十年ほど前に手にいれていた石和鷹さんの小説(新潮社刊)である。思うところあって再読した。第8回伊藤整文学賞を受賞している。暁烏敏(あけがらすはや)とは、明治から昭和にかけて説教と著作で一大ブームを巻き起こした明治の怪僧である。名僧という人もあるかもしれないし、傑僧と言うかもしれない。ただよくよくこの本を読んでみればそういう範疇の人でもなかったようだ。
明治の真宗の近代化の旗手であった清沢満之の弟子にあたる。歎異抄は今ではポプュラーなものではあるが、当時は誰も語る人無く、この暁烏敏が見出し今日のように親鸞さんと言えば歎異抄とまで言われるほどにしたのであった。
その歎異抄によって自ら救われた体験から法を説き、常に全国各地に出向いて説教会が催される。会場には瞬く間に何百人何千人もの聴衆が雲集したという。自坊であり生まれ育った石川県松任の明達寺にはほとんど帰らない。その間すべて家族の世話からお寺の切り盛りをしていた、友人の妹であった夫人を病死させ、さらに恩師の娘さんを後妻に迎える。にもかかわらず40代半ばにして、近郷の名家の病弱な娘さんと真剣な恋仲になってしまう。
また当時の真宗教団にとっては、歎異抄は劇薬の部類に入り、それを語り法を説く彼は異端者としてのレッテルを貼られる。本山に異安心として告訴状まで提出される。さらには様々にプラベートでの行状が暴かれて中外日報など宗教各紙に取り上げられスキャンダルに発展する。しかしそんなことどもすべてをあからさまに自ら告白し、それをまた法話や著作の題材にしてしまい、かえって聴衆は増したほどの桁外れの人物だった。
小説の主人公は咽頭ガンで声が出ず、発声教室に通う。その頃暁烏敏に興味を持ちその膨大な著作を読破していく。図書館に通い、また古本屋から希少本を取り寄せて貪り読む。その背景には主人公自身も暁烏敏のようなドロドロした女性関係におぼれ罪深き自己を省みる中で、暁烏の思想から救われる思いがしたからなのであろう。
きれい事では済まされない人としての一生をいかに思いあきらめ、なにに救いを求め、生き抜いていくか。誰もが求めているものを主人公は明治時代の怪僧の一生から学ばんとする。主人公は、共に咽頭ガンを患い発声教室に通う同じ初老の婦人と相たずさえて暁烏の人間像をたぐっていく。
このご婦人が暁烏の自坊近くの出身で、主人公とはまた別の意味から暁烏という人物に関心が強かったがために、暁烏敏について男女での捉え方の違いを鮮明にしつつ、人の一生が一筋縄ではいかないことを訴えかける。理想ばかりには済まない人の切ないまでの葛藤、どうしたら心の安寧をうることが出来るのか。考えさせる。
中年頃から失明に瀕していたにもかかわらず、インドや欧州に一人旅立ち膨大な古今東西の著作を収集して帰国した暁烏は、次代の研究者のために、大日本文教院というとてつもない建物の建設に奔走する。
松任のお寺の近隣の富豪から家屋敷を寄進されるが、この遠大な計画は結局戦争の時代に入ることもあって挫折する。彼にとって思うようにいかなかった唯一のものであったらしい。東西の文学、哲学、思想に飽くなき好奇心を持ち、失明してからは本を読んでくれる青年、読書子を常に侍らせていた。
また戦中従軍僧としても戦地に赴き、また戦争遂行者たちとの親密な関係も噂された。虚実こもごもではあるが、一条の光も目にすることのない中で、まさに手探りの暁烏ではあったが最期までその闘志は衰えることはなかったようだ。70を過ぎて借金問題に苦しむ本山東本願寺の宗務総長に就任して、たった一年でその問題を解決してしまう、それほどまでのカリスマ性をもった大きな存在だったのであろう。
子がなく後継者問題もすっきりせず、失明し常に秘書として付き添い速記して著作としてまとめた弟子たちの確執もあり、複雑な心境の中で戦後間もなくに歿した。いかなる人といえども人の一生とはそうしたものなのであろう。
波瀾万丈の人生ではあったが、当時その影響力は計り知れないものがあった。名前こそ聞かなくなったが、その業績は今に残る。大病人だからこそ劇薬が必要だと絶叫した暁烏の言葉は、今の時代にも待たれているのかもしれない。
