住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

万灯施餓鬼会・法話

2013年08月23日 16時32分22秒 | 仏教に関する様々なお話
今年の夏は酷く暑い夏になりました。7月から、何十年も暑い夏も寒い冬も乗り越えてこられた100歳を超えるようなお年寄りが何人も亡くなられました。それだけ今年の夏は特別なのだと感じます。ですが、私の関わった、そうした100歳前後で亡くなられる方たちの亡くなり方がとても見事と言いますか、親族みんなに最後のお別れをされて亡くなるというような、昔からの日本人の死の迎え方をごく自然にされたようです。みんなに言うべきことを言い残して、なすべき事をすべてして、納得して、感謝の中で亡くなられていく。そんな死の迎え方を私たちもしたいものです。

ところで、今日は万灯施餓鬼会、万灯会の話は前回しましたので、今回は施餓鬼の話をしましょう。ではまず、皆さんご存知の餓鬼とはどんなものでしょうか。皆さん、洗米と茄子キュウリなどを細かく刻んだものを混ぜた水の子を蓮の葉にとって、水を掛けるという作法をして供養なされました。何故施餓鬼はそのようなワザと腐らせたような物を供えるような供養の仕方をするのでしょうか。餓鬼は普通私たちの口にする食べ物を食べることが出来ないからですね。何故なのでしょうか。

餓鬼とは、物欲しくて欲しくて意地汚い心で亡くなった者たちです。物惜しみをして周りの者には分けることもなく自分だけが欲しい。もっともっとと満ち足りない心でいる者たちです。だから暗い心、恨めしい思いでいます。満足なものが食べたくても食べられないという思いでいるために、普通の私たちの口にするようなものが食べられないのでしょう。だから、明るいところ、音などを恐れて、暗がりで他の者たちが居なくなるのを口に指をくわえて待っているのです。

皆さんは餓鬼を身近には感じないかも知れませんが、実は私たち生きとし生けるもの、つまり衆生は、6つの世界に生まれ変わり生まれ変わりしながら生きています。地獄・餓鬼・蓄生・修羅・人・天の六つです。私たちは前世で善いことをして功徳があって、こうして人間界に生まれ、縁あって仏教の話を聞いて下さっていますが、暗い心で、もの欲しい気持ち、恨みや嫉妬の心で亡くなったら、私たちも餓鬼になってしまうかも知れないのです。身近に亡くなられた方も万が一そんなことも無きにしも非ずですから、餓鬼の供養というのはとても大切なものだと教えられているのです。

2500年前のインドの話です。お釈迦様は沢山の弟子があり、出家の弟子も在家の弟子もあったわけですが、当時16あまりあった王国や共和国の為政者たちもお釈迦様に帰依して教えを受けていました。中でも大きなコーサラ国のパセーナディ王は、足繁くお釈迦様を訪ねて教えを受けた内容が多くの経典に記録されています。そのパセーナディ王のお気に入りの妃にマッリカという聡明な王妃がいて、沢山の比丘に供養を捧げ、毎日のように法を聞いたと言われています。

もともとそんなに信仰心厚いわけでもなかった王を仏教に目覚めさせ、なおかつ疑問があるとお釈迦様を訪ねていくような本物の在家仏教徒にしてしまったのはこのマッリカーによる感化によるところ大であったのです。そのマッリカーは、王よりも先にこの世を去ることになります。信仰心深く、あれだけの沢山の功徳を積んだマッリカー王妃はさぞかし善きところに転生したことだろうと誰もが思っていましたが、実は、亡くなる寸前に、生涯で一度だけついた嘘を思い出し、暗い心になったため、餓鬼の世界に逝ってしまったのです。

