ひとり座禅のすすめ

自分ひとり、坐禅(靜功)を日常生活の中で取り入れていくと今までと違った感覚を覚えていく。

生死の分かれ道はどこで別れるのでしょうか

2011-08-28 11:17:56 | 生命

 今日の朝歩きの途中で、いつも会う方と久しぶりで、立ち話をしました。
仕事は第一線から引退しながらも、相変わらずひとりで出かけていっては、山歩きをされている方です。

 変わった岩石を求めて、沢登りもします。 昨年の3月に10m以上の岩山を登っている時に、雪で濡れた岩で足を滑らせて、下の岩山に落ちてしまったそうです。

 落ちたなと思った瞬間に、もう意識が無くなり、気がついたときにはその岩の上で血を流して寝ていました。 先ず、手が動くかどうか確認したところ、左手は動くものの右手は動かないことを、確認しました。

 勿論、携帯で連絡しようとしましたが、圏外で連絡のしようがありません。 最低限のものだけを持って、リュックは置いて行きました。

 足はどうやら動くようで、視界に入っている上のほうの山道を目指して、不自由な体で登っていき、2時間かけてやっとそこまで来て、疲れてそのまま寝てしまいました。

 気がついて更に近くの人家まで、たどり着き、救急車で病院に直行です。

 右腕側から着地したようで、そこがクッションになって、頭部の激突も出血はしたものの和らぎ、肺の周辺の骨も折れて内出血したものの、6ヶ月の入院生活をしたあと、無事退院されたそうです。

 現在も、すきあらば又山歩きをしようと、毎日2時間の朝歩きをしています。

 誰かに自分が守られている感じがしたことはありませんか、と訊ねるのですが、特に意識したことはありませんとのこと。

 改めて、生死の分かれ道は、どこにあったのかと思わざるを得ませんでした。


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2 コメント

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人は誰も守ってくれません (むらさきのしきふ)
2011-08-29 13:02:50
生きていることも必然
死ぬことも必然
と私は考えます。

誰かに守られているのではなく
助かるべくして助かったのだと
私は思うわけです。

人は一生懸命努力していれば
必ずなるようになります。
でも、努力を怠ればなるようにもなりません。
どうにもならない、状態ですね。

逆にどんな事でもなるようにしかなりません。
それ以上でも以下でもないのです。

今ある結果はすべてその人の努力の結果です。
他人の力ではありません。

と私は考えるのです。
昨日の話を思い出しながら (龍之介)
2011-08-29 15:24:09
 今日の朝歩きをしながら、自分のことを思い出してみました。

 9歳の頃、掘りごたつの中で、布団をかぶって寝ていたら、火種は練炭でしたので、当然ごとく一酸化中毒で意識不明になり、意識を取り戻したのは、負ぶさって階段を上る時でした。

 そのときも、そのままこの世から去ることになったかも知れません。

 13歳の頃、いつも夏休みに過ごす、明石の海で、コンクリート柱で造られた防潮堤を、ぴょンぴょンと柱の上を渡っていたときに、足を踏み外して、そのまま海側に落ちたのです。

 傷は足の付け根を切っただけですので、数針縫うことになりました。 落ちた側が大きな岩石がある側でしたら、頭を強打して、どういう展開になったかは、分かりません。

 自分の努力とかに関係ないところで、そのようなことが起きてしまうのです。

 そんなことを思い出すと、何か誰かに守られているのかなあと、思うのです。

 勿論、ご意見の通りに考えられることはありますが。

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