ひとり座禅のすすめ

自分ひとり、坐禅(靜功)を日常生活の中で取り入れていくと今までと違った感覚を覚えていく。

昨日は歴史的な一日でした

2009-08-31 10:37:45 | 社会・経済
 昨日の衆議院総選挙の結果は、ある程度予想はしていたものの、選挙結果は一寸闇と言われておりますので、テレビ速報を見ながら、ついつい座禅をするのも、行わずじまいでした。 小泉郵政改革という名の下に、歴史的に持っていた日本的な良さをぶち壊し、米国の思うような展開で、構造改革を進めてきました。

 会社は社会の公器であり、そこに働く人、そこから生産されるものを大切にするという風土が、米国のグローバル化の中で、自分の利益しか考えない価値基準を、日本国中に蔓延させて来たのです。

 米国の御用学者である竹中平蔵氏を重用し、自民党をぶっ潰すだけでなく、日本の良さもぶっ潰してしまった小泉元首相。 そんな社会の閉塞感の中で、私達はやっと昨日の選挙で、表現できたのではないかと感じました。

 私自身は、若いときは革新的であったのですが、だんだん歳をとると、元来日本人は自分も含めて、保守的だなあと感じてくるものなのです。 それでも小泉首相以降の社会情勢は、いかがなものかと考えないわけにはいきません。

 人間は、一つのことを長く続けてますと、自分はよく知っている、だからこうなんだと独善的になりやすいものです。 明治以来の官僚機構が、日本の社会を形作ってきたということですが、民主党のいうとおり、現在の官僚機構に則った国づくりのあり方を、変えるべき時期に来ているのかも知れません。

 昨夜は興奮した一夜でした。

日常的に呼吸法の練習をするのであれば目をつむって行う

2009-08-30 16:08:18 | 座禅
 私は座禅をはじめた当初から、日常的にあらゆる時間、場所を利用して、胸式肺呼吸→逆腹式呼吸を行っていました。 廻りは雑踏(電車の中や電車を待つホームで)の中もありますので、どんな場所でも意識を集中するため、目をつむって呼吸法の練習を行っていました。

 我が家では、テレビの前で目をつむって、音だけを聴きながらも呼吸法の練習を行っていました。 私に静功ー静かな功(座禅)の声かけを行ってくれた大学の級友が、週に3回、それも1回は24時間の座禅会でした。 私は経済的に余裕がありませんでしたので、わざわざ座禅会に参加しなくても、自分の好きな時間、場所で行えれば良いのではないかと、考えたのでした。

 いつも自宅では真っ暗闇の中で行うことが多く、目をつむることは自然の姿だったかも知れません。 わざわざ暗いのに、半眼にする必要もなかったのです。 従ってお寺ー普門庵に参加するようになるまで、10年以上目をつむって座禅を行っていたことになります。 また胡座も普通の胡座でした。

 普門庵で和尚さんから、結跏趺坐にするように注意され、目は半眼にするようにも注意されることになりました。 結跏趺坐にする意味については、どこの本にもその理由は書かれておりませんので、私は座禅の雑念の中で、考えることにしました。 足の裏は気を出すよりも吸うことの方が、機能としては自然と考えました。 手のひらからは、気は放出します。 そんなことを日常的な気感から感じることなのです。

 目を半眼にする意味についても、考えたのですが、これは時間がかかりました。 目は半眼にするのではなく、自然と半眼になるということです。 あらゆる細胞までの力が抜けて時には、自然と半眼になるというのが、私が感じた事です。

 禅宗の座禅の教本には、残念ながら詳しいことは書いていないのが現状です。 分からないことがあると、いつも座禅の雑念の中で考えるのが、いつものことなのです。 私は、雑念はまずいのではなく、雑念を楽しむ事が大切と考えています。

うな重の食べ歩きを友人から聞いて

2009-08-29 16:46:36 | 食べ物
 男3人が東京を中心にして、うな重の食べ歩きをして、それぞれの味の採点を行い、楽しんでいる友人がおります。 私も周りの人に話し、賛同をする方と食べ歩いてみようかと思っています。

 基本的にはうなぎ専門店ということですが、お世話になっている知人は、明治座で観劇する幕間に、食堂でうな重を食べたら、自分が育った川越で食べた味が、ぴったりだったと話してくれました。 

 先日、奥さんが夏ばてで調子が悪いということで、私が代わりに明治座の眉山を観ました。 同じように幕間にうな重を食べました。 私は、ちょっと食べるのを躊躇しました。 観劇は土曜日で、観客も多く勿論食堂も一杯です。 あらかじめ予約してあるうな重でしたが、出来立てということには程遠く、いかがなものかという感じがしました。

