ひとり座禅のすすめ

自分ひとり、坐禅(靜功)を日常生活の中で取り入れていくと今までと違った感覚を覚えていく。

包み込むように優しかった義母が何時も直ぐ側にいるような気がして

2019-04-20 04:22:10 | 

連れ合いのお母さんは、私が未だ若かった頃、深夜に訪ねて行ってドアをトントンと叩いていると、中から〇〇くんと声をかけて、開け入れてくれました。 深夜にも関わらず居間でお茶を入れて、暫く話をしてから布団の用意をして、寝たことを思い出します。

何時もどんな時でも、優しく包み込むような雰囲気で、対応してくれました。 我が母が、長男を取られてしまうようで、3人一緒に住むことを反対し、連れ合いの一番上の兄貴の家族と住むことになり、家の建て替え中に仮住まいの浦和で、若くして天に還って行かれました。

足柄山に登った時の3人での旅行や、日常的な板橋の義母の家での会話を思い出し、よく義母が〇〇くんて、お下劣ねと言われたことが、今でも鮮烈に思いだされます。

連れ合いには、何時もふざける中で、貴女のお母さんが何時も側で見ていてくれるような感じがすると、話すのですが。

3人で一緒に住んでいれば、もっと長生きできたのではないかと思い出されるのです。 大きなオッパイを抱えながら、時々、買い物がてら、パチンコ屋さんに寄っては、景品で茶菓子をもらって来て、お茶の時間には茶菓子が切れたことが、ありませんでした。

今や我が家の連れ合いも、義母に似て膨よかなオッパイになり、何となくその存在感が、その直ぐ側に義母がいるような気がしてくるのです。


しっかりした愛情溢れるお母さん猫のエルちゃんでしたが

2017-08-30 05:13:20 | 

報道でいとも簡単に殺人事件を起こしてしまうことが報じられておりますが、どうして命あるものをと思うのです。 改めて考えてみると、本人たちは親の愛情を十分受けて来なかった方々ではないのかと感ずるのですが。

遡って、その親たちも親の愛情を受けて来られなかった方々で、更に遡って行くと----。 そのように考えていけば、命あるものに対して、尊重するとか、尊厳などと云うことさえも浮かんでは来ないのではと思うのです。

また、その後の出会いもなく、命あるものを大切に考えることも、なかったのではないかとも思います。 

自分のことはさておき、我が家にいたヒマラヤンのお母さん猫の、エルちゃんを思い出します。 初めてエルちゃんが我が家に来たのは、子供達が小学校の低学年前後だったと記憶しております。

地域の情報誌で子猫を譲りますと云う記事を見て、お伺いし譲ってもらう約束をしましたが、もう少し待って下さいと云われました。 その時のことを反芻すると、もう少し親の愛情や躾けを与えてから、譲りますと云うことであったと思うのです。

我が家に来た頃のエルちゃんは、丁度、私が独立して我が家で製図板の前で、あれこれ考えている時期でしたが、製図板の上に上がって来て、何かを作業するどころではありませんでした。

従ってエルちゃんをそとへ連れ出し、紐も付けずに自由にします。 すると嬉しそうに木に登ったり、茂みに隠れてしまったりします。 私とずいぶん過ごした割には、成人すると娘にベッタリでした。

そんなエルちゃんも1年経ったら、しきりと悶えるようになりましたので、お見合いをしましたが、面食いだったようで上手く行きませんでした。  従って猫の本の著者の家に訪ねて、玄関先に真っ先に出てきた元気の良い子猫を、貰うことに決めました。

雄の子猫が1年経つ頃に、押入れの中で猫の鳴き声が聴こえました。 するとエルちゃんが得意そうに子猫の首を咥えて、一匹ずつ見てよと云う気持ちでしょうか、私たちの家族に見せるのです。

お父さん猫のジュンちゃんは、もちろん男前であると云うことは、言うまでもありません。 エルちゃんの子猫の育て方を見て改めて、親の愛情を受け継いだものは、それをまた子猫に受け継ぐものだと感じたのです。

