子は親を選ぶことはできない。そう私たちは思っていたのではないだろうか。だから、何かというと「好きこのんでこんな家に生まれてきたんじゃない」などと言う子供の大きな声を聞くこともあったかもしれない。
こんな家に生まれてきたお陰で苦労ばかりなのか、一生堅苦しい思いをすることになると思うのか、はたまた、なんの心配もなく居心地のいい家で楽に暮らせるなどと、その家に生まれてよかったと思うかは、すべて本当は本人の心しだい。そう言って親や家のせいにするのは、何事も人のせいにしたがる弱い心が考え出した、いいわけに過ぎないであろう。
しかし、本書「子どもは親を選んで生まれてくる」(日本教文社刊)を読むなら、そうした我が儘ないいわけを一切受け付けない理論武装になるかもしれない。書いたのは、れっきとした産婦人科の医師、池川明氏。多くの赤ちゃんの誕生に立ち会い、生まれる前の記憶を語り出す子供に多く出会っている。
そうした子の語る記憶には、生まれる前には雲や空の上にいて、何人かの友達とのんびり過ごしていた、そして相応しい時期にトンネルやはしごを通って、自分の選んだお母さんのお腹にはいるのだと、多くの子供がだいたいそうした共通するイメージがあるという。そしてどの子も、自分は親を選んで生まれて来たと語る。
池川氏は生まれる前の記憶を、胎内記憶、誕生記憶、中間生記憶、過去世記憶に分けている。2003年に長野県諏訪市で市内19カ所の保育所幼稚園で行った調査では、胎内記憶が34パーセント、誕生記憶が24パーセント、実に3人に一人はそれら生まれる前の記憶があるという回答を得ているそうだ。また大人でも、生まれる前の記憶を持つ人が百人に一人はいるという。
子供の脳は、誕生から作られるのではなく、受精の瞬間から作られるという世界の最先端の研究報告がある。幸せや喜び、悲しみや怒り、不安や安らぎなどの感情をコントロールする脳のホルモンや神経伝達物質がへその緒を通して赤ちゃんに流れ込むので、お母さんの感情は赤ちゃんと共有されるとも言われている。
だが、胎内記憶とは、鮮明な映像としてのはっきりした記憶のことを言う。お母さんのお腹の中にいるときの記憶で、胎内にあるときに両親が結婚式を挙げた様子を記憶していたり、お母さんが妊娠中にビールを飲んでいた光景を記憶している子もあるという。それらの事例ではお母さんのおへそから外の様子が見えたと言う子もあった。中には精子であったり卵子であったときの記憶を語り出す子もあるという。
また、誕生記憶とは、言うまでもなく、お産の時に産道を通りお母さんのお腹の外に出てくるときの記憶のことだが、実際の誕生の時間や場所、居合わせた人、器具、生まれ方など本人にしか分からない産道内の状況についても含まれる。
そして、この本のタイトルにも関連する、お母さんのお腹に入る前の記憶が中間生の記憶である。中間生では、自分にとって相応しい、優しそうなお母さんやお父さんを見て選んで、すぐということもあるようだが、何年でも生んでくれるまで根気よく待つこともあるのだそうだ。そのお母さんが赤ちゃんの時から見ていたという子までいる。
そうなると、たとえば虐待を受ける子も自分でおよそそうなることを知っていて親を選ぶのかということが気になるところである。が、その場合も、子供は全部知っていて親に「そんなことをしてはいけない」と教えるためにわざとそういう親の元に生まれてくるのだと証言する子もある。
また兄弟で、生まれる前に順番を決めて同じお母さんのところに生まれようと話し合い生まれてくる兄弟もある。また病気で生まれるか元気に生まれるかも自分で決めて生まれてくると話す子もあるという。
生まれる前の世界は雲の上のようなところで、その上には仏様のように座った神様がいて、死んで雲の上に戻ってきた人によいことをしたか悪いことをしたか聞いて、悪いことをしたら、次に生まれたときによいことをしなくてはいけないし、よいことをした人は誉められて自分の好きなところに行かせてもらえるという。つまり、悪いことをしたら次には自分の好きなところには行けないということであろう。
大事なことは、そうして生まれるということにはそれぞれに意味があって、流産、死産、虐待で命を失う子も、それぞれに、何かしらのメッセージを伝えるためにその選んだお母さんのお腹の中に入るのだということだ。
