今日の朝歩きの途中で、いつも会う方と久しぶりで、立ち話をしました。
仕事は第一線から引退しながらも、相変わらずひとりで出かけていっては、山歩きをされている方です。
変わった岩石を求めて、沢登りもします。 昨年の3月に10m以上の岩山を登っている時に、雪で濡れた岩で足を滑らせて、下の岩山に落ちてしまったそうです。
落ちたなと思った瞬間に、もう意識が無くなり、気がついたときにはその岩の上で血を流して寝ていました。 先ず、手が動くかどうか確認したところ、左手は動くものの右手は動かないことを、確認しました。
勿論、携帯で連絡しようとしましたが、圏外で連絡のしようがありません。 最低限のものだけを持って、リュックは置いて行きました。
足はどうやら動くようで、視界に入っている上のほうの山道を目指して、不自由な体で登っていき、2時間かけてやっとそこまで来て、疲れてそのまま寝てしまいました。
気がついて更に近くの人家まで、たどり着き、救急車で病院に直行です。
右腕側から着地したようで、そこがクッションになって、頭部の激突も出血はしたものの和らぎ、肺の周辺の骨も折れて内出血したものの、6ヶ月の入院生活をしたあと、無事退院されたそうです。
現在も、すきあらば又山歩きをしようと、毎日2時間の朝歩きをしています。
誰かに自分が守られている感じがしたことはありませんか、と訊ねるのですが、特に意識したことはありませんとのこと。
改めて、生死の分かれ道は、どこにあったのかと思わざるを得ませんでした。
死ぬことも必然
と私は考えます。
誰かに守られているのではなく
助かるべくして助かったのだと
私は思うわけです。
人は一生懸命努力していれば
必ずなるようになります。
でも、努力を怠ればなるようにもなりません。
どうにもならない、状態ですね。
逆にどんな事でもなるようにしかなりません。
それ以上でも以下でもないのです。
今ある結果はすべてその人の努力の結果です。
他人の力ではありません。
と私は考えるのです。
9歳の頃、掘りごたつの中で、布団をかぶって寝ていたら、火種は練炭でしたので、当然ごとく一酸化中毒で意識不明になり、意識を取り戻したのは、負ぶさって階段を上る時でした。
そのときも、そのままこの世から去ることになったかも知れません。
13歳の頃、いつも夏休みに過ごす、明石の海で、コンクリート柱で造られた防潮堤を、ぴょンぴょンと柱の上を渡っていたときに、足を踏み外して、そのまま海側に落ちたのです。
傷は足の付け根を切っただけですので、数針縫うことになりました。 落ちた側が大きな岩石がある側でしたら、頭を強打して、どういう展開になったかは、分かりません。
自分の努力とかに関係ないところで、そのようなことが起きてしまうのです。
そんなことを思い出すと、何か誰かに守られているのかなあと、思うのです。
勿論、ご意見の通りに考えられることはありますが。