いつも年末になると、年賀状の中味をどのようにするかについて、25,6日まで考えて手書きで一枚一枚書いておりましたが、パソコンで作れるようになってからは、ちょっと楽にはなりました。
それでも文章だけは、今年の反省を考慮しながら、来年に向けてどんなことを考え、意識しながら過ごそうかと思いながら、作っていきますので、いつもなかなかまとまらず、ぎりぎりまで作れず、30日や31日にやっと投函するというのが日常茶飯事でした。
今年は、91歳の母が天に還って行きましたので、とりあえずは喪中ということで年賀状は作らずに済んでいます。 父は浄土真宗ですが、母は天理教ですので、いつも交信のある舞子の分教会に連絡したところ、天に還って生まれ変わるので、お祭りをしますという返事が返ってきました。
私も、母の場合は、天に還っていったなという感触がありますので、確かにどんな状態の母でも、現実にこの世に存在しなくなってしまったという意味では、さびしく感じますが、一方では、またどこかで生まれ変わってくるのだな、という感覚でいますので、悲しいという感情は持ち合わせません。
今年は、特に、丁度親達が適齢期になったせいか、喪中の葉書が多く、自分としては葉書1枚で済ませたくないな、という気持ちになり新年になってから、寒中見舞いを改めて、出そうという気になったわけです。
それでも文章だけは、今年の反省を考慮しながら、来年に向けてどんなことを考え、意識しながら過ごそうかと思いながら、作っていきますので、いつもなかなかまとまらず、ぎりぎりまで作れず、30日や31日にやっと投函するというのが日常茶飯事でした。
今年は、91歳の母が天に還って行きましたので、とりあえずは喪中ということで年賀状は作らずに済んでいます。 父は浄土真宗ですが、母は天理教ですので、いつも交信のある舞子の分教会に連絡したところ、天に還って生まれ変わるので、お祭りをしますという返事が返ってきました。
私も、母の場合は、天に還っていったなという感触がありますので、確かにどんな状態の母でも、現実にこの世に存在しなくなってしまったという意味では、さびしく感じますが、一方では、またどこかで生まれ変わってくるのだな、という感覚でいますので、悲しいという感情は持ち合わせません。
今年は、特に、丁度親達が適齢期になったせいか、喪中の葉書が多く、自分としては葉書1枚で済ませたくないな、という気持ちになり新年になってから、寒中見舞いを改めて、出そうという気になったわけです。