心臓病で生まれ喘息で入退院を繰り返した子は、手術を要することを神様から言われていたと以前から知っていたと語り、喘息を治すことも楽しいことととらえていたと話した。そうした子と語り合いながら育てた母親は、病気の子を抱え大変ではあったけれども、沢山の経験を経て、生きていることじたいが奇跡であり、家族の大切さを気づかせてもらったと感謝すらしているという。
さらに、過去世を思いだす子もあり、それが過去世記憶である。ある10歳の女の子は、急に男の子の口調になり、「ボクは前に三年生で車に轢かれて死んだので大きな横断歩道は気をつけよう」と語ったという。そこで詳しく聞くと、前世で死んだときの様子を、たとえば習字のバックを持っていたとか、そのころいじめにあっていたなどと克明に語り出したという。
さらには、「その前の人生で辛いことがあったので幸せになろうと思っていたのに自分をいじめる人が現れたので、いじめられ役でもう一度生まれることにしたけれど、辛いので早く終わらせることにした」とも語っている。
この子はさらに沢山の過去世を記憶しており、戦時中の沖縄を舞台にしたドラマを見ていて、戦争で死んだ過去世を思いだし、お母さんと一緒に逃げているとき銃剣で刺され死んだ様子まで語り出したりもしたという。
こうした過去世の記憶を聞いて、池川氏は、それらを一切荒唐無稽のものとは思わず、真摯に受け止めている。そして、それらがどう私たちの理解に役立つものだろうかと考える。
つまり、過去世を思い出す人がいて、それによって過去世が誰にでもある、つまり私たちは輪廻転生するものだという認識を持つことで、死ねばすべて終わり、人間はこの肉体に限定されたものだという現代人の認識を一変させることができるであろうと。
死ねば自分という存在が無に帰すと思い虚無感に襲われたり、死ぬとどうなるのか分からないという不安、恐怖の中に死を忌み嫌う人々は、誰もが生き死にを繰り返すものであり、そうして、命の尊さ、人と人の理解、信頼、愛情を学んでいくのだと考え方を切り替えることで、生きることそのものの意味を感じとることができるのではないかと言われている。
そして、自分の過去世を知ることは、過去がこうだったから、今こんなでも仕方ないと言い訳にすべきものではないと釘を刺す。過去世を知り、今の自分の問題点が何かを明確に理解することで、その人生の意味を悟り、たとえば同じような失敗を繰り返さないように、それを生かしてよりよい人生を生きることにつなげるべきだと捉えている。
さらには、どんな人生にも目的があると唱え、私たちが生まれてくるのは、①親、特にお母さんを成長させるため、②自分の人生のテーマを追求し多くの人の役に立つためではないかと、多くの子供たちの記憶の証言から結論されている。そして、私たちは生まれて生きているだけで、お母さんの役に立てたと思えたとき、②の自分のテーマに向かっていけるものではないかという。
引きこもり、自閉症も含め、人生の目的が分からないという多くの人たちには、様々な原因もあろうが、この池川氏の意見は示唆に富む見解ではないかと思う。そのような子を持つお母さんには特に、子供に対してあなたが生きているだけでうれしい、ありがとうという気持ちをはっきりと伝えて欲しいと述べている。
そして最後に、究極的な人生の目的とは、魂を磨くことではないかと、池川氏は言う。私たちにとっては、魂を心と言い換えることもできよう。それは、天職に就いたり、決して大層なことをしなければ得られないものではなく、通りすがりの人に微笑み、公共の場を掃除したり、困っている人に優しく語りかけるようなことによって、私たちは心を磨いているのだと。
そう考えると、流産や死産、また虐待で命を失うような子、大変な試練を生まれながらに背負ってくる子となってまでも、その親を選んで生まれてくる子がいる意味も理解されよう。
つまりどんな環境に生まれても、その人生での目的を全うするために自ら望んで生まれてきたということになり、その環境がその人生での心を磨くもっとも相応しい場所として、私たちは生きているのだということなのであろう。
そして、私たちの周りにいる身近な人たちは、それがどんなに自分を悩ませる人々であったとしても、自分にとって本当は心を磨くためにかけがえのないものなのであると理解されよう。
