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住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

仏像とは何か

2006年10月08日 13時51分10秒 | 仏教に関する様々なお話
「仏像とは何か?」また、何か大上段に振りかぶって大仰なことを、とお思いの方もあろう。しかし、私にとって、これは大いに意味ある大事な問いであって、高野山にいる頃から、なぜ仏像などあるのだろうか。仏像などあるから仏教は堕落したのではないか。そんなことを考えていた。

前回申し上げた高野山の専修学院にいた頃、同じ修行僧にそう言ったところ、何も答えてくれなかった。高野山に修行に来るような信仰心の篤い人には、なかなか私の発した問いの発想は理解しがたいものがあったのであろう。意外と都会のど真ん中で、若い人に問うてみたらおもしろい答えが返ってくるのかもしれない。

後にインド・カルカッタのお寺にあったときも、そんな思いが沸いた。師匠の宗務総長ダルマパル・バンテーに問うと、「仏像があったからこそ、ここまで仏教が広まったのだよ」とだけお答えになった。

確かにそうなのだ、たしか西暦1世紀中頃クシャーン王朝の時代にガンダーラとマトゥーラーでほぼ同時に仏像が造られ始めた。それまでは、お釈迦様の御像を彫刻することは不遜なこと、お悟りになったお方の姿を刻むなどということはできなかった。それで、彫刻の様々な場面でお釈迦様をあらわす場合、菩提樹であるとか、法輪、仏足石を描くことでお釈迦様を表現した。

しかしお釈迦さま滅後500年して、仏像が造られたことによって、インド世界から他の西域、アジア東部へと仏像と経巻が運ばれ瞬く間に仏教が広まった。確かに教えだけでは仏教は無味乾燥なものであったかもしれない。仏像がなければ、僧侶が勉強したり生活する講堂や僧坊だけで、あっても仏塔くらいで、お寺には本堂もなく香も灯明も差し上げず、荘厳する場もなければいわゆる仏教文化の華は咲き誇ることなく終わっていたのかも知れない。

それでも私は、「仏像とは何か?」と問いたい。たとえば、観音様でも、お薬師様でも、沢山おられる。世界中のお寺に、もちろん仏像として。西国などの観音霊場なら、33カ所で33体もの観音様をお参りする。しかし観音菩薩、釈迦如来、阿弥陀如来、ありとあらゆる仏は本来やはりそれぞれお一人なのではないかと私は勝手に思っている。

四国の八十八カ所も本尊は別々かもしれないが、大師堂に祀られた弘法大師像は88体あって、それぞれにお参りする。しかし弘法大師は本当はお一人であって、来世に都卒天に転生して衆生を済度するのだと言われた。

それなのに沢山の弘法大師像を正にそこにお大師様がおられるかのように思い拝む。仏菩薩もありとあらゆる所に祀られているその御像を正に唯一の仏そのものと思い手を合わせるという。しかし私は、いくつおられても、それぞれをその仏菩薩そのものとして拝むという行為は少々受け入れがたい。それはどういう事かとどうしても考えて、私なりの納得をしなかったら、手を合わせるという行為が嘘になってしまう。そう思えたのだ。

これもしばらくペンディング事項で、いっこうに自ら納得できる答えのないまま時間が経過した。そうこうしていたら、ある時、昔子供の頃テレビで見た「タイムトンネル」という番組を思い出した。二人の主人公が、時空を超越した旅に出る。目に見えないスポット(はざま)にはいると時代を超えて、たとえば300年も前の時代にと四次元空間の旅をして、行った先のハプニングに遭遇し、危機に陥るとまたタイムトラベルを繰り返すというSFものだった。

その時閃いたのは、そうか仏像とはそのスポットなのではないかと。つまり、本来一つの仏へ通じる時空を超えた、仏そのものに直結した四次元の空間が口を開けたスポット(はざま)こそが仏像なのではないかと。だから、その本来の一つの仏に向けて、時空を超えて直結するものとして各々沢山の仏像があるのではないか。そんな風に考えれば、それぞれ造形された仏像に開眼供養を施して、礼拝し拝むという行為に一つの意味づけができるではないか。そう私は納得して、それ以来その考えのもとで仏を拝んでいる。

