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続 薬師如来の真言はなぜ「オンコロコロ・・・」なのか

2020年02月09日 11時36分26秒 | 仏教に関する様々なお話
続 薬師如来の真言はなぜ「オンコロコロ・・・」なのか



前回、薬師如来の真言について見解を綴った後に、ある方から、「いやいやセンダリマトウギは、そういう意味ではあるけれども、転じて仏教を外護する役割をもつようになったんだよ」とご意見をいただいた。勿論そのようなことも存じてはおり、だからこそ前回冒頭にも述べたこの真言の訳し方の事例の中にあったように「センダリやマトウギの福の神」にもなるし、「降伏の相に住せる象王」という表現にもなるのではあるが、はたしてそのような解釈でよいのであろうかと考えてのことなのである。

田久保周誉先生の『梵字悉曇』(平河出版社)P215には、「唵 喜ばしきことよ。旃蛇利・摩登祗女神は(守護したまえり)」と訳された上で、?マークが付加されている。解説には、「この真言は『薬師如来観行儀軌法』等に見える薬師如来の小呪である。呼鑪呼鑪は歓喜の間投詞である。戦駄利(旃蛇梨正しくはcandali)は古代インド社会階級のうち、最下層に属する卑族旃陀羅の女性名詞、摩蹬祗はその別名であり、悪徳者と見做されていたが、仏の教化によって衆生の守護者に転じたと伝えられる女神である。・・・この真言に薬師如来の尊名がなく、鬼女神の名のみを挙げてあるのは、薬師如来の生死の煩悩を除く本願力を、鬼女神擁護の伝説に喩説したものであろう。」とある。このように、仏の教化によってチャンダリ・マータンギ鬼女が衆生の守護者に転じたとあるのだが、だが、だからといって、なぜ教化せしめた側がその者の名前をわざわざ真言の中に、それも、その者の名前だけを入れ込まねばならないのかが問われねばなるまい。

そもそもこの真言の出典が『薬師如来観行儀軌法』などとあるように、密教儀軌に由来する。密教的要素が多分に含まれるとされる『薬師本願功徳経』など薬師経は、五世紀頃中国で漢訳されているが、近年中央アジアなどで発見された薬師経写本も五世紀頃までさかのぼることができるという。それよりも一世紀ほど早い三世紀末成立とされる、雑密経典に『摩登伽経』がある。これが田久保先生も記される卑族旃陀羅教化の出典であろうか。

『大正新修大蔵経』までたどれないが、それからの引用である『佛弟子傳』P512(山邊修学著無我山房刊)よりその内容を要約すると、お釈迦様の侍者であったアーナンダが旃陀羅種のマータンギの娘から水を飲ませてもらったことに起因して、その娘がアーナンダに恋慕の情を募らせる。そこで、その母親である呪師によって、牛糞を塗って壇を築き護摩を焚いて呪を唱えながら蓮華を108枚投じる呪術がなされると、アーナンダがこころ迷乱してその家に誘導されていった。天眼をもってそのことを知ったお釈迦様が「戒の池、清らにして衆生の煩悩を洗ふ。智者この池に入らば無明の闇消えむ。まこと此の流れに入りし我ならば禍を弟子は逃れむ。」と偈文を唱えてアーナンダを救ったという。

その後も、娘のアーナンダに対する恋慕は止むこと無く、町に出たアーナンダの歩く後ろに付き従い祇園精舎にまで足を踏み入れると、それを知ったアーナンダはその恥ずかしさ浅ましさを感じ、そのことをお釈迦様に申し上げた。すると、お釈迦様は娘に、アーナンダの妻になるには出家せねばならぬと語り、父母にもたしかめさせてから髪を剃り出家せしめた。そして、「娘よ、色欲は火のように自分を焼き、人を焼く。愚痴の凡夫は、灯に寄る蛾のように炎の中に身を投げんとする。智者はこれと違い色欲を遠ざけて静かな楽しみを味わう。・・・」などと様々に教化された。すると、白衣が色に染まるように娘の心の垢が去って清涼の池に蘇り、遂に悟りを開いて比丘尼となったという。

こうした話が仏典にもあり、またこれより後には、呪術をつかさどる力あるものとして伝承されたためか、ヒンドゥー教ではいつの時代からかチャンダリマータンギは女神としての尊格を与えられる。そして、最下層の人々が礼拝していたとされるマータンギー女神となり、穢れを嫌わぬ禁忌のない音楽芸術をつかさどる神としてダス・マハーヴィディヤー(10人の偉大な知識の女神)の一尊としても尊崇されているという。

しかしだからといって、薬師如来の真言に、その女神の名が用いられたとするのはいかがなものであろうか。ましてや、その神としての力を念じて、その力によって人々の病魔を除き給え、心病を除き給えと念じるというのは、仏教徒として余りにも情けない解釈とは言えまいか。教化した仏が教え諭した者の名前を唱えて、そのヒンドゥーの女神の呪力によって人々の願いを叶えるなどという解釈はあり得ないことであろう。

私がこのように解するのは薬師如来はお釈迦様と本来同体と考えるからである。『密教辞典』(法蔵館刊佐和隆研編)P680薬師如来の項に「医王善逝などの名は本来は釈迦牟尼の別称で、世間の良医に喩えて釈迦が迷悟の因果を明確にして有情の悩苦を化益する意であるが、釈迦の救済活動面を具体的に表現した如来である。世間・出世間に通じる妙薬を与える。」とある。薬師如来というよりも医王、もしくは薬師仏としての原初に返って、お薬師様を捉えてはいかがであろうか。そう考えるならば、両部曼荼羅に薬師如来が不在なのもこれで了解できよう。薬師如来が十二の大願をもって如来となったという大乗経典にある説は後世の人々にとっての願いをこの如来に託しつくられたものであろう。

では、「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」をあらためていかに解すべきかと考えるならば、やはり前回述べたような解釈とするのが最善ではないだろうか。「オーン、フルフルと速疾に、社会の中で最下層のセンダリ・マトウギたちに、幸あらんことを、(そしてすべての生き物たちが苦悩なく幸福であらんことを)」との意味から、お薬師様の誓願として、次のように意訳してみたい。「すみやかに最下層にある者たちが救われ、すべての生きとし生けるものたちがもろともに痛みなく、悩みなく、苦しみなく、しあわせであらんことを」と。

お釈迦様が何の躊躇もなく、まさに世間では卑しく蔑まれていた旃陀羅種のマータンギの娘を教化された、その教化せんとされた思いは、四姓の別なくすべてのものたちがよくあってほしいと願われる心から生ずるものであり、心病による苦は癒やされ、安楽なることを願う、衆生に利益を与えんとされる医王であるお釈迦様の心、それこそがお薬師様であり、その心に随喜して、私たちもともに念じさせていただくのだと思って、この真言をお唱えしたいと思うのである。

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