては深刻な話ばかり。玉手箱に入った手触りのよい掌の小説群のよう。

 わたしは図書館で借りた単行本で読みましたが、画像は文庫版です。

吉村昭『戦艦武蔵』新潮文庫、1971年

2008-09-09 00:42:07 | 小説
吉村昭『戦艦武蔵』新潮文庫、1971年

           

 ミステリータッチの導入部です。昭和12年(1937年)7月。九州一円の漁業界が気がついた棕櫚の繊維の消失。海苔の養殖のために必要な網の製造に使われる棕櫚の繊維が市場に全く見当たらないというのです。

 この事態は、実は三菱重工業長崎造船所で極秘のうちに進められていた巨大な戦艦の造船によって引き起こされたものでした。

 戦艦の規模は、艦の長さ263メートル、最大幅38.9メートル、重油満載量68,200トン、主砲46センチメートル、速力27ノット(時速50キロ)など、当時としては考えられないものでした。この規模の戦艦を、日本帝国海軍の威信をかけ、海外の国々にはもちろん、国内でも誰にも知られないように完成させようとします。そのために造船中の船台の遮蔽(目隠し)に棕櫚縄のスダレをかけることが発案され、それが市場で買い占められたのでした。

 この戦艦の名は「武蔵」。時は第二次世界大戦に入る直前、起工式は昭和13年3月も末のことでした。

 本書は戦艦「武蔵」の造船、並行して呉造船所で進められていた戦艦大和の造船のプロセスが細かく、記述しています。

 この間、完全極秘。建造担当の技術員や労務者にたいする身元調査、機密護持のためにとられた拷問を含む苛酷な措置。

 しかし、完成したものも「武蔵」はあまりにも巨体であること、戦争の形態が航空主体に変化しつつあったことなどもあって、特別の活躍の場(?)もありませんでした。

 不沈といわれた「武蔵」は、昭和19年(1944年10月)シブヤン海にて米軍の爆撃、魚雷の集中砲火を浴び撃沈されました。

 著者は昭和38年秋に友人のロシア文学者泉三太郎から戦艦「武蔵」の建造日記を借用し、当初はさほどの関心もたなかったそうですが、次第に戦時中の異常な熱っぽい空気が紙面から吹き上げてくるように感じて、「戦争そのものの象徴的存在」である「武蔵」の建造から壮絶な終焉までを書く気になったと「あとがき」で述懐しています(pp.270-271)。

 「解説」で磯田光一氏は、「『戦艦武蔵』は、極端ないい方をすれば、ひとつの巨大な軍艦をめぐる日本人の”集団自殺”の物語である」と言い切っています(p.275)。

姜尚中『姜尚中の青春読書ノート』朝日新聞出版、2004年

2008-09-08 04:18:23 | 読書/大学/教育
姜尚中『姜尚中の青春読書ノート』朝日新聞出版、2004年
  
              姜尚中の青春読書ノート / 姜尚中/著

 姜尚中氏が青春時代にまみえた5冊の本、その読書体験を語っています。夏目漱石『三四郎』、ボードレール『悪の華』、T・K生『韓国からの手紙』、丸山真男『日本の思想』、マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。

 『三四郎』では熊本出身の著者自身が主人公の小川三四郎という青年の軌跡をなぞるように東京に向かった青春時代を回顧しながら、三四郎同様の愛郷心、東京にたいする違和感、その滅びの予感を確認しています。

 次に取り上げられているのが、退廃、無為、倦怠を詩の言葉に映し出したボードレールの『悪の華』です。そして芸術の世界では前衛にいたものの政治的には後衛だったボードレール。著者は『悪の華』に示された世界に衝撃を受け、同時にも自らがたっている政治的立場を重ね合わせます。

 『韓国からの通信』(70年代に独裁政権と闘った教会関係者、学生、労働者、政治家、ジャーナリストがどのように民主化を勝ち取って行ったか、その軌跡をたどったレポート)では70年代以降の韓国の民主化の歴史的意味が問い直され、その時期に韓国に初めて旅したことの経験が著者をしてその名前を「永野鉄男」から「姜尚中(カン・サンジュン)」に変えさせたと書いています(p.117)。

 著者が丸山真男の『日本の思想』から学んだのは思想の相対化です。彼によれば丸山がやろうとしたことは「あれやこれやの思想やイデオロギーの正否を論じようとしたのではなく、それらを体系的に位置づけ、その意義を明らかにし、思想と思想、イデオロギーとイデオロギーとの間の『原理的な』対話や対決が行われるような座標軸を作り出す作業」(p.149)であったはずと言っています。

