ひとり座禅のすすめ

自分ひとり、坐禅(靜功)を日常生活の中で取り入れていくと今までと違った感覚を覚えていく。

姿勢を正す、力を抜く、姿勢を維持するという矛盾の意味を座禅から感じ取る

2009-09-29 06:55:44 | 座禅
胡坐を組んで座禅を行う時に、長く座禅を行うためには、出来るだけ楽な姿勢が正しい姿になります。 楽なという意味は、出来るだけ筋力が働かない姿勢であるということです。

 胡坐を組んだ上体の姿勢は、頭のてっぺんが天から引っ張られる感じで、維持するのが正しい姿勢です。 お尻全体でどっかりと座り、お尻の中央部で上体の荷重を支えるというのが、正しい姿勢であると思っています。 

 曹洞宗のホームページではお尻と両膝の3点で、上体を維持するように記述してありますが、両膝はあくまで転倒しないように軽く支えるというのが、正しい姿勢であると感じています。 両膝とお尻の3点支持にしますと、体重を直下のお尻で支持するよりも、お尻と両膝の3点の中心に荷重の重心が来てしまい、当然何らかの形でどこかの筋力が、働くことになってしまうのです。

 私自身は普通の胡坐の組み方で、3時間の座禅を続けていた時がありますが、慣れてしまえば足の痺れも無く、足の痛みもありませんでした。 私自身は3点支持の座禅を行ったことがありませんが、当然、筋力が働きますので、長くは出来ませんし、どこかが痛くなってくるはずです。

 座禅の本当の姿勢は、いかに姿勢を保ちながら筋力が働かないようにするかが、とても大切なことなのです。 

意思さえあればたたみ半畳のスペースでできるのが座禅です

2009-09-27 20:48:21 | 座禅
座禅を自分のものとしてできるようになるには、どれだけ意識を一点に集中できるかに、かかっています。 そのためには、先ず吐く息を出来るだけ長く吐けるようにすること、吐く息をイメージで体の中に吐くこと、吐く息だけに意識を集中することです。

私自身は、お臍のちょっと下にあるといわれていた臍下丹田に向けて、息を吐いていましたが、いつもその丹田はどこだろう、どこだろうと思いながら、座禅を行っていました。 体の中へ入っていく息を追いながら、そのことだけに意識を集中しておりました。

 我が家で出来るひとり座禅の良さは、自分の生活スタイルに合わせて、自分の好きな時間や場所で、出来るのです。 呼吸さえリズムよく、スムーズに行うことが出来れば、意識は一点に集中できるのです。

 隣室で家族がテレビを見ていて、多少の音が聞こえたりしたとしても、意識は集中できるのです。 足の痺れも慣れてくれば、早晩痺れなくなります。 普段行っている呼吸をちょっと視点を変えて、吐く息を出来るだけ長く吐き、吐く息を体の中へ吐く、胸式肺呼吸を行っていれば、自然と逆腹式呼吸に推移していきます。

 逆腹式呼吸は私達に自己免疫力を、知らず知らずのうちにつけてくれるのです。 また逆腹式呼吸を続けていきますと、私たちの体に微妙な変化をもたらします。 その微妙な変化を楽しみながら行えば、また違った感覚を与えてくれることになるのです。

 ただ単に胡坐を組んで座るだけの座禅が楽しめれば、あらゆることを楽しめるようになります。 例え、それが嫌なことや苦しいことでもです。 呼吸法や座禅を楽しんでください。

教えてもらったことを一度否定することから物事を考える

2009-09-26 19:53:11 | 座禅
昨日は、完徹で仕事を行ったので、今日は早めに帰り白州次郎の話を、DVDでみることになりました。 ケンブリッジに留学し、先生から教わったように模範解答をしたら、教授から「君のは教えたとおりに書いてあるだけで、自分の意見が何もない。教えてもらったことを、まず否定し、そこから考え自分の考えをつくるべきではないか」と云われ、目覚めることになりました。

