連城(れんじょう)から昨夜遅く上海虹橋空港に戻りました。
虹橋では、ちらほらマスクをしている人がいました。中国ではこれまで外国からウィルスを持ち込み発症した人だけでしたが、第2代と称する中国内で感染したと思われる人も出始めています。今のところ、日本の関西のように爆発している状態ではありません。しかし、情報を統制している可能性もあり、数日前から、第2代が出てくるだろうが、怖れることはないとの「事前教育」が始まっています。
さて、連城には28日夜でかけ29日一日で連城の古鎮(こちん=古い集落)は見終わりました。道ばたで拾ったタクシーを1日貸し切りにしましたが、その運転手が、30日は永定にでも行ってみるかと言い出し、それではということで、30日は永定の土楼を見ました。小学4年の運転手の息子もついてきました。福建の土楼は昨年妻と一緒に見に行き、紹介済みですが、一つ見ただけで、有名な土楼はみていませんでした。今回、期せずして、有名な土楼をみることが出来ました。
因みに、連城も永定も客家(はっか)と呼ばれる古代に中原を追われて流れ着いた人々が大勢いる地域です。連城の古鎮も永定の土楼もみんな客家です。運転手も客家です。連城で足裏マッサージをして貰いましたが、この人も客家でした。
そんな経緯で、今日は撮り立てのほやほやを少しご紹介します。
写真は連城の培田(ばいでん)という古鎮です。前に映っている丸坊主が、件の運転手です。やくざかなと思う面構え、格好ですが、気の良い男でした。息子を可愛がっていました。
標題をクリックして写真を大きくして見てください。その下に本文とコメントがあります。ぜひとにクリックを!
虹橋では、ちらほらマスクをしている人がいました。中国ではこれまで外国からウィルスを持ち込み発症した人だけでしたが、第2代と称する中国内で感染したと思われる人も出始めています。今のところ、日本の関西のように爆発している状態ではありません。しかし、情報を統制している可能性もあり、数日前から、第2代が出てくるだろうが、怖れることはないとの「事前教育」が始まっています。
さて、連城には28日夜でかけ29日一日で連城の古鎮(こちん=古い集落)は見終わりました。道ばたで拾ったタクシーを1日貸し切りにしましたが、その運転手が、30日は永定にでも行ってみるかと言い出し、それではということで、30日は永定の土楼を見ました。小学4年の運転手の息子もついてきました。福建の土楼は昨年妻と一緒に見に行き、紹介済みですが、一つ見ただけで、有名な土楼はみていませんでした。今回、期せずして、有名な土楼をみることが出来ました。
因みに、連城も永定も客家(はっか)と呼ばれる古代に中原を追われて流れ着いた人々が大勢いる地域です。連城の古鎮も永定の土楼もみんな客家です。運転手も客家です。連城で足裏マッサージをして貰いましたが、この人も客家でした。
そんな経緯で、今日は撮り立てのほやほやを少しご紹介します。
写真は連城の培田(ばいでん)という古鎮です。前に映っている丸坊主が、件の運転手です。やくざかなと思う面構え、格好ですが、気の良い男でした。息子を可愛がっていました。
標題をクリックして写真を大きくして見てください。その下に本文とコメントがあります。ぜひとにクリックを!
人知の限りを尽くして、人間はあらゆるものを作り出し、作りかえ、破壊も容赦なく繰り返してきました。人の住む社会もその人知のなかに入るでしょう。そこで元気を得ることもあるでしょうが、疲れ果てることもあります。
どうしようもなくなったとき、そこに自然があるというのは大きな救いです。ここ数日なんとかナチュラルになれないものかと思いました。竹林の七賢ではありませんが、自然の中で自然体でいられるというのは、至上の喜びではないかと思います。
多少ギクシャクする相手であっても、ナチュラルに接することができれば、こちらもナチュラルになって、自然と流れるものがあるのではないかと思います。反ナチュラルや非ナチュラルとはあまり付き合いたくないです。
何を言っているのか分からないでしょうが、反ナチュラルと言おうか非ナチュラルとも言えるものにここ数日ぶち当たってしまって、疲れ果てました。そこから来た諦めないし憧れの感懐です。
標題をクリックして写真を大きくして見てください。その下に本文とコメントがあります。ぜひとにクリックを!
