朝日新聞5月24日朝刊に『家族だけでもできる・・・もっと手作りの法事を』という記事が載った。著名な社会学者橋爪大三郎氏の近刊『家庭で出来る法事法要』(径書房)を紹介したものだ。ようは坊さん抜きで法事をしようではないか、その方が仏教のなんたるかに近づくことが出来るという内容だ。
核家族化の進行、病院での死が常態となり、子供たちが死から遠ざかっている。だから葬儀は無理だけれども、法事なら自分たちだけで坊さん抜きでも出来るという。だが、それでどうして子供たちが死と向き合えるというのだろうか。よくわからない。
自分は仏教徒らしいが宗派も知らないという人たちのために、とは言うが、葬式の後の法事ということになれば、既にある宗旨の坊さんに頼んで葬儀をしたのだから、その宗旨でその後も法事を営むのが自然だと思えるが、そういうことには触れていない。
大乗仏教はお釈迦様の言説ではないものを含むから初期仏典を施主が読めばよい、それで法事になると言う。起立、黙祷、読経、献辞などと時間配分されたシナリオを提示してもいるという。こうした内容の、いかにも現代人が受け入れやすいといえるようなマニュアル本を社会学者が試行錯誤して書く時代になった。そのこと自体に現代日本の伝統仏教への痛烈な批判を感じるし、反省を促していると思えよう。
単なる反発でなしに、真摯なる何かしらの改善を志向する契機とせねばならないのであろう。この記事にもあるように、橋爪氏がこの本を書いた背景には、「檀家衆の精神生活とは無縁で、彼岸や○回忌など特定の日にだけ登場して経を読むプロの仏教者への批判と問題提起がある」としている。
プロの仏教者などという表現に、既にただの職業集団としての坊さんに過ぎないという批難が聞こえてこよう。そもそも三宝の一角としての僧宝を欠く近代以降の伝統仏教のあり方が問われている。
妻帯し戒律を守っていない僧団は出家にあらず。本来の仏教から考えればその通りなのである。けれども、現代日本仏教は、妻帯しつつも、伝統を継承する僧侶が専門僧堂での修行を通して、教えのなんたるかを学び実践する中で培ったものを布教宣布する集団として維持されているのが現実であろう。
だから、法事をして読経だけで済ますというのは、やはり批判を受けるにあまりあると言えよう。法事とは、本来的には、清貧なる修行生活の中にある出家者に対して、修行のために必要な食事や袈裟、日用品を施し、彼らの生活する場である寺院を維持発展させるために布施をする。そうした功徳をもって精霊や先祖へその功徳を廻らすことが法事であり、法要であろう。
本来からすればこうあるべきなのである。だから、橋爪氏が述べているように法事を通じて読経し、お釈迦様の教えの一端でも学ぶ機会として法事を捉えるのはよいが、そこに功徳を施す大切な意味が忘れられている。
やはり、そこに先導する者として坊さんがあり、経を唱え、共に教えを学び実践する場としての寺院を維持発展させていく功徳として布施を捉えるならば、法事の功徳もあるのではないか。よって私には、家族だけで経を唱え事たれりとするのはいかがなものかと思える。本来の意味からしても意味をなさない。ただの偲ぶ会と言わざるを得ない。
さらに橋爪氏は、この本の続編として戒名について述べた著作を構想中だという。橋爪氏は戒名を本人もしくは遺族が付けると言う。が、戒名も本来いかなるものなのかと考えねばならない。
戒名は坊さんの僧名に相当するものであり、それは師匠から授かるものである。戒を授かり仏教の世界に入門することを意味するのだから、単に名前を変えることなのではない。檀那寺の住職から戒を受けその際にいただくのが戒名であり、単に名前を付け替えるものと認識されてしまっているのであろうか。
もしもそうならば、それは、今の日本仏教がやはりただ読経だけにたより、そうした仏事の一つ一つの何たるかさえもまったく伝えてこなかった咎によるのだと言えよう。橋爪氏が期待するお釈迦様が説かれた「いかに生きるべきか」を説くまでもなく、その入り口も見えてこない現状に対する憤りが聞こえてくるようだ。
いずれにせよ、このような著作が世の中に出回るということは、本来の仏教を現代に模索するためによいことであろう。あの『千の風になって』が様々な議論の中で、人の死について考えるきっかけとなったように、この橋爪氏の著作が仏教について考える機会となってくれることを願いたい。
