【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

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津村節子『智恵子飛ぶ』講談社、1997年

2009-01-02 16:34:54 | 小説
津村節子『智恵子飛ぶ』講談社、1997年

           

 智恵子(旧姓、長沼)[1886-1938]の生涯を小説に仕立てたものです。

 福島県安達群油井村(現:二本松市)の裕福な造り酒屋の長女として生まれた智恵子は油井尋常小学校を出て、高等科に編入、そこから福島町立高等女学校に進みます。両親の反対はあったものの明治36年(1903年)日本女子大学普通予科に入学、40年に卒業。以後、母校の西洋画室の助手をし、太平洋画会研究所に通って西洋絵画の道に進みました。平塚らいてふがイニシアチブをとっていた「青鞜社」の機関誌の表紙絵なども描いていました。智恵子は日本女子大で、平塚らいてふと親交がありました。

 一方、皇室技芸員である高村光雲の子であった光太郎[1883-1956]は、東京美術学校(現:東京芸術大学)に入学。欧米での美術の勉強を終え、評論活動、詩人、画家としての活動を開始していました。日本の美術界の旧弊に反発し、新しい美術運動の勃興を目指すも、不安定で無頼な生活をしていたのが光太郎です。

 智恵子と光太郎は、柳八重の紹介で出会います(1911年12月)。その後、光太郎は智恵子を褒め称える詩を発表、智恵子は急速に光太郎に惹かれていきます。

 大正3年に二人は結婚、とは言っても入籍はせず、同棲生活が長く続きました。貧困のなかでふたりはお互いに人として尊重し、信頼しあいながら生活しましたが、智恵子は光太郎の圧倒的な芸術活動に自分を見失い、また郷里の実家でのいざこざ、事業の破たん、父、妹たちの死に直面し、精神的に病んでいきます。

 そして、睡眠薬を飲み自殺を図りますが未遂。さらに統合性失調症に侵され、回復することなく、品川のぜームス坂病院に入院のまま、粟粒(ぞくりゅう)結核で永眠しました。

 智恵子は病の中で切り紙(紙絵)に才能を一時、開花させましたが、精神的病のもとでのその姿は痛々しいものでした。

 この小説はふたりの生活、愛、葛藤を克明にとららえて展開されて、大変よくできています。

 著者は、太平洋戦争の勃発と敗戦という暗黒の時代に「智恵子抄」に鮮烈な印象を受けたことを語っているが、「同じ屋根の下に棲む芸術家夫婦の中に深く立ち入るようになったのは、物を書く男と共に暮らすようになってからであ」ると自らの人生を智恵子のそれに重ね合わせています(p.298)。この視点が、この小説の価値を際立たせています。

 上記、表紙の画像は文庫版のもの、文中の引用ページは単行本のそれです。

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