ですが、少しして、何で自分はこんな所にいるのですかと、沢山功徳を積んだことを思い出すと、その瞬間に、兜率天に生まれ変わったといいます。兜率天とはお釈迦様が前世で居られたところで、弘法大師も亡くなるときには兜率天に逝くと言われたところです。マッリカーが餓鬼界にいた時間は2、3分だったとのことですが、人間界よりも長い時間を過ごす餓鬼界での2、3分ですから、人間界では七日間だったとされ、その間にパセーナディ王は、若くして亡くなったマッリカーの逝き先が気になり、お釈迦様を訪ねます。お釈迦様は、餓鬼に生まれ変わったと言いたくもなく、嘘もつけないので、悲しみを癒すような優しいお話をされて、質問させずに帰します。

その次の日も次の日も同じように精舎を訪ねる王様を王宮に帰し、7日目には、逆に何度もお越しになるが何か質問でもあるのですかと逆に問うたところ、マッリカーはどこに生まれ変わっているのかとお釈迦様に伺います。お釈迦様は笑みを浮かべて、マッリカーは兜率天に天女として生まれ変わり幸せに暮らしていると答えたとのことです。どれだけ徳を積んでも、死ぬ一瞬の心によってどこに生まれ変わってしまうのか分からないという恐ろしさを教えてくれているお話です。

そして大事なことはマッリカーのようにあれだけ私は徳を積んできましたと言えるようにあるためには、確かに善いことをしたのだと私たちも思えるようであらねばなりません。善いことをしたら意識してその行為の功徳をきちんと憶えておくことが必要だということです。毎朝仏壇にお供えをしてチンといわせてお経を上げる、お墓に参って掃除をして仏教のシンボルである仏塔を荘厳して線香燈明を上げて拝む。お寺に参ってこうして法要に参列し、お供えをしてお経を聞いたり、またお寺の諸役を担って仏教のために尽くす、沢山の人の幸せのため地域のためになるお寺の建物の修繕などに寄附を寄せる。こうした行為がとてつもなく、立派な功徳ある行為だと改めて認識する必要があると思うのです。

預金通帳にいくら沢山の金額があっても、どれだけ立派な家があっても、次の世に持ってはいけません。持って行けるのは生前に行った功徳とそれによって培われた清らかな心だけです。みんなやっていることだからと言うことなく、一つ一つの行為が心からありがたいと思うためには、それがどういうことをしているのかと知ることも必要でしょう。ところで、三宝に帰依するということが仏教徒の条件と言われますが、帰依するとは何でしょうか。仏様に帰依するとはどういうことなのか。皆さんの人生にとってどう関わり、どういう意味があるのでしょうか。

昔インドで目にしたことですが、学校の先生などに対して、インドの子どもたちは、右手を先生の足に触れて、その手を額にいただき、そして合掌して挨拶をしていました。正に、み足を頂戴して、自らを無にしてその方を敬い尊敬して学ばせて頂きますという気持ちでなされる行為なのです。それと同じように帰依するとは、仏様、お釈迦様を尊敬して自らの理想として学びつつ、少しずつでもそこへ、つまり悟りに近づいていこうとすることです。

私たちには沢山の願い、夢、希望があります。それらの先の先にいつでもお釈迦様の悟りがあると意識して生きるのが仏教徒の生き方です。だからこそ私たちは、亡くなった方の成仏を願い、法事では何回忌の菩提というように、功徳を廻向して、何度生まれ変わっても一歩でも悟りに近づいて下さい、一生でも早く悟って解脱して下さいと願うのです。悟りとは亡くなった方に願うものではなく、自らも亡くなった後には親族から手を合わされ成仏を願われる存在であることを思い、今のうちから意識して生きていくことによって、日常の仏事、仏壇にお供えをしたりという行為が善行為として意味ある行いとして感じられることでしょう。マッリカーのように、いざというときに私は何でこんな所にいるのですかと言えるために沢山の善きことを意識して行いきちんと記憶していて欲しいと思います。

参考文献・ブッダの実践心理学第五巻業と輪廻の分析(サンガ)



(よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 保坂俊司先生に学ぶ『日本人... | トップ | 帰依礼拝について »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

仏教に関する様々なお話」カテゴリの最新記事