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核家族化の進行、病院での死が常態となり、子供たちが死から遠ざかっている。だから葬儀は無理だけれども、法事なら自分たちだけで坊さん抜きでも出来るという。だが、それでどうして子供たちが死と向き合えるというのだろうか。よくわからない。
自分は仏教徒らしいが宗派も知らないという人たちのために、とは言うが、葬式の後の法事ということになれば、既にある宗旨の坊さんに頼んで葬儀をしたのだから、その宗旨でその後も法事を営むのが自然だと思えるが、そういうことには触れていない。
大乗仏教はお釈迦様の言説ではないものを含むから初期仏典を施主が読めばよい、それで法事になると言う。起立、黙祷、読経、献辞などと時間配分されたシナリオを提示してもいるという。こうした内容の、いかにも現代人が受け入れやすいといえるようなマニュアル本を社会学者が試行錯誤して書く時代になった。そのこと自体に現代日本の伝統仏教への痛烈な批判を感じるし、反省を促していると思えよう。
単なる反発でなしに、真摯なる何かしらの改善を志向する契機とせねばならないのであろう。この記事にもあるように、橋爪氏がこの本を書いた背景には、「檀家衆の精神生活とは無縁で、彼岸や○回忌など特定の日にだけ登場して経を読むプロの仏教者への批判と問題提起がある」としている。
プロの仏教者などという表現に、既にただの職業集団としての坊さんに過ぎないという批難が聞こえてこよう。そもそも三宝の一角としての僧宝を欠く近代以降の伝統仏教のあり方が問われている。
妻帯し戒律を守っていない僧団は出家にあらず。本来の仏教から考えればその通りなのである。けれども、現代日本仏教は、妻帯しつつも、伝統を継承する僧侶が専門僧堂での修行を通して、教えのなんたるかを学び実践する中で培ったものを布教宣布する集団として維持されているのが現実であろう。
だから、法事をして読経だけで済ますというのは、やはり批判を受けるにあまりあると言えよう。法事とは、本来的には、清貧なる修行生活の中にある出家者に対して、修行のために必要な食事や袈裟、日用品を施し、彼らの生活する場である寺院を維持発展させるために布施をする。そうした功徳をもって精霊や先祖へその功徳を廻らすことが法事であり、法要であろう。
本来からすればこうあるべきなのである。だから、橋爪氏が述べているように法事を通じて読経し、お釈迦様の教えの一端でも学ぶ機会として法事を捉えるのはよいが、そこに功徳を施す大切な意味が忘れられている。
やはり、そこに先導する者として坊さんがあり、経を唱え、共に教えを学び実践する場としての寺院を維持発展させていく功徳として布施を捉えるならば、法事の功徳もあるのではないか。よって私には、家族だけで経を唱え事たれりとするのはいかがなものかと思える。本来の意味からしても意味をなさない。ただの偲ぶ会と言わざるを得ない。
さらに橋爪氏は、この本の続編として戒名について述べた著作を構想中だという。橋爪氏は戒名を本人もしくは遺族が付けると言う。が、戒名も本来いかなるものなのかと考えねばならない。
戒名は坊さんの僧名に相当するものであり、それは師匠から授かるものである。戒を授かり仏教の世界に入門することを意味するのだから、単に名前を変えることなのではない。檀那寺の住職から戒を受けその際にいただくのが戒名であり、単に名前を付け替えるものと認識されてしまっているのであろうか。
もしもそうならば、それは、今の日本仏教がやはりただ読経だけにたより、そうした仏事の一つ一つの何たるかさえもまったく伝えてこなかった咎によるのだと言えよう。橋爪氏が期待するお釈迦様が説かれた「いかに生きるべきか」を説くまでもなく、その入り口も見えてこない現状に対する憤りが聞こえてくるようだ。
いずれにせよ、このような著作が世の中に出回るということは、本来の仏教を現代に模索するためによいことであろう。あの『千の風になって』が様々な議論の中で、人の死について考えるきっかけとなったように、この橋爪氏の著作が仏教について考える機会となってくれることを願いたい。