「子どもは親を選んで生まれてくる」池川明氏のこの本は、日本教文社の本であるためか、神や天使、魂という言葉が気になる他は、誠に仏教の生命観、輪廻転生の世界観にも共通する内容を含み、宗教書とも言える内容であった。
ただ一カ所、現在の心が変わることで過去世の行いが変わるとしている(146p)のはいかがなものか。過去世の行いに対する認識が変わると言い換えた方がいいのではないかと思えた。そのほかは何の引っかかりもなく読み通すことができた。誠に多くの示唆に富んだ良書であった。
これまでにも、輪廻を記憶する子供の話はあった。しかしそれらはインドやスリランカなど海外の事例に過ぎなかった。この本に記されている事例はみな日本人の事例である点で、それが特異なものではないと理解するのに役立つであろう。是非多くの人にご一読願いたい。
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日記@BlogRanking
こんな家に生まれてきたお陰で苦労ばかりなのか、一生堅苦しい思いをすることになると思うのか、はたまた、なんの心配もなく居心地のいい家で楽に暮らせるなどと、その家に生まれてよかったと思うかは、すべて本当は本人の心しだい。そう言って親や家のせいにするのは、何事も人のせいにしたがる弱い心が考え出した、いいわけに過ぎないであろう。
しかし、本書「子どもは親を選んで生まれてくる」(日本教文社刊)を読むなら、そうした我が儘ないいわけを一切受け付けない理論武装になるかもしれない。書いたのは、れっきとした産婦人科の医師、池川明氏。多くの赤ちゃんの誕生に立ち会い、生まれる前の記憶を語り出す子供に多く出会っている。
そうした子の語る記憶には、生まれる前には雲や空の上にいて、何人かの友達とのんびり過ごしていた、そして相応しい時期にトンネルやはしごを通って、自分の選んだお母さんのお腹にはいるのだと、多くの子供がだいたいそうした共通するイメージがあるという。そしてどの子も、自分は親を選んで生まれて来たと語る。
池川氏は生まれる前の記憶を、胎内記憶、誕生記憶、中間生記憶、過去世記憶に分けている。2003年に長野県諏訪市で市内19カ所の保育所幼稚園で行った調査では、胎内記憶が34パーセント、誕生記憶が24パーセント、実に3人に一人はそれら生まれる前の記憶があるという回答を得ているそうだ。また大人でも、生まれる前の記憶を持つ人が百人に一人はいるという。
子供の脳は、誕生から作られるのではなく、受精の瞬間から作られるという世界の最先端の研究報告がある。幸せや喜び、悲しみや怒り、不安や安らぎなどの感情をコントロールする脳のホルモンや神経伝達物質がへその緒を通して赤ちゃんに流れ込むので、お母さんの感情は赤ちゃんと共有されるとも言われている。
だが、胎内記憶とは、鮮明な映像としてのはっきりした記憶のことを言う。お母さんのお腹の中にいるときの記憶で、胎内にあるときに両親が結婚式を挙げた様子を記憶していたり、お母さんが妊娠中にビールを飲んでいた光景を記憶している子もあるという。それらの事例ではお母さんのおへそから外の様子が見えたと言う子もあった。中には精子であったり卵子であったときの記憶を語り出す子もあるという。
また、誕生記憶とは、言うまでもなく、お産の時に産道を通りお母さんのお腹の外に出てくるときの記憶のことだが、実際の誕生の時間や場所、居合わせた人、器具、生まれ方など本人にしか分からない産道内の状況についても含まれる。
そして、この本のタイトルにも関連する、お母さんのお腹に入る前の記憶が中間生の記憶である。中間生では、自分にとって相応しい、優しそうなお母さんやお父さんを見て選んで、すぐということもあるようだが、何年でも生んでくれるまで根気よく待つこともあるのだそうだ。そのお母さんが赤ちゃんの時から見ていたという子までいる。
そうなると、たとえば虐待を受ける子も自分でおよそそうなることを知っていて親を選ぶのかということが気になるところである。が、その場合も、子供は全部知っていて親に「そんなことをしてはいけない」と教えるためにわざとそういう親の元に生まれてくるのだと証言する子もある。