 知人に、前回と比べてどうですかと訊ねたところ、やはり時間が経ってしまっているようで、味がどうかという雰囲気でした。

 親しくしている友人と、先日、府中の北山町にある押田に行ってきました。 松竹梅の金額の差は、うなぎの大きさによりますので、竹を注文して食べることにしました。 作家の山口瞳の行きつけのお店ということを聞いておりましたが、そこそこのうな重を食べることが出来ました。

 別の友人と、八王子の小宮にある高瀬にも行ってきました。 電車を乗り継いで、わざわざお昼ご飯を食べに行ったのです。 友人は気張って松を注文しました。 食べ歩きをしている友人の評価では、黒三角印で、比較的おいしいランクにあるうな重でしたが、私達二人は、どう考えても評価は低く感じ、わざわざ食べにまで行くと心ではないと、二人顔をあわせてしまいました。

 府中駅前の木村にも。食べ歩きをしている友人と行ってきましたが、私は2度目で、味もまあまあと感じていたのですが、友人はあまり高い評価はしておりませんでした。

 食感はひとそれぞれ違うもので、なかなか一致するものではありません。自分自身が納得するものであれば、人の評価はどうでもよいのです。 それでもこれから少しずつ、食べて行きたいとも思っております。 うな重の文化は、日本独特のものらしいのです。

崇高な至福感から定に変わる

2009-08-28 13:24:59 | 座禅
 口を閉じ鼻だけで呼吸をします。 大きく吸って出来るだけゆっくり吐きます。 吐くときには鼻から出すことを忘れ、イメージで体の中へ吐いていきます。 体の中へ入っていく息を追うように、吐く息だけに意識を集中します。 胡坐を組んだ座禅をしながら、そんな呼吸を行います。 毎日、継続的に1時間行えば、何らかの形で、体に微妙な変化を与えてくれます。 そんな変化を楽しみながら、座禅を行います。

 私達の体は生命を維持するために、体中のあらゆる部分、隅々までの細胞が、いつも活発に動いています。 呼吸法を行いながら、活発に動いていた細胞も、時間の経過とともに、いわゆる静かな状態に変化して行きます。 呼吸に慣れるに従い、座禅が深まるにつれ、私たちは崇高な至福感を、感得することになります。

 更に、1時間の座禅を延ばし、2時間、3時間の座禅が普通にできるようになれば、静かな状態から、あらゆる細胞、部分が殆んどその動きを、停止するかのような雰囲気になってきます。 「定」という状態になってくるのです。

 私自身は、定の状態になりかけたことはありますが、そのような状態を長く続けられたことはありません。 楽しみながら呼吸を行い、楽しみながら座禅を行っていけば、いつかはまた、何らかの変化が訪れることでしょう。 期待もせず、ただひたすら座禅することに意味があるのですから。

座禅の真髄は崇高な至福感を感得することです

2009-08-26 06:48:13 | 座禅
 吐く息を出来るだけ長く、ゆっくりと吐くことによって、吐く息だけに意識を集中することによって、吐く息をイメージで体の中へ吐くことによって、時間の経過とともに体中のあらゆる組織、細胞が、次第に動きを緩めて行きます。 いわゆる静かな状態になっていきます。

 体の中を流れる気の動きも、同じように緩やかになってきます。 45分から1時間も続けて行きますと、更に緩やかな動きになって行きます。 気の通り道である経絡は、神経の線に沿って流れていて、神経の集中する脳細胞を特に、私達に分かりやすい形で刺激をします。

 気の流れが緩やかになればなるほど、脳を優しく刺激し、私達に崇高な至福感を与えてくれます。 全ての疲れ、ストレスから解放してくれるのです。 今話題になっているのりピーの麻薬や押尾学の麻薬のように、飲んで簡単に気持ちがよくなるのとでは、格段の違いに相違ありません。 残念ながら、私自身は麻薬の服用の経験がありませんので、想像でしか言うことは出来ませんが。

 座禅での雑念も、私は決して悪いものだとは、思ってはいません。 静かな状態で、ふと浮かぶ日常的に問題解決しなければならないような雑念も、座禅が深まれば深まるほど、宇宙の叡智のサジェスチョンが得られ、なるほどこのようにものごとを考えればよいのかと、納得することが多いのです。

 そのためににも、最低1時間の座禅が必要なのです。 体の微妙な変化を楽しみながら座禅を行えば、自然と座禅が楽しくなるのです。 勿論、逆腹式呼吸も楽しくなってくるのです。

