自分の生まれた状況は両親や祖父母、兄弟などの近親者しか知りません。そのことについて、誰も語らなければ、何も知らずのままです。本作の主人公の夏紀は母ひとり子ひとり、母は語らず、親戚いない。戸籍謄本を取り寄せても、不審な点が多い。父親の欄は空白、母には婚姻の事実もなし。本籍は文京区白山だが、住居は釧路。母は書道教室の先生で、夏紀もその後を継ぎます。何も語らない母は大きな地震を経験してから、若年性アルツハイマーと診断されます。母は夜更けに起きだして、「行かなくちゃ」と言い、場所を尋ねると、「涙香(るいか)岬」と答えるが、地図上には記載がない。
地元新聞の日曜文芸欄に掲載された、根室在住の方が投稿された短歌に、「涙香岬」が記載されているのを発見し、新聞社に問い合わせて、投稿者の沢井徳一と根室で会います。中学校教諭を定年した沢井は夏紀を見て、自分の過去の生徒とよく似ていること、また、その生徒が中学校の入学式に登校せず、その後、死亡したことを、当時は触れてはいけないこととしていたが、その謎を調査し始めます。ここからはまさにミステリー、そして、夏紀の出生、徳一の教師としての過去の汚点もさっぱりと解明します。
老人養護施設に入居している母は、
「生まれたばかりの夏紀を抱っこした瞬間、私はこの子がいれば生きていけると思ったの。その通りだった。もっと時間が経って私がみんな忘れたら、ときどきそばにいてちょうだい。それだけでいいから。」
と娘に告げるほどの数奇な人生があったからこそ、今、最後の穏やかな生き様をしていきたいのでしょう。
『風葬』(桜木紫乃著、文春文庫、本体価格540円)