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明治の真宗の近代化の旗手であった清沢満之の弟子にあたる。歎異抄は今ではポプュラーなものではあるが、当時は誰も語る人無く、この暁烏敏が見出し今日のように親鸞さんと言えば歎異抄とまで言われるほどにしたのであった。
その歎異抄によって自ら救われた体験から法を説き、常に全国各地に出向いて説教会が催される。会場には瞬く間に何百人何千人もの聴衆が雲集したという。自坊であり生まれ育った石川県松任の明達寺にはほとんど帰らない。その間すべて家族の世話からお寺の切り盛りをしていた、友人の妹であった夫人を病死させ、さらに恩師の娘さんを後妻に迎える。にもかかわらず40代半ばにして、近郷の名家の病弱な娘さんと真剣な恋仲になってしまう。
また当時の真宗教団にとっては、歎異抄は劇薬の部類に入り、それを語り法を説く彼は異端者としてのレッテルを貼られる。本山に異安心として告訴状まで提出される。さらには様々にプラベートでの行状が暴かれて中外日報など宗教各紙に取り上げられスキャンダルに発展する。しかしそんなことどもすべてをあからさまに自ら告白し、それをまた法話や著作の題材にしてしまい、かえって聴衆は増したほどの桁外れの人物だった。
小説の主人公は咽頭ガンで声が出ず、発声教室に通う。その頃暁烏敏に興味を持ちその膨大な著作を読破していく。図書館に通い、また古本屋から希少本を取り寄せて貪り読む。その背景には主人公自身も暁烏敏のようなドロドロした女性関係におぼれ罪深き自己を省みる中で、暁烏の思想から救われる思いがしたからなのであろう。
きれい事では済まされない人としての一生をいかに思いあきらめ、なにに救いを求め、生き抜いていくか。誰もが求めているものを主人公は明治時代の怪僧の一生から学ばんとする。主人公は、共に咽頭ガンを患い発声教室に通う同じ初老の婦人と相たずさえて暁烏の人間像をたぐっていく。
このご婦人が暁烏の自坊近くの出身で、主人公とはまた別の意味から暁烏という人物に関心が強かったがために、暁烏敏について男女での捉え方の違いを鮮明にしつつ、人の一生が一筋縄ではいかないことを訴えかける。理想ばかりには済まない人の切ないまでの葛藤、どうしたら心の安寧をうることが出来るのか。考えさせる。
中年頃から失明に瀕していたにもかかわらず、インドや欧州に一人旅立ち膨大な古今東西の著作を収集して帰国した暁烏は、次代の研究者のために、大日本文教院というとてつもない建物の建設に奔走する。
松任のお寺の近隣の富豪から家屋敷を寄進されるが、この遠大な計画は結局戦争の時代に入ることもあって挫折する。彼にとって思うようにいかなかった唯一のものであったらしい。東西の文学、哲学、思想に飽くなき好奇心を持ち、失明してからは本を読んでくれる青年、読書子を常に侍らせていた。
また戦中従軍僧としても戦地に赴き、また戦争遂行者たちとの親密な関係も噂された。虚実こもごもではあるが、一条の光も目にすることのない中で、まさに手探りの暁烏ではあったが最期までその闘志は衰えることはなかったようだ。70を過ぎて借金問題に苦しむ本山東本願寺の宗務総長に就任して、たった一年でその問題を解決してしまう、それほどまでのカリスマ性をもった大きな存在だったのであろう。
子がなく後継者問題もすっきりせず、失明し常に秘書として付き添い速記して著作としてまとめた弟子たちの確執もあり、複雑な心境の中で戦後間もなくに歿した。いかなる人といえども人の一生とはそうしたものなのであろう。
波瀾万丈の人生ではあったが、当時その影響力は計り知れないものがあった。名前こそ聞かなくなったが、その業績は今に残る。大病人だからこそ劇薬が必要だと絶叫した暁烏の言葉は、今の時代にも待たれているのかもしれない。
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夜20時きっかりから光りますからみられたら!
結局記事を最後まで読んでしまいました。