【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

五社英雄監督「櫂」1985年

2012-06-10 00:17:03 | 映画

        
  DVDで「櫂」を観る。先日、原作を読んだばかり。大作だった。この大河小説をどう映画化したのか、関心はそこにあった。


 あらすじは書かなくていいだろう。本ブログ5月2日付で小説のあらましを書いたので、それを参照していただきたい。

 原作と違うところはあるが、流れはほぼ同じ。まだ20歳にもなっていなかったころ、村の相撲大会で活躍した富田岩吾に惹かれて嫁に入った喜和、しかし岩吾の職業は女衒という女性の斡旋業。この職業、またその世界に、喜和は生涯なじめなかった。その喜和の人生を描いた作品。

 主演の十朱幸代さんが喜和になりきっている。後半は岩吾にうとまれ、岩吾が別の女(女義太夫、巴吉)との間にできて、彼女が育てることになった綾子と生活するようになるが、憔悴しきり、やつれた表情、役づくりは素晴らしい。

 対する岩吾を演じたのは緒形拳さん、先日「鬼畜」でみせたおどおどした男とは対極にある侠気ぶり。この世界の男のありようを随所で見せていいる。いろいろなことができた俳優さんだ。最後のシーンでのUPの顔が凄い、そして杖か棒きれか、それで自身の額縁入りの写真を突き割り、部屋の電球をたたき割る。喜和へのすさまじいまでのいらだち。

 それにしても描かれた女衒の世界は、理不尽だ。女性蔑視が常軌でない。家族の外で産ませた子どもを喜和に育てさせる、何人もの女との不実な関係。それが当たり前で、その陰で泣かされる喜和は甲斐性がない、紹介業の奥さんとしてはふさわしくないと下にみられる。そして女性への暴力。

 原作と違うところでとくに目立つのは、結核に冒されていた長男が喧嘩に巻き込まれて死ぬところ。原作では長男は結核で別宅でひっそり生きて死んでいく。岩吾が人力車に乗っていたところを、敵役のヤクザのまわしものにピストルで撃たれたシーンも原作にはなかった気がする。そして、原作では岩吾に捨てられたも同然の喜和はうどん屋の店をもち、それなりの生活を始めるが映画ではそれはない。綾子が岩吾に対して刀をふりかざして追っ払うという小説の場面は、小刀で切りつけるというように変わっている。