私は、人から教わるのは苦手です。 まだそれなりの人に出会ってないのかもしれませんが、今まで人から何かを教えてもらっても、そのまますんなりと受け入れることは、どういうわけか行ってきませんでした。

子供のころから父が若いころ、超距離-マラソンを走っていたことから、自然と毎日のように走っていました。 高校のバスケットボール部では、OBのコーチの仕方について、もう少し違った教え方があるのではないかと、練習の合間にも考えていました。

結婚して子供が生まれてからも、自分勝手な方が多くやっていた硬式テニスを、近くのテニスコートで、早朝にそこで知り合った方と3年間、雨が降らない限り毎日のように、へとへとになるまでプレイをしました。 そのテニスも相方と練習方法を考え、自分たちでテニスボールに慣れていきました。 テニスは独立後仕事もないときに、あえて精神的にだけは余裕を持とうとして、はじめたのです。

テニスのときもそうでしたが、いつも感じていたのは、教え方の上手な方は、滅多にいるわけでもなく、そうであれば自分たち自身で考えながら、プレイをしたほうがよいというのが、結論でした。

座禅(静功)についても、たまたま早期にいろいろなものを感じるようになったために、毎日の座禅を通してさらに多くのことを、感得できたのでした。

組織の中にいる人は、考え方が保守的になりがちです。 私自身は、いつも自由人でありたいと思っておりますので、今後も深夜の行う座禅も、楽しみながらもう少し長く行い、ひたすら座禅の姿勢を、続けるつもりでいます。



座禅の基本は戒、定、慧だといいますが

2009-09-24 21:02:34 | 座禅
座禅を通して、定、慧は何となく感覚的に判ります。 ですが、座禅を通して戒は、分からない雰囲気があります。 

生理学的にいいますと、脳波がα波からθ波になったときに、宇宙の叡智と触れ合うチャンスができるのです。 座禅の深化の過程で、β派からα波を通してθ波になりうるのです。 定の状態を通して、慧を感じるようになるのです。

ですが戒となると、まだまだ欲の塊が残っている身にとっては、戒までは考えが及ばないものではないかと思います。

正しく言葉の理解をしているかどうか定かではありませんが、インターネットで検索した範囲での今日現在の感想です。 疑問に思っていることがありますと、いつも座禅の雑念の中で、ふと頭をよぎるのです。 そんなときにまた考えさせてもらうことにしましょう。 宇宙の叡智が、こう考えたらどうですかとサジェスチョンを、きっと与えてくれることでしょう。

いずれにして、また今夜の深夜の座禅を楽しむことにしましょう。

本当の座禅って何ですか

2009-09-23 06:56:01 | 座禅
「 宇宙と一体になるというような考え方が座禅ではないのでは?
一度基本に立ち返らないといけないと思う。そうじゃないと本当の座禅にはならないのでは?」 こんなコメントが9月2日付けのブログに入っていました。

 本当の座禅とは何でしょうか。 宇宙に一体になる感覚は、座禅を続けていけば、体中の経絡が開き、自然と宇宙と一体になる感覚になるのですが。 勿論、宇宙と一体になるという考えも、ひとつの考え方であり、全てではありません。 座禅の素晴らしさは、一言では言い表せるものではありません。  

 私はこのブログでは、座禅の哲学的な問題を取り上げるつもりはありません。 哲学者や研究者、宗教人の方にお任せていていることは、何度も話していることです。 ここでは、私自身がひとりで座禅(静功)を行ってきて、座禅(静功)の資料が少なかったことから、自分自身がこれまで感じてきたことを中心に、ブログ上で表現し、座禅を行っている方々の一助になればとの思いから続けて来ました。

 何も分からない中で自分自身が、どのような呼吸法を行ってきたか、どのようなことを感じながら行ってきたか、どのようなことを大切と感じてきたかを、述べてきたつもりです。 私は、その人が座禅を通して何を感得したかが、とても大切であると考えています。 