猫を通して私たち人間の子供に対する愛情や躾けの大切さを、改めて感じた時でした。


母の遺品の後片付けをしながら改めて母のことを想う

2015-03-16 06:39:23 | 

 赤羽でひとり住まいをしていた母が、股関節骨折をして重層式の共同住宅の3階(5階相当)に住んでいましたので、私の住まいのある多摩ニュータウンに引っ越してきました。

 

 とりあえず事務所建物の各階にある小さな倉庫を利用させてもらって、収納することにしました。 衣類は姉と弟の嫁さんが二人で手分けして選別し、大半は衣類の再資源ごみに出すことにしました。

 

 然しながら私たち兄弟3人のアルバムや、母のアルバムなどや大量に残された詩吟のカセットテープ類は、そのままでした。

 

 父が天に還ってから始めた詩吟は、一度聴いたことがあるのですが、特別何かを感じさせるという歌声ではなかったものの、長い間、行なっていた水泳と共に、かなり熱心に謳っていたようです。

 

 助教授やら師範やらの免状が、次から次へと出てくるに至って、随分とお金がかかっていたんだろうなあと、思ったものです。 私の会社の監査役として、役員手当てを送金していましたので、それなりに経済的には暮らしていけたんだろうと、預金通帳を整理しながらも感じました。

 

 母の写真類を観ながら、いわゆる剛の雰囲気を持っていましたが、晩年の母の姿を想い浮かべると、なかなか良い顔をしていたなあと想い出すのです。

 

 三味線や骨董的な焼き物の火鉢は、もう既に貰われていきましたが、昨日やっと一整理がつきました。 大量にあるアルバム類は、スキャンしてパソコンに取り入れてから処分するつもりでいます。

 

 2月からの一月半、いい時間を過ぎさせてもらいましたが、確実に腰にその負担は残っているようです。


母からの無償の愛を後年 子が母親への無償の愛を返せるか

2014-11-26 09:01:20 | 

 私のハンドルネームの龍之介は、我が家に最後までいた息子猫の、ヒマラヤンの名前から取りました。 ふとお母さん猫のエルちゃんが、初めてお父さん猫のジュンとの間に出来た子猫に首を咥えて、これを見てちょうだいと歩き回ったことを思い出します。

 

 エルちゃんは3~4ヶ月母親の元で育てられましたので、とてもお利口さんの猫でした。 いつの間にか押入れの中で生んだのです。 我が家の誰もが、お腹が大きくなって身ごもっているなんて、知りませんでした。

 

 ある日、突然、何やら子猫が啼く声で、あれと思ったほどでした。 

 

 エルちゃんは、よく子猫を舐めていました。 私は我が子の鼻に口をつけて、鼻汁を吸っていました。 そんなことを思い出しながら、自然と小さな子供をペロペロ舐めたくなります。 例え、親しい他人のお子さんでもです。

 

 ある意味では、私の愛情表現なのかもしれません。

 

 母親は、自分の子供を育てることを第1優先にして行動します。 私たちは意識をしない頃のことは覚えてはいませんが、そのようの育てられたに違いありません。

 

 後年、親が加齢化する中で、足腰が不自由になってきた時に、今度は私たち子供が、そのお返しをする番です。 その時に果たして、母親が無償の愛で育ててくれたように、私たちも無償の愛で接することができるでしょうか。

 

 それまで育ててくれた親たちの葛藤を乗り越えて、接することができるでしょうか。 私は、いま特に母親のことを思い出すと、胸が痛くなってきます。 現在、友人から歩けなくなった母親のお世話をすることへの葛藤について、お昼ご飯を食べながら聴くことがあります。


母への介護の体験が他の人のお役に立っているようですが

2014-10-22 08:47:32 | 

 赤羽で独り住まいだった母を、1週間に1囘、顔を出して元気な姿を安心していた私でしたが、股関節骨折を期に、階段を上り下り出来ないと、私の多摩ニュータウンの住まいに、来るようになりました。

 

 引っ越して来た当初、母は昼間、一人になると家から出て行くことがありました。 私が家に帰ってきた時に、1階の方が、どうも顔が似ているので、○○さんのお母さんですかと尋ねると、違います違いますと否定したので、多摩中央警察に連れていったということでした。

 

 家に母が居りませんでしたので、直ぐに多摩中央警察に迎えに行きました。 母は長く住んでいた赤羽の家に、帰りたかったようです。

 