どうしようもなくなったとき、そこに自然があるというのは大きな救いです。ここ数日なんとかナチュラルになれないものかと思いました。竹林の七賢ではありませんが、自然の中で自然体でいられるというのは、至上の喜びではないかと思います。
多少ギクシャクする相手であっても、ナチュラルに接することができれば、こちらもナチュラルになって、自然と流れるものがあるのではないかと思います。反ナチュラルや非ナチュラルとはあまり付き合いたくないです。
何を言っているのか分からないでしょうが、反ナチュラルと言おうか非ナチュラルとも言えるものにここ数日ぶち当たってしまって、疲れ果てました。そこから来た諦めないし憧れの感懐です。
標題をクリックして写真を大きくして見てください。その下に本文とコメントがあります。ぜひとにクリックを!
一昨日の朝日新聞に全面広告で「この国をどうすれば幸福にできるのか。」「大川隆法、いま、国師として提言する。」が出ていました。幸福の科学という宗教団体が幸福実現党の名で来たる選挙で旗揚げしようとしているらしいのです。いまは国難の時代だからあるべき国の姿をどうデザインすべきかを述べよう、というのです。「国の未来をデザインする幸福実現党宣言」「日本の繁栄を守るために、国家の気概」などの本の宣伝がなされています。
「憲法改正」「国家戦略」「憲法九条は憲法違反」「自虐史観」・・・などの言葉が並んでいます。そして大川隆法自身を「国師」(つまり国家の師表たる高僧に朝廷から与えられる称号)と称えています。
私は、人間は矛盾に満ちたもので、その矛盾に苦しみ克服しようとした果てに人と神の前に立ったのが宗教家ないし宗祖とよばれる人だと思っています。決してあらゆることを見通すことができて、宇宙の真理が自明のもののように分かっていた人ではありません。大川隆法氏はすべてが彼自身には自明のものとして分かっていたかのようにそのデザインを語ります。つまり神の上の神の存在なのです。織田信長以上です。彼には自分に対する煩悶があるのだろうかとふと思ってしまいます。
「自虐史観」という言葉があります。いかにも苦い言葉です。わざと自分を痛めつけようとするかのような響きです。しかし、私が日本人という立場に立てば、「なぜあんな過ちを犯してしまったのだろう」という悔やみきれない思いに立ち至ります。「あれはあれで良かったのだ」などとはとうてい思えません。前に進もうと思えばこれは無視しては通れないし、この前提に立たないことには「あのときはあのとき、いまの状況はあのときとは違う。」などということにもなりかねません。自虐のような思いは、自分の身に刻みつけておくべき宝のような傷跡です。過ちは二度と犯すべきではありません。
標題をクリックして写真を大きくして見てください。その下に本文とコメントがあります。ぜひとにクリックを!
「憲法改正」「国家戦略」「憲法九条は憲法違反」「自虐史観」・・・などの言葉が並んでいます。そして大川隆法自身を「国師」(つまり国家の師表たる高僧に朝廷から与えられる称号)と称えています。
私は、人間は矛盾に満ちたもので、その矛盾に苦しみ克服しようとした果てに人と神の前に立ったのが宗教家ないし宗祖とよばれる人だと思っています。決してあらゆることを見通すことができて、宇宙の真理が自明のもののように分かっていた人ではありません。大川隆法氏はすべてが彼自身には自明のものとして分かっていたかのようにそのデザインを語ります。つまり神の上の神の存在なのです。織田信長以上です。彼には自分に対する煩悶があるのだろうかとふと思ってしまいます。
「自虐史観」という言葉があります。いかにも苦い言葉です。わざと自分を痛めつけようとするかのような響きです。しかし、私が日本人という立場に立てば、「なぜあんな過ちを犯してしまったのだろう」という悔やみきれない思いに立ち至ります。「あれはあれで良かったのだ」などとはとうてい思えません。前に進もうと思えばこれは無視しては通れないし、この前提に立たないことには「あのときはあのとき、いまの状況はあのときとは違う。」などということにもなりかねません。自虐のような思いは、自分の身に刻みつけておくべき宝のような傷跡です。過ちは二度と犯すべきではありません。
標題をクリックして写真を大きくして見てください。その下に本文とコメントがあります。ぜひとにクリックを!