 物事を否定的(消極的)に捉えるのではなく、肯定的(積極的)に物事を捉えるべきではないかという考え方も、禅宗の座禅会に参加して感じたものです。 結跏趺坐で足を組むのは、逃げられないためではなく、宇宙と一体になる感覚になるために必要なのです。 足の裏は宇宙の気を吸うためです。 目も半眼にするのではなく、力が抜けてくると究極的に半眼になるのです。 このような感覚は、自分自身が感得するものなのです。

 座禅会に参加させてもらって、疑問に思うこともあります。 例えば、禅宗のお寺で座禅が始まるときに拍子木を打ちますが、静寂さの中で突然大きく響く音には、偏差という気がおかしくなる雰囲気があります。 本当の意味でよく分かっておられるのだろうかと、いつも疑問に思っていました。

 今では私は、座禅(静功)を行うきっかけを作ってくれた亡き大学の級友に感謝しております。 ただ単純に座って吐く息を出来るだけ長く吐くだけで、私に今までとは違った感覚や、目には見えませんが宇宙の叡智ー創造主の存在などを、感じさせてくれたのです。 座禅の時の雑念を通して、また様々なものの考え方のサジェスチョンをもらいました。 こんな素晴らしい座禅を、出来れば一人でもよいから伝えたいと思うのが、自然の成り行きです。 これからも自分自身が感得したものを、伝えていきたいと思っております。

意識する呼吸法を徹底的に行い無意識にも出来るようにしてしまう

2009-09-22 08:37:15 | 逆腹式呼吸
 私達は呼吸することを、生来意識することはありませんでした。 それを吐く息を出来るだけゆっくり吐き、吐く息をイメージで体の中へ吐き、吐く息だけに意識を集中する胸式肺呼吸ー逆腹式呼吸を行いますと、それまで感じなかったことを感じるようになり、ちょっと今までとは違った感覚になります。

 胸式肺呼吸ー逆腹式呼吸を、日常的にあらゆる時間、場所を問わずやって見ます。 ちょっとした時間でもよいのです。 徹底的に日常的に、上記のような呼吸を1ヶ月も続けてみれば、その意識した呼吸も、無意識に出来るようになってきます。

 私は、胸式肺呼吸を行いながら、それが逆腹式呼吸と自然に推移していったのですが、道を歩いている時や家でちょっとした時にも、吐く息が自然と体の中へ入っていく呼吸をしているのに、気がつくのでした。

 現在は逆腹式呼吸を行うよりも、胎息(肺呼吸を伴わない気の呼吸)を行うほうが多いので、無意識のうちに胎息をしながら、日常生活を行っているのに、ふとしたときに気がつくのです。

 

墓地での肝試しは人が一杯いて怖くなかったといいます

2009-09-21 06:19:19 | 自然
 今お付き合いさせていただいている方から聞いたのですが、子供のころ墓地で肝試しをしても、人が一杯いて全然怖さを感じなかった、という話をしてくれました。 自分が見えるものを、みんなも見えるものと感じていたそうですが。

 その方は、墓地のお墓の周りを徘徊する霊を、見ていたのです。 子供の時のことで、自分が見えるために、他のみんなも見えていると思っていたのです。 

 最近の話として、自分の近くに軍靴が置いてあり、そこにつかつかと軍人さんが近づいてきたので、本人は「用はありませんので、お帰りください」と話すと、そのまま、そそくさと帰って行ったということです。

 また家の2階に、お母さんの実家からもらってきた古い木で囲われた火鉢が、おいてあるそうですが、そこから強い霊気が出てくるのを、感じるそうです。

 テレビでヒーラーとして出てくる江原啓之さんも、若いころから他の人の後ろに、背後霊が見えたそうですが、自分が見えるので他の人も見えると、思っていたそうです。 ところが自分だけが見え、他の人は見えないと分かり、随分と悩んだそうです。 ある時ある人から、そのような能力を人のために使われたらどうですかと助言があり、そのように実行することで、悩まなくなったそうです。