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重ねてのコメント恐縮いたします。、「日本仏教は、妻帯しつつも、…伝統を継承する僧侶が…布教宣布する集団として維持されている」という箇所は、何も胸を張って申し上げているものではありません、少なくともそうであらねば存在の価値すらないということであります。最低限その程度の気概もなければお寺に住む理由もないということであります。
仏教界の再生は、これまでにも何度も一つの戒律復興運動として為されてきたことではありますが、そのことごとくに失敗してきたのが日本仏教の歴史です。
国教とされた時代、例えば江戸時代のようになれば、厳しく戒められることになるかとは思いますが、それも官吏としての役割があったればこそであり、現代にあってはそれも望むべくもありません。
ただ、今日では、外国から沢山の立派な僧侶が来日し法を説く時代となり、おそらくは、そうした影響から、日本仏教も修正して行かざるを得ない時代が早晩やって来るものと存じます。
ブラウズしていて、「日本仏教は、妻帯しつつも、…伝統を継承する僧侶が…布教宣布する集団として維持されている」という文言に割り切れなさを感じましたのでコメント致しました。
素人としては、釈迦の教えを奉じ人に説くことと、釈迦の教えを実践することの間に乖離が生ずることなどあってはならないと素朴に思います。
最低限の戒さえ守られない日本の仏教界の現実は釈迦への裏切りとしか感じられません。
これこそ宗教家による不敬虔な行いの極みではないでしょうか。
おそらく戒を守り、真の仏道修行に専念されている僧侶もこの日本にはおられるでしょうが、布教宣布の前に、そのような方々による仏教界の再生こそが何よりも必要だと思うのですが。
随分前の記事までお読み下さり、又、コメントまで残して下さいましてありがとうございます。
仰せの通りかと思います。在家者で到達できるのは、預流果まででしたでしょうか。それ以上に進むためには出家しなくてはいけない。
本来僧侶は皆解脱を求めるべく出家をするのですから、当然在家者のようではならないということになります。
お釈迦様が亡くなられるときには煩瑣な戒律はなくしても良いとされたと聞いていますが、妻帯は即出家にあらず、飲酒は在家の五戒にもあるとおりですから、仏教徒としてももとる行為。日本だけの特別ルールは存在するはずもないことと存じます。
とても広範囲な才能がおありのようで、沢山の文章をここにお書き下さって、誠に恐縮します。
いろいろと研究させていただきます。60億の人々がみな神の一部で、髪の毛はアンテナだという考え方は、田口ランディさんの「コンセント」という小説の中に同じような発想が書かれていたように思います。
とてもおもしろい研究をされていると思います。これからもどうぞよろしく御願いします。
5年の歳月をかけて調べた内容が上記の事でした。
2009/4/ 現在 37歳
私が高校の時にお経とホーミーは同じ位置にあると直感はしていました。
32歳の時にホーミーができることに気がつきました。
脳がしびれタバコが止めれたのには驚きです。
ホーミーの事を調べる事になり、超音波が出ていたので探偵ナイトスクープにでたりと、
自分なりに調査をしているうちに、上記でもの述べている
お経とホーミーの謎と、インド仏教の謎、日本の神話の謎、モンゴルのフーミンの謎 が解明されてきました。
簡単な話、モンゴル国では6000千年前にさかのぼると、宇宙の守護神とフーミン(ホーミー) と呼ばれていたようです。
さらに、モンゴル国では フーミン(喉笛)ができる者の仲にオルツェの血筋がフーミンが最強であるとされています。
さらに調べることに、インド仏教と思いきや 実はネパールが仏教の故郷であることをつきとめ、神戸にあるインド料理店をまわりながら、ネパール人を探すことにしたら、ネパール人に遭遇し、阪急の豊中の駅のインド料理店のネパール人この人はたまたま仏教徒だったので、二人に仏教のことについて聞いてみた、
実は、俺のホームページの内容のプロフィールの 高音と中間と低音のホーミーと紹介しているが、
いずれも超音波が世界中 右に出るものはいないくらいの超音波をだす。160KHZ以上
さらに、日本の牛頭天皇の出身を調べると、なんとモンゴル国らしく、
私の直感では 牛頭天皇はモンゴルのオルツェの血筋である可能性が高まってきた。
インド仏教の謎は、ネパール人たちに聞いてみたらすぐ謎が解けた!
