故居で見かけた胡耀邦の揮毫です。胡耀邦の揮毫が今も残っているのは珍しいので写真に撮りました。1984年に来ています。彼が共産党総書記だった時代です。
胡耀邦は、小平に引き立てられ、総書記になりました。趙紫陽総理と共に、改革路線を突き進みましたが、(ここからは推測ですが、多分)小平の考える改革スピードより早く突進し、意見の相克から1987年に辞任して、89年4に亡くなりました。辞任をせず、そのまま89年の六四を迎えたのが趙紫陽です。趙紫陽は結局失脚し、小平は保守派の江沢民に後を継がせました。
胡耀邦は早々に辞職し、早々に六四直前に亡くなったので、毀誉褒貶の面では、得をしています。生きていれば、趙紫陽と同じ目に遭っているでしょう。胡耀邦は表面的には功績あった中国共産党書記とされていますが、政治的には趙紫陽と同じ行き過ぎた改革派と見なされているようで、よそよそしい扱いを受けているように思います。その意味で、江沢民も来た周恩来の故居に、胡耀邦の揮毫が残されているのは、おやっと思わずには居られません。
胡耀邦に関する私の思い出話をもう一席。彼の墓は、江西省(こうせいしょう)の共青城(きょうせいじょう)という所にあります。共青城といのは、中国共産主義青年団が理想に燃えて、模範都市として建設した街です。今は九江市共青城経済開発区になっているようですが。胡耀邦は、共産主義青年団の総書記をしたこともあり、共青城と命名したのも、彼が共産党総書記だった1984年とのことです。そんなことは、よく知らないまま1997年頃でしたか、 南昌から廬山に向かっていた高速道路で、共青城という地名を見かけて、タクシーの運転手(解放軍の軍人が非番でアルバイトをしていました)に、ちょっと見てみようと高速をおりて、市内に入りました。見た所只の田舎町でしたが、胡耀邦の陵墓という標記があり、行きました。訪れている人はゼロでした。皇帝の陵とは規模が違いましたが、駐車場もあり、事務所があり、小高い丘全部が彼の墓という感じで、丘の上に胡耀邦の横顔を彫刻した大きなレリーフがありました。丘の上から周囲を見渡すと広々とした田園風景が広がり、季節もよかったので、大変気持ちのよい風光を感じました。思わず、北京天安門で血を抜かれ防腐処理をされてガラスケースに横たわっている誰かさんよりより、ここで静かに眠る方が気持ちいいだろうなぁと感じました。
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胡耀邦は、小平に引き立てられ、総書記になりました。趙紫陽総理と共に、改革路線を突き進みましたが、(ここからは推測ですが、多分)小平の考える改革スピードより早く突進し、意見の相克から1987年に辞任して、89年4に亡くなりました。辞任をせず、そのまま89年の六四を迎えたのが趙紫陽です。趙紫陽は結局失脚し、小平は保守派の江沢民に後を継がせました。
胡耀邦は早々に辞職し、早々に六四直前に亡くなったので、毀誉褒貶の面では、得をしています。生きていれば、趙紫陽と同じ目に遭っているでしょう。胡耀邦は表面的には功績あった中国共産党書記とされていますが、政治的には趙紫陽と同じ行き過ぎた改革派と見なされているようで、よそよそしい扱いを受けているように思います。その意味で、江沢民も来た周恩来の故居に、胡耀邦の揮毫が残されているのは、おやっと思わずには居られません。
胡耀邦に関する私の思い出話をもう一席。彼の墓は、江西省(こうせいしょう)の共青城(きょうせいじょう)という所にあります。共青城といのは、中国共産主義青年団が理想に燃えて、模範都市として建設した街です。今は九江市共青城経済開発区になっているようですが。胡耀邦は、共産主義青年団の総書記をしたこともあり、共青城と命名したのも、彼が共産党総書記だった1984年とのことです。そんなことは、よく知らないまま1997年頃でしたか、 南昌から廬山に向かっていた高速道路で、共青城という地名を見かけて、タクシーの運転手(解放軍の軍人が非番でアルバイトをしていました)に、ちょっと見てみようと高速をおりて、市内に入りました。見た所只の田舎町でしたが、胡耀邦の陵墓という標記があり、行きました。訪れている人はゼロでした。皇帝の陵とは規模が違いましたが、駐車場もあり、事務所があり、小高い丘全部が彼の墓という感じで、丘の上に胡耀邦の横顔を彫刻した大きなレリーフがありました。丘の上から周囲を見渡すと広々とした田園風景が広がり、季節もよかったので、大変気持ちのよい風光を感じました。思わず、北京天安門で血を抜かれ防腐処理をされてガラスケースに横たわっている誰かさんよりより、ここで静かに眠る方が気持ちいいだろうなぁと感じました。
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父親の書斎か何かだと思います。私がいる所は、中庭です。中庭から部屋の間は扉1枚だけ、天井は無し、石造りの床で、冬は寒かっただろうと思います。淮安はかなり北ですが、江南の家の造りの影響を受けています。
周恩来から話はそれますが、私は、中国滞在中に、革命家の生家をいくつか訪れています。湖南韶山(こなんしょうざん)の毛沢東、湖南寧郷(こなんねいきょう)の劉少奇、河北楽亭(かほくらくてい)の李大(りたいしょう)、革命家と言えるかどうか判りませんが浙江紹興(せっこうしょうこう)の魯迅等です。いずれ、四川広安(しせんこうあん)の小平の故居にも行って見たいと思っています。