 そして最後に『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』ではひとつの体験を語っています。それは人生をいかにいくべきか悩んでいた青春時代にこの本にであい、そこに示されたカルヴァン主義の予定調和説的な運命感によって自身の悩みの回路が絶たれたかのような衝撃を受けたという告白です(pp.164-165)。意味を問うこと自体をシャッタウトするその論理に驚いたというわけです。「意味問題」を社会学の根本問題に据えたこの本の面白さは、著者によれば「宗教と経済、禁欲と資本主義という、本来ならば、水と油のように対立し会うものが結びつき、そこから思ってもみない結果が生まれてしまう、その逆説的なドラマにある」(p.168)とのことです。

台湾(中華民国)旅行への道④

2008-09-05 00:22:51 | 地理/風土/気象/文化
台湾(中華民国)旅行への道④

 台湾についてのわたしたちの知識は、まことに心もとないものです。今の若い人は、ほとんど何も知らないのでは??
 
  私自身もあまりいばったことはいえません。蒋介石は中国国内で、毛沢東率いる共産党に敗北し、台湾に逃げた反共の指導者。西安事件というのがあって(1936年ごろでしたか?)、以前、西安に行ったときその内戦のおりの柱に残された弾痕というものを見た記憶があります。

 また蒋介石の妻は「宋家の三姉妹」の一番末の宋美齢、中華民国の創始者孫文の妻は宋慶齢。ですから、ふたりは義理の兄弟ですね。「宋家の三姉妹」はメイベル・チャン監督で映画になりました。

 50年間の日本の統治のことは、知っていました。ここに台北大学があり、日本の帝国大学のひとつでした(1928年[昭和3年創立])。

  わたしは高校野球が好きですが、戦前、第31回(1931年)嘉義農林中学は台湾地域の代表校として出場し、全国中等学校野球大会(現在の全国高校野球選手権大会)で決勝までいきました。中京商業に惜しくも4-0で敗れましたが・・・。野球は結構さかんです。王選手の国籍は中華民国だったと思いますし(生まれは日本)、郭泰源選手という西武にいた凄いピッチャーは台湾出身でした。
 
 その他、わたしが子どもだった頃、楊伝広という「十種競技」の選手が中華民国出身で、応援していました。この種目は西洋人が断然強いのですが、彼はアジアの選手として実力者でした。楊伝広はヤン・チョアンカンと読み、「アジアの鉄人」と讃えられた選手です。

吉村昭『死顔』新潮社、2005年

2008-09-04 00:19:37 | 小説
吉村昭『死顔』新潮社、2005年

           

 「ひとすじの煙」「二人」「山茶花」「クレイスクロック号遭難」「死顔」の5編が納められています。「遺作について-後書きに代えて-」を妻であり、作家の津村節子さんが書いています。

 わたしには「ひとすじの煙」の読後感がよかったです。「二人」と「死顔」はいずれも次兄の死にさいしての想いを小説に仕立てたもので、内容は似通っています。ただし、「死顔」は最後の完成した短編小説で、『新潮』に掲載されたものですが、校正は津村節子さんが行ったそうです。

 「クレイスクロック号遭難」は未完の作品です。表題は津村さんが付けました。5編のなかでは異色で、安政年間の各国との屈辱的な不平等条約のなかで起きたロシア船の遭難事件を扱ったものです。不平等条約の完全改正までの経緯が要領よくまとめられています。

 他の作品では親族の死に直面したとき、また自らの死への姿勢についての著者の信念が吐露されています。それを津村さんは、「後書き」でしたためています。

 それは延命治療は望まない、自分の死は三日間伏せ、遺体はすぐに骨にする、葬式は家族葬で、親戚にも死顔は見せぬよう、弔電とお悔やみには返事を書かぬよう、香典はいただかぬよう(pp.151-152)というものです。

 そして著者は、末期の病床で自ら点滴の管をはずし、首の下の皮膚に埋め込んであるカテーテルポートの針を抜いて、「もう死ぬ」と言って逝ったそうです(p.156)。享年79。

 古武士のような風格と潔さ。

台湾(中華民国)旅行への道③

2008-09-03 00:51:40 | 地理/風土/気象/文化

前日の続きです。
         
 というわけで、台湾地域の歴史のおさらいをすると、かつて1600年代中ごろからオランダの植民地時代があり(一時スペインも介入)、これを鄭成功が駆逐して鄭氏政権時代があり、その後清朝統治時代、日本統治時代、南京国民政府統治時代、台湾政府統治時代、そして20世紀末あたりからの台湾の総統が選挙で選ばれる時代とめまぐるしく変わりました。