アショカ王がインド統一の時にたいりれょう虐殺をしたため、罪の償いをするために
ネパールにあった仏教をアジアに広めたとされている。
牛頭天皇の謎は、藤原の鎌足の息子が島根県にある出雲大社を三重県の伊勢神宮に移した。
この話は、「日本古代正史」によって 詳しく書かれている。
実は、ホーミーでなくモンゴル国ではフーミンと言うのが正しい。
フーミンと、仏教と、牛頭天皇の共通点をしらべたら なんと「宇宙の守護神」が共通点にでてきた。
さらに調べてみると、神と紙と髪と上と守 の漢字には共通点があっる事に気がついた。
さて、神について説明をするが、
上記の内容は、勿論 ホームページに公開をしていくつもりだが、
八百万(やおろず)の神の真実~
この話は、人類が60億人いるならばすべてが神の一部であるといった考え方である。
心理学者 カール・グスタフ・ユング の集合無意識と同じ話であるし、
PMAプログラムの中にも無限の叡智の話がでてくる。
勿論、漢字では 精神とか神通力など使われる。 仏教用語では ブッチやブッソなど使われる。
さて、髪について説明するが、
ギネスブック保持者の中に髪の毛の世界一長い人がいる。
昔テレビで見たのょを思い出してみると、
その人が言うには、髪を切ると体調がわるくなるばかりではく、
神へのアクセスができなくなる とか言っていたような気がする。
髪の毛は実は、アンテナの役割をはたすようだ。
ちなみに、仏教では邪念が入らないようにするためにスキンヘッドにするらしい。
さて、紙について説明だが、
世界が誇る成功哲学のNO1のPMAプログラムの中にも、
モナハンは、ゴールデンゴールデックスをノートに書き込むといっています。
モナハンは、ドミノピザの社長だったかな?
ゴールデンゴールデックスは直訳すると光のファイル
ノートはペーパーで日本語では 紙です
さて、上について説明をするが、
ようするに、凡人でないと言う意味もあるみたい。
さて、守について説明するが、
かなり面白い発見になりました。
話は坊さんのボーについてだけどネパールの仏教徒は
喉笛(ホーミー)の事をなんと 「ボー」と言っています。
確かに、トバ人民共和国のカルグラの発声方法は、
「ボー」とも 「ゴー」 とも 聞こえる!
上記でも説明をしているが、仏教の故郷がネパールとして、
インド統一のアショカ王の話が本当だとすると、
本来、「ボー」 又は 「ゴー」ができる人を 坊さんと呼ばなければいけいのになぜか?
中国と日本では 、「ボー」 又は 「ゴー」ができない人でも
坊さんと呼んでいるのはネパール人からするとおかしいらしいです!
ここで、やっと 「守」の本題に入りますが、
守護神しゅごしん のゴー は、実は
トバ人民共和国のカルグラの発声方法 を意味しているらしく、
「ボー」とも「ゴー」とも聞こえる。
この五年間で神戸と大阪にある
ネパールの料理店や
インド料理店や、
タイの料理店や、
ベトナムの料理店や、
カンボジアの料理店や、
スリランカの料理店や、
インドネシア料理店など、
喉笛のことについて直撃インタビューを試みて、
ベトナム料理店に勤めていたベトナムの人が、
私の喉笛を聞いて 「ゴー」と言っていたのを思い出しました。
大きな謎が解けた瞬間になりました。
まとめですが、坊さんの坊や厨房の房 女房の房 防御の防などは、
守るなどの意味が含まれている気がしてなりません。
勿論、守護神 のゴー は 防ぐ などの意味合いがせります。
となると、3000年の時を越えて今の日本の仏教は、
カルグラが実際のできなくても、坊さんと呼ばれるようになったのだから、
きちんと伝わっていない事になります。
漢字の事でもかなり面白い事に気がつきました。
実は「気」と「木」には共通点があるのです。
人間には、電気が微量ですが流れていて、
「木」からも蓄えることができると、空手の本で読んだのを思い出しました。
漢字に興味をもち、日本の漢字のルーツを調べたら、
中国の間の時代 レッドクリッフの映画の時代 1800年前くらいに、
漢字が完成されたようです。
そして、その漢字のもとは何かと調べてみると
中国のにウルグイ語が存在していたらしく、
漢字はそのウルグイ語からきているらしく、
ウルグイ語の原型は なんとサンスクリット語らしいのです。
この事実が本当だとすると、上記で話した「神と紙と髪と上と守」の謎が、
サンスクリット語で解明されているのでは? と思い立ち、
今からでもネパールに行ってサンスクリット語の研究をしたいと思っています。
その為にも、資金調達をしなくてはならないし、
もし、サンスクリット語の 「神と紙と髪と上と守」
の意味合いが、上記で述べた通り共通点があるなら、
3000年の時を越えて、言葉は代わったものの
意味合いはぜんぜん変わっていないことになる。
この発見は、凄いのか? 凄くないのか?