友人の病気回復を願って3時間の座禅を行う

2009-08-25 06:26:54 | 座禅
 座禅を始めたころ、私は友人の病気回復を願って、3時間の座禅を続けていました。 我が家とは貰われていったヒマラヤンのメス猫を通して、親戚?の関係にありました。 生まれて初めて座禅を始め、1ヵ月半で自発動という体の中の気が充実し、勝手に動き出し、下腹にある臍下丹田が、心臓のように動き出しました。

 私は、その動きが収まってすぐに、その友人(彼女ー女性という意味)に電話をし、当時ガンの闘病生活をしていた彼女に、貴女のことを助けなさいと言われているみたいだねと話しました。 その翌日から早速、彼女の病気回復を念じながら、座禅を行い始めたのです。

 まだ座禅をはじめて間もなく、何にも分からないままに、ひたすら彼女の無事を願ったのです。 3時間の座禅は、あっという間に終わってしまいます。 それまではいつも毎日1時間は座禅をしてました。

 先ず、自分の周りにある悪い気は、宇宙の遠くへ飛んで行けと念じます。 次に清新な宇宙のエネルギーである気を、私自身の体を通して、遠くに住んでいる彼女へ送ってくださいと念じます。 あとで気がついたのですが、私の体から出て行く気は、おでこの中心にある天目から出て行くのが分かりました。

 彼女の近くに届いた気は、彼女の頭のてっぺんにある百会から入り、体の中の主要な気の通り道である任脈、督脈を小周天することを念じます。 こちらから行った気が彼女の体の中を小周天しますと、自然と体の中にある悪い気は体外に排出されます。 その悪い気は、また同じように、宇宙の遠くへ飛んでいってしまうように念じます。

 彼女の体の中を清新な気が循環し、その病巣部を癒すように念じるのです。 このイメージを、吐く息をゆっくり吐きながら、何度も何度も行います。 ふと気がついてみると、いつも3時間経っていました。

 普段行えないような特別なことを行おうとすると、天目が開くものだということを、友人の病気回復を願った座禅を通して、学んだことでした。

低体温の人は本当に免疫力が落ちるのか

2009-08-24 06:20:39 | 健康
 昨日の普門庵での茶礼で、和尚さんが体温の低い人は、免疫力が落ちるといわれていますよと話され、この中で35度以下の人はいませんかと、声が飛びました。 するとご婦人が、恐る恐る私は35度以下ですといいました。 ではご主人は何度ですかと声がかかり、36度5分ですと返ってきました。

 体温が35度以下であって、私の目からみても健康そうに見えます。 昼間はエアコンの効いた部屋で仕事をしているそうですが、時折外へ出ると暑さにほっとするということも、話されていました。

 我が家では連れ合いと息子が35.5度から36度ぐらいで、私は36.5度あります。 確かにちょっといつも鼻をぐすぐすいわせています。 ですがそれ以外は、いたって健康です。 体温は遺伝にもよるのではないかと思います。

 一般的には体温が低いと免疫力がおちる、ということはいえるかもしれませんが、すべての人に当てはまるとは、考えにくいところがあります。 改めて近くにいる人に体温を聞いてみることにしましょう。 



座禅は非日常性より日常性が大切

2009-08-22 07:37:20 | 座禅
 座禅を行っていますと話すと、たいていの場合どこのお寺でやっているのですかと、必ずと言っていいくらいに訊ねられます。 いえ自分の家で行っているんですよと答えることになります。

 お寺の和尚さんは、気持ちを改めて座禅を行うことが大切ですと話しますが、私自身は改めることが大切ではなく、日常的に自分の生活サイクルに、組み込んでしまうことが、とても大切ではないかと、常々感じております。

 座禅を特別なことと考えることではなく、日常的に行うこと、非日常性よりも日常性が大切であると思っています。 

 私自身は、いつもパジャマ姿で布団の上に薄い座布団を(現在では羽毛枕を)、お尻に敷いて胡坐を組み座禅を行っています。 眠くなればそのまま寝てしまいます。 4時間経ったら自然と目が覚め、そのままの姿でまた座禅を行います。

 家に帰ってから外出するまでの間、いつもパジャマ姿で過ごします。 座禅をはじめてから10数年間経ちますが、私はそれ以前からそのような生活スタイルで過ごしています。

 お寺で作務衣で座禅を行っている方を見かけますが、果たして毎日、日常的に座禅を行ってくれているでしょうか。 ひょっとして、お寺でしか座禅を行っていないのではありませんか。 形にこだわるよりも実質的に、日常的に座禅を行うことのほうが大切ではありませんか。