 ちなみに上記の鄭成功は国民的英雄のひとりのように考えられていますが、この人の母親は日本人です。そして鄭成功自身も平戸で生まれました。

 台湾の大きさは3万6000平方キロメートルで、およそ九州程度です。沖縄県の 与那国島にいけば、目と鼻の先で120キロ前後ではないでしょうか?
 人口は現在2300万人ほどです。部族が9と言われますが、もっと細かく分ける人もいます。現在はタイヤル族、タロコ族、アミ族、バイワン族、ブヌン族、ブユマ族、サイシャット族、サオ族、サオ族、クバラン族、などです。
 
 一番高い山は、ニイタカ山です。ですから、日本統治時代には日本で一番高い山は富士山ではなく、ニイタカ山だったわけです。この話は司馬遼太郎の『街道を往く』の台湾編にも書いてあった記憶があります。

 中央部に北回帰線が走っています。その北部が亜熱帯、南部が熱帯です。台風はよく通過します。温泉もたくさんあるようですし、1990年代には大きな地震がありました。

  それから、この国には世界遺産(自然遺産を含めて)がありません(一番世界遺産が多い国はイタリアです)。UNESCOに加盟していないからです。登録に向けて努力しているようですが、観光客を呼ぶこむことで苦戦しています。


           台北市の夜景
           台北市の夜景
          出所)ウィキペディア


台湾(中華民国)旅行への道②

2008-09-02 00:54:49 | 地理/風土/気象/文化
 
 
 台湾が国の名称と思っている人も多いですが、本当は太平洋の西側にある台湾島を中心にした「地域」の名称です。この地域を統治しているのが「中華民国」です。1945年からです。「台湾」がこの「中華民国」の俗称として使われ、それが広まって「台湾」が国名と思っている人が意外と多いのですが、これは間違いです。
       
 とはいえ、ことはそう単純ではないのです。この国の歴史はきわめて複雑です。

 この国はかつて1895年から1945年までは日本の領土でした。日清戦争で日本が勝利し、下関条約で清国から日本に割譲されました。それ以降、太平洋戦争(第二次世界大戦)で敗北するまで、台湾総督府が置かれて日本が50年間統治しました。いわば日本帝国主義の植民地だったわけです。

 ところで中国大陸の側に身を寄せて考えると、明朝、清朝と続いて、清が倒れて中華民国が成立します。1912年に孫文が臨時大総統となり、新しい国家が成立しました。同年2月に清朝の皇帝宣統帝が退位し、その後、袁世凱が大総統に就任。しかし、袁世凱凱と対立した孫文は1919年位に中国国民党を創建し、1921年には後の国民政府の基となる革命政府を広州で樹立しました。

 その後、反日の観点から国共合作(国民党+共産党)の時期もあったのですが、毛沢東率いる中国共産党と蒋介石率いる国民党とが対立、内戦となり、結局、蒋介石は敗れて、大陸から逃亡、追い出されるた先が台湾でした。

 蒋介石が中華民国を戦後支配することになるのです。大陸では毛沢東が1949年に中華人民共和国の成立を宣言しました。以来、中華人民共和国と中華民国とが並び立つかのように、互いに自ら「正当な中国政府」と主張しあいました。

 さらに複雑な事情がありました。それは米ソ冷戦構造のさなか、中ソの対立も顕在化し、これを契機にアメリカが中華人民共和国に急接近しました。そして、1971年に国際連合で中華人民共和国が「中国」の代表権を取得。蒋介石が治める中華民国は国連を脱退。

 以来、日本を含め、ほとんどの国が中華人民共和国を「正当な中国政府」として承認します。ただ「中華民国」とは非公式な外交が続けられ、この国は「中華人民共和国のなかの台湾地域」という理解と、「独立した中華民国」という理解とが交錯して現在にいたっています。

 1990年代以降、中華民国は国連加盟を画策していますが、未だそれを実現できていません。       

台湾(中華民国)旅行への道①

2008-09-01 00:26:26 | 地理/風土/気象/文化
台湾(中華民国)旅行への道①

            

 これまで中国には仕事を含め、3回、旅行しました。

 この秋(?)には中華民国(台湾)に行ってみたいと思います。それで、事前の勉強として、ブログを書きながら、ポイントを押さえることをしてみます。5回ほどの予定です。何か気がついたことがあれば、コメントをお願いします。

 第1回目は、台湾(中華民国)のキワード。以下に列挙します。旅行の入り口です。

① 蒋介石(中国国民党)
② 毛沢東(中国共産党)
③ 孫文
④ 宋美齢+宋慶齢
⑤ 鄭成功
⑥ 李登輝
⑥ 2・28事件
⑦ 日月潭
⑧ 9民族
⑨ 台湾総督府
⑩ 新高山
⑪ 台北帝国大学
⑫ 故宮博物館
⑬ 忠烈祠
⑭ 安里山
⑮ 世界一の超高層ビル・台北101

 このキーワードをたよりに、明日以降メモ風に書き込みをしていきます。

 上記の地図はウィキペディアからのものです。