 その後、母は病院からもらってきた薬が、精神薬であったため、よく夜中に失禁をするようになりました。 ところが市役所の福祉課の方から、その薬の成分を聞いてから、薬の服用を止めたら、ぴたりと失禁はなくなったのです。

 

 昼間、一人でいるのは良くないと、近くの老人保健施設に入ることになりました。 私の支援者の一人である方も、ちょうど他の施設に入ったばかりで、これからの先に、どのような行動を起こす必要があるかを、教えてもらいました。

 

 介護度がまだ2程度でしたが、特別養護老人ホームへの申し込みを行いました。 特養に申し込みをしているということで、1年以上居ることができ、その後、別の施設に移り、3ヶ月後に、特養に入ることができました。

 

 母は若い頃、女番長をしていたようで、多くの人の中にいたほうが元気が出るようで、老健の施設の時も、運動会で選手宣誓をしたようでした。

 

 特養に入ってからしばらく体のほうも安定していたのですが、20年ほど前に行った腎臓結石の破砕手術後、肝心な細かく砕かれた結石が排出されずに、結果的に透析をすることになってしまいました。

 

 特養から退出し、府中病院から青梅の小作の療養型の病院に入ることになりました。 結局、青梅の療養型病院と府中病院を往復するようになり、最後は私が昼間にお見舞いに行った帰る途中で、天に還って行きました。

 

 こんな母のことを思い出さながら、文章を書いていても、なんとなく胸が痛くなってきてしまいます。


お母さん猫のエルちゃんから学んだこと・子へのしつけは母が

2014-09-18 08:13:43 | 

 我が家のお母さん猫のエルちゃんは、子供の頃にしっかりとお母さんから、色々と教えてもらっていたのか、とてもしっかりとした賢いお母さん猫でした。

 従がって自分の子猫たちにも、その教えを伝えたようです。

 

 おしっことウンチの仕方が、家で猫ちゃんを飼うときには、とても大切なことです。 然るに1年後に我が家のお父さん猫になったジュンちゃんは、ブリーダーのお宅から買ってきたので、しっかりとお母さんから教えてもらう時間は、なかったようです。 生まれてまもなく、貰われていってしまうからです。

 

 それでもお父さん猫のジュンちゃんは、誰が我が家に来られようとも、多くの子猫ちゃんたちと一緒であったためか、物怖じせず堂々と対応しておりました。

 

 エルちゃんはシャムが強いヒマラヤンで、ジュンちゃんはペルシャが強い猫ちゃんでした。 生まれてきた子猫たちは、ちょうど両親のよいところを貰ってきた感じがしました。

 

 近所の子どもたちの姿を見るにつけ、どれ程の教育、しつけをお母さんから受けてきたのだろうかと、思うことはしばしばです。 子どもを見て親の考え方も分かってしまうのです。

 

 道を歩いていると、食べたものの袋が、捨てられていると、とてもがっかりします。 その子の親も、多分、しつけを受けてきていないだろうなあと、想像できます。

 

 お父さんよりもお母さんがしっかりしておれば、子どももそれなりに育っていくように思うのです。 しっかりもののお母さん猫のエルちゃんを、時々思い出すのですが。


今日は母が生きていれば97歳の誕生日です

2013-06-21 07:48:27 | 

 両親が天に還って行った日は、春と秋に行く墓参りで思い出すのですが、不思議と生まれた日は、いつも頭の中にあります。

 丁度、今日は母が生まれ出た日で、生きていれば97歳になります。 私の周りで親の介護の話をされている方の話を聞くにつけ、我が母のことを思い出し、胸がいたくなってきます。

 父は65歳の時に、交通事故で天に還っていきました。 父のときは、前日に我が家に電話があり、連れ合いに、私を頼むとか、私の姉を頼むとか話していました。

 父のことは時間がだいぶ経ちますので、思い出すことは滅多にありませんが、母のことは6年ぐらいしか経っていませんし、自分の創造主だと思うくらいですから、当然なのかもしれません。