これら故居を訪れると、彼らの生い立ちの環境を知ることが出来て興味深いです。また、普通の中国の民家に外国人が入りこむことは難しいのですが、こういう所は大手を振って入り込めるチャンスでもあります。故居ではないですが、黄山の民家に入り込むことが出来たのもよいチャンスでした。
毛沢東の家は、聞いていた通り、小農でした。これ以上貧弱な家なら、残っていなかったと思われるレベルです。
劉少奇は、毛沢東の故居の帰りに運転手が行って見るかと声をかけてくれたので行ったのですが、話の通り、中農でした。毛沢東の家よりは、大分立派な農家でしたが、地主ではありませんでした。後生に相憎しみ会う二人が意外に比較的近くで生まれていたのも興味深かったです。
李大の家は、地主でしょうね。煉瓦造り、瓦屋根で、内庭もあるそこそこ立派な家でした。
魯迅の家は、地方都市の読書人の家という感じです。立て込んだ町並みの一角にありました。
そういう観点から、周恩来の故居を見ると、かなり立派な方です。大きさは、李大の家と同程度です。乳母や使用人に囲まれて暮らしたようです。故居の案内板によると、父は浙江紹興の人で、淮安に赴任してきた小役人との説明ですが、「小」とは言えないと思われます。
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周恩来から話はそれますが、私は、中国滞在中に、革命家の生家をいくつか訪れています。湖南韶山(こなんしょうざん)の毛沢東、湖南寧郷(こなんねいきょう)の劉少奇、河北楽亭(かほくらくてい)の李大(りたいしょう)、革命家と言えるかどうか判りませんが浙江紹興(せっこうしょうこう)の魯迅等です。いずれ、四川広安(しせんこうあん)の小平の故居にも行って見たいと思っています。
これら故居を訪れると、彼らの生い立ちの環境を知ることが出来て興味深いです。また、普通の中国の民家に外国人が入りこむことは難しいのですが、こういう所は大手を振って入り込めるチャンスでもあります。故居ではないですが、黄山の民家に入り込むことが出来たのもよいチャンスでした。
毛沢東の家は、聞いていた通り、小農でした。これ以上貧弱な家なら、残っていなかったと思われるレベルです。
劉少奇は、毛沢東の故居の帰りに運転手が行って見るかと声をかけてくれたので行ったのですが、話の通り、中農でした。毛沢東の家よりは、大分立派な農家でしたが、地主ではありませんでした。後生に相憎しみ会う二人が意外に比較的近くで生まれていたのも興味深かったです。
李大の家は、地主でしょうね。煉瓦造り、瓦屋根で、内庭もあるそこそこ立派な家でした。
魯迅の家は、地方都市の読書人の家という感じです。立て込んだ町並みの一角にありました。
そういう観点から、周恩来の故居を見ると、かなり立派な方です。大きさは、李大の家と同程度です。乳母や使用人に囲まれて暮らしたようです。故居の案内板によると、父は浙江紹興の人で、淮安に赴任してきた小役人との説明ですが、「小」とは言えないと思われます。
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昨日、呉承恩(ごしょうおん=西遊記の作者)とか、劉鶚(りゅうがく=老残游記の作者、昨日劉鄂と申しあげましたが、劉鶚が正しいです)や周恩来の故居が淮安にあると紹介しました。また、前漢草創期の韓信(かんしん)の故郷でもあるようです。
しかし、現時点では、淮安と言うと真っ先に周恩来の故居として想起されるようです。周恩来は、1998に現在の淮安に生まれ、1913年天津南開中学に進み、1917年日本に留学、1919年帰国、五四運動に参加、1920年から24年フランスに勤工倹学(きんこうけんがく=働きながら勉強するの意味です)、1922年に中国共産党に入党という経歴です。
周恩来は、1998年に淮安市楚州区で生まれました。その後1904年から08年は淮安市清河区に父母と共に転居し、そこで読書(=学習)したとのことです。1910年に伯父が居る東北地方(地名は不明です)に行き、読書し、1913年に天津南開中学に入ることになります。
今日は、楚州区の生家、明日は清河区の読書した家を紹介します。
楚州の故居の入り口です。私の後ろ側は駐車場になっていますが、昔は別の家が有ったのでしょう。入り口奥に文字が書かれた紅い壁が見えますが、これが大同九龍壁で紹介した障壁です。中を見通せないようにしています。
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周恩来は、1998年に淮安市楚州区で生まれました。その後1904年から08年は淮安市清河区に父母と共に転居し、そこで読書(=学習)したとのことです。1910年に伯父が居る東北地方(地名は不明です)に行き、読書し、1913年に天津南開中学に入ることになります。
今日は、楚州区の生家、明日は清河区の読書した家を紹介します。
楚州の故居の入り口です。私の後ろ側は駐車場になっていますが、昔は別の家が有ったのでしょう。入り口奥に文字が書かれた紅い壁が見えますが、これが大同九龍壁で紹介した障壁です。中を見通せないようにしています。
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