富山市水橋周辺の白岩川流域には主として円墳が、いくつか見つかっています。とくにこの若王子塚古墳は、県内最大規模で最古の大型円墳(直径46㍍)です。4世紀頃、すでにこの辺に権力者が存在したことを示しています。またすぐ西側に並んで宮塚古墳があります。南側にもかつて直径11㍍の円墳がありました。
また戦国時代から安土桃山時代には重要な城館として用いられたらしく、この周辺から大溝・井戸・掘っ立て柱建物の柱跡や当時の厚板状すごろく板が出土しています(水橋金広・中馬場遺跡)。軍事的な性格が匂います。しかし、江戸時代に入ると、前期の井戸からは、農具の木摺り臼が見つかり、そこには漁具の「ヤス」が線刻されていて白岩川を遡上してくるサケ・マスの豊漁を祈願したものと思われます。つまりこの頃になると川魚漁や新田開発をすすめる米作りの集落へと性格が変わります。
立山を望み、白岩川とともに生きた人たちの生活の歩みが、何となく想像出来る重要な手がかりです。今は富山市の郊外として、農業とベッドタウンの地域として人々の生活があります。遺跡の脇に立ってじっと周囲を眺めていると、時代時代によって変化する人々の生活の諸相が見えてくるようで面白いですね。
(画像を大きくしたりコメントを見るには、画像・標題クリックしてください。また、例えば下の「コメント(2)」の数字2をクリックしてもコメントを見たり書いたりできます)
ぜひ投票を!とをクリックしてください。
また戦国時代から安土桃山時代には重要な城館として用いられたらしく、この周辺から大溝・井戸・掘っ立て柱建物の柱跡や当時の厚板状すごろく板が出土しています(水橋金広・中馬場遺跡)。軍事的な性格が匂います。しかし、江戸時代に入ると、前期の井戸からは、農具の木摺り臼が見つかり、そこには漁具の「ヤス」が線刻されていて白岩川を遡上してくるサケ・マスの豊漁を祈願したものと思われます。つまりこの頃になると川魚漁や新田開発をすすめる米作りの集落へと性格が変わります。
立山を望み、白岩川とともに生きた人たちの生活の歩みが、何となく想像出来る重要な手がかりです。今は富山市の郊外として、農業とベッドタウンの地域として人々の生活があります。遺跡の脇に立ってじっと周囲を眺めていると、時代時代によって変化する人々の生活の諸相が見えてくるようで面白いですね。
(画像を大きくしたりコメントを見るには、画像・標題クリックしてください。また、例えば下の「コメント(2)」の数字2をクリックしてもコメントを見たり書いたりできます)
ぜひ投票を!とをクリックしてください。