また兄弟で、生まれる前に順番を決めて同じお母さんのところに生まれようと話し合い生まれてくる兄弟もある。また病気で生まれるか元気に生まれるかも自分で決めて生まれてくると話す子もあるという。
生まれる前の世界は雲の上のようなところで、その上には仏様のように座った神様がいて、死んで雲の上に戻ってきた人によいことをしたか悪いことをしたか聞いて、悪いことをしたら、次に生まれたときによいことをしなくてはいけないし、よいことをした人は誉められて自分の好きなところに行かせてもらえるという。つまり、悪いことをしたら次には自分の好きなところには行けないということであろう。
大事なことは、そうして生まれるということにはそれぞれに意味があって、流産、死産、虐待で命を失う子も、それぞれに、何かしらのメッセージを伝えるためにその選んだお母さんのお腹の中に入るのだということだ。
心臓病で生まれ喘息で入退院を繰り返した子は、手術を要することを神様から言われていたと以前から知っていたと語り、喘息を治すことも楽しいことととらえていたと話した。そうした子と語り合いながら育てた母親は、病気の子を抱え大変ではあったけれども、沢山の経験を経て、生きていることじたいが奇跡であり、家族の大切さを気づかせてもらったと感謝すらしているという。
さらに、過去世を思いだす子もあり、それが過去世記憶である。ある10歳の女の子は、急に男の子の口調になり、「ボクは前に三年生で車に轢かれて死んだので大きな横断歩道は気をつけよう」と語ったという。そこで詳しく聞くと、前世で死んだときの様子を、たとえば習字のバックを持っていたとか、そのころいじめにあっていたなどと克明に語り出したという。
さらには、「その前の人生で辛いことがあったので幸せになろうと思っていたのに自分をいじめる人が現れたので、いじめられ役でもう一度生まれることにしたけれど、辛いので早く終わらせることにした」とも語っている。
この子はさらに沢山の過去世を記憶しており、戦時中の沖縄を舞台にしたドラマを見ていて、戦争で死んだ過去世を思いだし、お母さんと一緒に逃げているとき銃剣で刺され死んだ様子まで語り出したりもしたという。
こうした過去世の記憶を聞いて、池川氏は、それらを一切荒唐無稽のものとは思わず、真摯に受け止めている。そして、それらがどう私たちの理解に役立つものだろうかと考える。
つまり、過去世を思い出す人がいて、それによって過去世が誰にでもある、つまり私たちは輪廻転生するものだという認識を持つことで、死ねばすべて終わり、人間はこの肉体に限定されたものだという現代人の認識を一変させることができるであろうと。
死ねば自分という存在が無に帰すと思い虚無感に襲われたり、死ぬとどうなるのか分からないという不安、恐怖の中に死を忌み嫌う人々は、誰もが生き死にを繰り返すものであり、そうして、命の尊さ、人と人の理解、信頼、愛情を学んでいくのだと考え方を切り替えることで、生きることそのものの意味を感じとることができるのではないかと言われている。
そして、自分の過去世を知ることは、過去がこうだったから、今こんなでも仕方ないと言い訳にすべきものではないと釘を刺す。過去世を知り、今の自分の問題点が何かを明確に理解することで、その人生の意味を悟り、たとえば同じような失敗を繰り返さないように、それを生かしてよりよい人生を生きることにつなげるべきだと捉えている。
さらには、どんな人生にも目的があると唱え、私たちが生まれてくるのは、①親、特にお母さんを成長させるため、②自分の人生のテーマを追求し多くの人の役に立つためではないかと、多くの子供たちの記憶の証言から結論されている。そして、私たちは生まれて生きているだけで、お母さんの役に立てたと思えたとき、②の自分のテーマに向かっていけるものではないかという。
引きこもり、自閉症も含め、人生の目的が分からないという多くの人たちには、様々な原因もあろうが、この池川氏の意見は示唆に富む見解ではないかと思う。そのような子を持つお母さんには特に、子供に対してあなたが生きているだけでうれしい、ありがとうという気持ちをはっきりと伝えて欲しいと述べている。