また、探偵ナイトスクープに誰か応募してくれたらいいと思います。
http://www.asahi.co.jp/knight-scoop/cyousa.html
とりあえず、イギリスのギネスブックに私の超音波と脳波を登録をしに行かないといけないので、
どうしたらいいかと考えていたら、ゴールデンゴールデックスによれば、
合同会社佐野総合研究所を立ち上げ、スポンサーからお金を集め、
イギリスに行ってギネスブックに登録したり、
ネパールに行って サンスクリット語と
中国に行ってウルグイ語の研究をして、
漢字の研究もしてきたらいいと回答をもらったので、
これから、上記の内容の事は佐野総合研究所が研究する大きなテーマにしていきたいと思っております。
http://hidekisano.web.fc2.com/
坊さんが普段何もせずに、布教も何もしなくてもいいという話ではありません。坊さんの本来のあり方として、記事にも書いたように、教えを学び実践修行によって得たものをご縁ある人に、檀信徒に限らず、説くことは最低限の役割だと思います。
しないのですが、興味のあるお話でしたのでついコメントさせて頂いております。橋爪氏のお話もあまりにも強引。でも、現在のお寺のあり方に意見されているのなら多少納得できます。
お経の意味も実践もできない方が読誦されてもこれはご先祖様も悲しいことですが、仏と衆生を繋ぐお役目の僧侶が片方と
初対面というのも如何なものなのでしょうか。極端な例を申し上げると多少信仰宗教の勧誘を見習わなければならないのではないですか。恵果和尚のように「貧には財を以って、心には
法を以って」は無理にしても衆生に慈悲の心を檀信徒にこだわらず説いてほしいと思います。今後ともブログを楽しみしております。失礼なことを申し上げましたお許し下さい。
あまりにも本来のあり方から自ら遊離した日本仏教の立場からは何も申し上げることはありません。そういうことになるのでしょう。
しかし、仏教とは本来自らの心の安寧を求める観点からすれば、それを与えてくれる存在として仏・宝・僧があったわけです。僧は、教えを学び実践し他に分け与える存在であり、それが出来るならば、初めて会った人でも別に良いのではないかと私は思います。
ただお経を唱えるだけ、訳の分からない作法をして高い御布施を要求する。だからいらないということになる。何のための葬儀か、法事とは何のためにするのかも分からない人たちが仏事について混乱するのは当然のことです。
ですが、それを導くことのできない坊さんたちがこうした現状を自ら招いたということになるのでしょうが、初めましてという坊さんを葬儀に招かねばならないということはその人が普段全く仏教との関わりがなかったとも言いうるわけです。
つまり、そうした現代人の宗教観の欠如にも問題があるわけで、そういう現代人を作っている教育にも大きな責任があり、勿論当然のことながら宗教者の怠慢も原因していることでしょう。
私は、大阪にて仏教サロンを運営する者です。本職は百貨店の仏事相談員です。仏教サロンは一般の方がもっと仏教に親しみをもっていただきたいとの思いで超宗派のお坊さんがお金を出し合い開設し私が運営をしているものです。
実は、私は葬儀や年忌法要(追善追悼供養)はお坊さんヌキですればよいと言いふらしている一人です。件の朝日新聞記事がどういう意図かはわかりませんが、私は葬儀の際に「はじめまして」のお坊さんに来ていただくくらいなら、仏式の葬儀などしない方がマシと思っております。
それは、「日常的にもっと信心をもとう」という逆説であります。
少々変わり者の私ですが、記憶の片隅にでも置いていただければ幸いに存じます。