 人にはそれぞれ何らかの能力を、秘めているということでしょうか。



久しぶりで家族4人で父母の墓参りを行う

2009-09-20 16:28:19 | 家族
父が65歳で交通事故で亡くなり、母の買っておいた墓地にお墓を建てて、秋と春の彼岸の時には、いつも2時間半かけて32年間お墓参りをしてきました。 子供が大きくなり、それぞれが仕事を持つようになると、なかなか家族一緒でいくことが、できなくなりつつあります。

 いつも欠かさず一緒に行っていた母も亡くなり3年が経ち、今年は久しぶりで秩父まで行くことになりました。 帰りには沢井にある酒蔵の沢の井の豆腐料理屋さんの、ままごとやさんの予約も取ってあります。 余りお酒を飲むこともなかった娘も、最近ではお付き合いの関係もあって、酒量も少しは増えたようです。 車の運転は私が続けることにして、家族3人に豆腐料理と沢の井の日本酒を、楽しんでもらうことに専念します。

 私は長男ですが、連れ合いが自宅の近くに墓地を買ってしまったので、秩父のお墓は弟にあげてしまいました。 いつの日にか分骨をするつもりではいますが、いつになるかは分かりません。 

 私の子供たちは、お墓参りをするのが当たり前になっていますが、弟の家族はどうなんでしょうか。 何が大切なことなのかを、知らぬ間に子供達に教えていくチャンスだと思うのですが。


禅的無心は日常生活の中にもあります

2009-09-19 06:32:47 | 座禅
大学の先輩の仕事のお手伝いをしながら、時々、座禅のときによく話の出る「無心」について、話をすることがあります。 先輩が言うには、絵をスケッチするときに、一心不乱にスケッチをしているのに気がつくときがある、ということです。

 私はその話を聞いたときに、「無心」の状態は何も座禅のときだけではなく、日常生活の中にも存在するものだと、改めて感じたのでした。 「無心」は何も座禅の専売特許ではないのです。

 先輩はもうすぐ80歳になろうというのに、いつも明るく顔色も童顔のように赤ら顔です。 お酒を飲んでいるから、赤ら顔になっているのではありません。 体の中の気の流れがよいと、神経の線に沿って流れている経絡が神経を刺激し、また神経の線に沿って流れている血管を刺激し、血液の流れもよくなるのでしょう。 結果的に皮膚のすぐ裏を流れていますので、童顔のように赤ら顔になるのです。

 そういう意味では顔色が悪い人は、血流の流れが悪いと言うことになります。  

エネルギーを消費すれば必ず廃棄物が排出される

2009-09-18 06:54:48 | 生命
何か活動しようと動けば、そこにはエネルギーが必要とされ、エネルギーを消費すれば必ずそこに廃棄物は排出されるというのが、自然の流れです。

 省エネとは、出来るだけ消費エネルギーを少なくする、地球の温暖化を防ぐという意味合いがあるのですが、よくよく考えてみれば排出ガスや排出される廃棄物を、少なくするという意味合いもあるのです。

 例えば、私達は毎日、生きるために食物を食べエネルギーの源を作っておきます。 がその一方では、食べたもののカスが排出されていくのです。 出来るだけ食べる量を少なくすれば、それだけ排出されるものが少なくなるのですが、どうも食欲という欲のために、ついつい余計なものを食べてしまいがちなのです。

 活動的になるために、生物は酸素を吸い始めたのではないかと、いつも深夜の座禅の時の雑念の中で、考えてしまうのです。 静かにじっとしていれば、多分、それほどのエネルギーは要らなく、宇宙エネルギーである気を摂取することによって、生きることが出来たのではないかと。