そして最後に、究極的な人生の目的とは、魂を磨くことではないかと、池川氏は言う。私たちにとっては、魂を心と言い換えることもできよう。それは、天職に就いたり、決して大層なことをしなければ得られないものではなく、通りすがりの人に微笑み、公共の場を掃除したり、困っている人に優しく語りかけるようなことによって、私たちは心を磨いているのだと。
そう考えると、流産や死産、また虐待で命を失うような子、大変な試練を生まれながらに背負ってくる子となってまでも、その親を選んで生まれてくる子がいる意味も理解されよう。
つまりどんな環境に生まれても、その人生での目的を全うするために自ら望んで生まれてきたということになり、その環境がその人生での心を磨くもっとも相応しい場所として、私たちは生きているのだということなのであろう。
そして、私たちの周りにいる身近な人たちは、それがどんなに自分を悩ませる人々であったとしても、自分にとって本当は心を磨くためにかけがえのないものなのであると理解されよう。
「子どもは親を選んで生まれてくる」池川明氏のこの本は、日本教文社の本であるためか、神や天使、魂という言葉が気になる他は、誠に仏教の生命観、輪廻転生の世界観にも共通する内容を含み、宗教書とも言える内容であった。
ただ一カ所、現在の心が変わることで過去世の行いが変わるとしている(146p)のはいかがなものか。過去世の行いに対する認識が変わると言い換えた方がいいのではないかと思えた。そのほかは何の引っかかりもなく読み通すことができた。誠に多くの示唆に富んだ良書であった。
これまでにも、輪廻を記憶する子供の話はあった。しかしそれらはインドやスリランカなど海外の事例に過ぎなかった。この本に記されている事例はみな日本人の事例である点で、それが特異なものではないと理解するのに役立つであろう。是非多くの人にご一読願いたい。
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日記@BlogRanking
『子どもは親を選んで生まれてくる』という表題は、仏教の考え方にも通じるようにも思われます。
勝手に生まれたのではない、自分が選んで生まれてきたのだという、逆転の発想。これが人生に積極的な意義を見出すことにつながれば、意義あることだと思います。
過去世の記憶などについては、多くの事例から、興味深いことが分ることは、生命の不思議、輪廻転生の有無などを考えるうえでも、面白い材料を提供するものだと思います。ブログに紹介されているいくつかの話も大変興味深いものでした。
ただ、こうした事例の信憑性を検証するのは、とても困難です。子供たちの話した内容が本当に信じるに足るものであるか、確かな記憶であるかは、なかなか判断がつかないと思います。
それは、人間の記憶はどこからくるか、はっきりしないからです。他人から聞いた話を、自分のこととして話してしまうなど、記憶には様々な要因が這入り込んでいます。とくに子供の場合、そうした明確な識別、現実と想像の判別などが不明瞭なケースも多いでしょう。
過去世の記憶として語られるものも、本人の過去の記憶ではないといった議論もあり、難しい問題を多く抱えているのが現状であろうと思います。
ただ、こうした調査から個人的に、過去世の記憶、輪廻転生の存在を信じ、人生を前向きな意義や、人生に積極的な目的を見出せるのならば、それに関しては、意義があるのかもしれません。
逆に過去世の記憶、輪廻転生の存在を信じ、何でも前世の因縁として考えてしまったり、次の世を期待して、いまの人生を安易に考えてしまうなど、間違った扱われ方をされる危険性があることは、考えておく必要があると思います。
ところで、輪廻転生があるとしても、現実には過去世の記憶がない人のほうが多いと思います。
『過去世を知り、今の自分の問題点が何かを明確に理解することで、その人生の意味を悟り、たとえば同じような失敗を繰り返さないように、それを生かしてよりよい人生を生きることにつなげるべきだ』という本の主張は、殆ど不可能なことではないかと思います。
むしろ、過去の記憶がないほうが、いまを生きるうえでとても都合が良いことかもしれません。過去世の記憶などにあまり捉われずに、いまの人生をしっかり生きる。過去世を知ろうが、知るまいが、それはどうでもいい。それよりも、人生を如何に生きるべきか、を考える。多くの宗教はそれを教えているし、それに耳を傾けることが、大事ではないでしょうか。