そして、更に言わせてもらえば、私はそのおおもとの、本来一つである仏菩薩、明王などのすべての仏たち、それらも元を正せば一つであり、それらはすべて歴史的背景からしてお釈迦さまの悟りから発生したものであると考えなければいけない。すべてはお釈迦さまの悟りに端を発して時代に応じて様々に発展させてきたものだから。

お釈迦さまの数え切れないほどの智慧、お徳の一つ一つをそれぞれの仏菩薩たちに分担させているものであると言えよう。すべてはお釈迦さまに収斂されるのであって、様々な宗派も、もとは仏も一つ、教えも一つという発想に立ち返る必要があるのではないか。密かに一人そう思っている。

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仏像 (yukiko)
2006-10-08 15:12:36
お久しぶりです。

ブログはいつも読ませていただいています。

もうずいぶん昔のことですが、京都のあるお寺を訪ねて、拝見させていただいた千手観音様があまりにも美しく、感動で自然と涙したのを

思いだしました。仏教のなんの知識もない私が手を合わせて拝みたくなる気持ち、それには仏教が生んだ芸術だけでなく長い歴史を通して多くの人々がお参りして拝んできたその

気というようなものを感じたのでは、と思いました。仏像のある場所はとても清らかな場所で、

たとえ悪人でもその場所で悪いことはあまり

考えられないのではないでしょうか。

そういう意味で仏像は仏教の真髄を知らない世間一般の人々にも仏様から安らぎの気持ちを頂けるのだと思います。

私の様なできの悪い弱い人間には拝むことをさせていただける、形のないものに対しての

象徴として、仏像というものがあってもよいのでは...と思っていますが、どうでしょうか?

返信する
Unknown (全雄)
2006-10-08 16:49:21
yukiko様、お越し下さりありがとうございます。



そうですね、日本人の、勿論日本人に限らないとは思いますが、それでもやはり日本人のものつくりにたけた職人の技が正に生きてそこに居られるかのような精巧な仏を造形してきた背景から、私たちはその美しさから仏の存在を感じ手を合わせるということになっているようです。それはそれでよろしいのです。



多分私のようになぜこんなに沢山同じ観音様が居られるのだろうかと思う方が野暮ということなのでしょう。ですから、この文章は私一人が合点がいくように仏像とは何かと考えた末の、今の段階での受け取り方ということなのだと思います。



なぜこんな疑問を持つかと言いますと、インドでは神様でも仏様でもそんなにできが良くなくても、みんな敬虔に礼拝するのです。日本人ではとてもそんな拝む対象にならないというような粗末な像でも拝んでいます。



そうした姿を見ますと、形ではないのだなと、思えてしまうのです。それでは本来、神像なり仏像というものはいかなるものなのか、ご像を拝むとはいかなる事かと考えてしまった訳なのです。
返信する
教えていただきたく、、 (小久保圭介)
2018-07-16 08:52:53
はじめまして。
こんにちは。
友人に強く勧められて、
この記事を読んでみてほしい、
と言われ、
今、拝読させていただきました。

『仏そのものに直結した四次元の空間が口を開けたスポット(はざま)こそが仏像なのではないか』

という言葉に、注目しました。

この意味は、口(入口)が仏像であって、
そこから広大な純粋領域に行けるのですよ、
または、仏像を通じて、その奥にあるものを
思いなさい、
という解釈で、間違ってはいないでしょうか。
ちょっと教えていただきたくで、
コメントをさせていただきました。
わたしの解釈でほぼほぼ間違いでないとしたら、
とても素敵な思だと思います。
返信する
小久保圭介さまへ (全雄)
2018-07-18 19:37:28
はじめまして、お便りありがとうございます。

仏様そのものというのはお釈迦様がおさとりになった悟りの心だと思います。その悟りの智慧を分け与えられたものが、たくさんある仏菩薩であるわけですから、それぞれの仏像とは、その仏像に表された仏様の悟りの智慧に直結する窓口というような意味となります。

その仏像に何を思うかはその人なりにいろいろな思いがあってよいのだと思います。奥にあるものを思うというよりは何を学び取り行じて行くかかが大切かと思っています。

どうぞまたお尋ねください。

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