母がみかんの皮を頭に載せた写真を見て母を想い起こす

2013-05-10 07:16:07 | 

 先日、私のブログにコメントを寄せてくれた特別養護老人ホームで働く方の文面を見て、今は亡き母が、かつてそのような施設でいたことを思い出しました。 そんな中で事務所を整理していると、母がみかんの皮を頭に載せながら笑っている大きな写真が、出てきました。

 赤羽で一人住まいをしている時に、週に1回は母の所へ、出かけていきました。 そのうちに、いつの間にか股関節を骨折してしまい、急遽、入院して、私の多摩の住まいに引越しをしてもらいました。 

 とりあえず、息子の部屋に入ってもらいましたが、入院先でもらっていた薬が、相談に行った市役所の高齢福祉課で、その薬が逆に呆けさせることが分かり、服用をやめた途端に,おしっこを漏らさなくなったりしました。

 我が家に住むようになって昼間、ひとりぼっちになると、家を出て赤羽の家に帰ろうとして、1階の方が、母の顔が私に似ているので、「5階の○○のお母さんですか」と訊ねても、「いえ違います」と、家に帰りたい一心で、云うのでした。

 これはまずいと思い、早速、市役所へ行って、近くの介護老人保健施設を経て、特別養護老人ホームのお世話になりました。 どの施設にいても、おしゃべりが好きなせいか、人気者のようでした。

 私は、いつも母の所へ通っては、おしゃべりをしながら、笑っている母の頭をなでていました。 いつまでも元気いてくださいねと願いつつ。

 20数年前に私と同時期に、腎臓結石の破砕で入院したのですが、私は逆立ちしながら腰を叩いて、結石を無事体外へ排出したものの、母は残念ながら破砕された結石が、体内に残ったため、それが原因で腹膜透析をすることに、なってしまいました。

 その後は府中病院と青梅の療養型の病院を、往復するようになってしまい、最後は、拘束衣と拘束手袋をしながら府中病院で、天に還っていきました。

  そんな母のことを思い出すと、思わず胸が痛くなってきます。


母が夢の中で黙って振り向いてにこっと笑いました

2009-02-10 15:17:45 | 
 時々思い出すのですが、母が病院での闘病生活をし、大分具合が悪くなったときに、私の夢の中であちらを向いていた母が、こちらを振り向き、にこっと笑っていました。 それから2,3日経ってから、母は天に帰って行ったのでした。

 私には、沈黙の中にも「どうもご苦労さん」と話しかけているように感じました。 夢は時々見るのですが、現実の事柄の一端を表しているような気がしてなりません。

 今、生きている方が出てくる場合は、何とも言いがたいところがありますが、既にこの世にいない方が、夢の中に出てくる場合は、天からそのような雰囲気でいられるのではないかと思う節があります。

 夢の内容を、関係者にも話すことがあるのですが、夢の中では話すことはできませんが、夢のなかで既にこの世にいない方と、接することができているのではないかと、いつも不思議な感覚になることがあります。

 寝ながらも楽しむ感覚が、大切なのかも知れません。

土に還る天に還る

2007-03-21 17:31:16 | 
 今日は、母の初彼岸ということで、我が家では娘と3人、弟夫婦とで片道2時間ちょっとの道のりで、お墓参りをしてきました。 お墓には骨ツボがあり、この世にいなくなった証としてのものが残ってはいます。

 亡骸は、焼き場で焼いた後は、骨ツボに入れるのではなく、骨を粉々にして土に還すか、海の中に還すか散骨するのが、一番良いのではないかと思うようになってきました。 自然の循環システムの考え方からすれば、人間の亡骸も自然に帰すのが合っているように感じます。

 母がこの世の生を全うした時に、母の霊(生きる本体)が天に還っていった感覚がありましたので、なおさら亡骸は自然界に戻すのが、良いのではないかということに行き着きます。 30年ぐらい前に亡くなった父は、もう何処かで生まれ変わったのではないかと思いますが、昨年11月に天に還っていった母の霊は、まだ天の何処かで生まれ変わるための準備を、しているのではないかと思われます。

 葬儀屋さんに聞いたところ、公海上以遠で散骨する分には、罪には問われないそうですが、現行法規では原則的に、散骨は犯罪になるということでしたが、自分自身は散骨をしてもらいたいと、今から願っております。