 私のこのブログでは、ひとりで座禅を行いませんかとすすめています。 自分の生活サイクルに合わせて、時間も定期的ではなく、好きな時間に好きなだけ、好きな場所で座禅を行うことの大切さを、話させてもらってきました。 ひとりで座禅を行うに当たって、私自身がどのように、どんなことを考えながら座禅を行ってきたかを話すことによって、何らかの疑問に答え、その一助になればという気持ちからなのです。

 そのためには、先ず1時間の座禅を続けてください。 胸式肺呼吸を楽しんでください。 座禅を楽しんでください。 

座禅の時には息を吐くのが先か息を吸うのが先か

2009-08-21 07:49:13 | 座禅
 禅宗では下腹の丹田を意識し、息を先ず吐きなさいといいます。 空の感覚がそこにはあるように思います。 その結果、禅宗の呼吸法は順腹式呼吸ということになります。 私は順腹式呼吸では、気感をなかなか感じにくいように思います。

 空にする感覚が優先し、理屈が優先されてしまっているようにも感じます。

 私は、座禅のスタートが禅宗ではありませんでした。 気功の静かな功ー静功がスタートだったのですが、幸いなことに呼吸法のことは何も言われず、自分自身で無我夢中で、口を閉じ鼻だけで呼吸をし、普段行っている胸式肺呼吸を、ただ吐く息だけを出来るだけ長く吐くようにしておりました。

 座禅を生まれてはじめて行ったその日に、頭のてっぺんにある百会が活性化し、頭全体が電子の輪に、すっぽりかぶったような感覚になったのです。 何だろうと思いながら、出来るだけ深く長く息を吐けるように、毎日、あらゆる時間、場所を利用して、その呼吸法になれるように行いました。

 テレビの前でも胡坐を組んで、目を瞑ってテレビの音を聞きながらも、ひたすら吐く息を出来るだけ長く、吐くようにしていたのです。 全部吐ききろうとすると苦しくなりますので、そのちょっと手前で吐くのをやめ、また息を吸うようにしました。 吐く息を長く吐くようにしているうちに、自然と吐く息は体の中へ吐くようになっていました。

 出来るだけ長く吐くように胸式肺呼吸を行っていますと、自然と吐く息が体の中に入り、逆腹式呼吸になっていったというのが、事実のようです。 また吐く息は自分自身が息が体の中へ入っていくのを実感するために、息音をたてていたのです。 一緒に座禅をやっていた級友から、3週目の例会が終わったあとに、もう少し静かにしろよといわれ、翌日から出来るだけ静かに、息を吐くように行うようにしました。 これが結果的に、後に胎息ができるようになった要因になったのです。

 私は最初に息を吐くのがよいのか、息を吐くのがよいのかを議論するするのには、余り意味を感じません。 「空」にするのは何もはじめに行わなくてもよいと思うからです。 座禅が深くできるようになった段階で、初めて「空」の意味が分かってくると思うからです。 

 私自身の経験から、呼吸法は順腹式呼吸よりも、逆腹式呼吸がよいと思っております。 禅宗の修行僧が行うには、わざわざ道の到達点を遠くにするという意味があるのでしょうが、私達一般人にとっては、気を感じにくい順腹式呼吸よりは、逆腹式呼吸のほうがよいと、思っております。

 

座禅が深まるにつれ緊張の糸が緩み自然と半眼になる

2009-08-19 07:27:48 | 座禅
 座禅の時には、肩の力を抜き全身をリラックスさせることが大切ですが、気持ちの上ではリラックスしたつもりでも、細胞の隅々までもがリラックスしているとは限りません。 座禅が深まるにつれ、緊張の糸が緩み細胞の末端までがリラックスしてきて、目は自然と半眼になってきます。 私は半眼にするのではなく、半眼になる意味がここにあると思っています。

 あるとき、私はこの世から去った瞬間の人の姿を思い、全身の力が抜け大小の老廃物が排出されることを、思い浮かべました。 多分、そのときには目も半眼になるのではないかと考えたのです。 座禅のときも、全身の力が抜けたときには、目も半眼になると思い浮かべたのです。

 最近になって、座禅が深まるにつれ、目は自然と半眼になっているのに、改めて感じたのでした。 私が感じたことが、確かだったことを証明してくれました。

 よくお寺の和尚さんが、半眼にしなさいと言いますが、目を半眼にするのではなく、自然と半眼になるのです。 座禅が深まってくると、微妙に目の周りの筋肉に気が流れ、自然と目は半眼になっていくのに、気づくのです。 改めて面白い現象だなあと思うのです。