ですが、何で自分はこんなところに生まれ、こんな人生を送っているのか、隣の人と何で違うのか、物の好き嫌いも違う、人生なんて全く不平等、つまらない、もうどうでもいい、したいことして、いいおもいしてしんでしまえば、それでおしまい。そう考え勝ちなのが人というものではないでしょうか。
みんな前世があり、それに従って、自分のこの度の人生に相応しい親のもとに、それぞれのテーマを持って生まれてきた。別に他の人と競争する人生ではない。自分が自分として精一杯がんばっていい人生を送ろう。来世もきっと真面目に生きたんだから、おかしなところに行くはずがない。安心して死んでいける。そう思って、生きることの方が幸せな生き方になるのではないか、そう私は思います。
私が先に書きましたことを読むと輪廻転生を否定していると思われたかも知れません。しかし、そうではありません。私は輪廻転生を認めたうえで、この問題は扱い方を間違うと、とても危険だと云いたいのです。
もちろん、宗教の信仰があり、輪廻をすんなり認めておられる人には、それは危険ではないでありましょう。しかし、それは決して多くの人に当てはまることではないだろうと思います。
それに、実際のところ輪廻を本当に知ることは、ほとんど不可能でありましょう。輪廻の存在とその原理の概略を理解できるにしても、自分の前世はどうであったとか、誰々の前世はどうであったのかとか、本当には分らない。
それが分らなくても、信仰上に何の差し障りはない。自分の過去を知ったとて救われるわけではない。いまこの人生をいかに生きるか。いかに救いがあるか。真実の安心はどうすれば得られるのか。
それを追求することが大事であって、輪廻などに深入りしても得られるものは少ない。そこを押さえておかないと、この問題は人を惑わせ、無駄な苦労をさせるだけに終わるのではないか。
過去世が見えるほどの人なら、そんな輪廻のことはあれこれ言うはずもない。無用なことは、知らなくていい。そんなことで迷っていてはいけない。もっと大事なことがある。きっと、そう仰られるのではないかと、私は思います。
危険なことなど何もありません。世界の仏教徒は、別に何も難しいことを考えずとも、みんな輪廻があると信じて生きています。
輪廻なんか無いんだという人の側にこそ、何か輪廻というものがあるとつじつまが合わない困ることが何かあるのかなと考えてしまいます。昔の人の知恵としてそんなことかなぐらいに捉えたらいいのです。
過去世がどうのということはお釈迦様にしか本当のことは分からないことです。だから、そんなものはどうでもいいのです。過去世をしるということは、そのことを完璧に知らねばならないのではなくて、過去世もあっただろう、その過去世での問題点もあって今あるのだから、今世での自分の人生でのテーマというものを、悩んだり苦しんだりすることから推量して、何とかがんばろうと考えていけばいいのです。そんなに難しいことではないのです。
しかし、ネットで輪廻など検索すると、いかにそこで多くの不毛な話が展開されていることかを、思い知らされます。そしてきっと多くの人が、不信と懐疑の中に落ち込み、迷い続けているのではないか。それは、杞憂なのかもしれませんが、私はそうした現状が残念に思われるのです。
それに輪廻の問題からは、死しても存在する自己の記憶や意識、いのちを持った主体となるものの存在の有無が問題になるでしょう。それから自然界と違う世界の存在
の有無など、問題は尽きません。そうしたことも考えたうえで輪廻を考えてみると、この問題はとても理解の難しいものだと思います。
輪廻については、ひとまずこの辺りで区切らせていただきます。
次の引用する、人生の目的についての箇所も、私にはよく理解できません。
『究極的な人生の目的とは、魂を磨くこと』
まず、「人生の究極的目的が魂を磨くこと」の内容が抽象的、不明瞭で、何が目的なのか分らない。これでは自分の目指す最終目的地が分らない。
自分の究極の目的地が分らないままで、今生の目的も、来世の目的も定まるはずがない。
仮に今生で自分の人生のテーマを追求するにしても、究極の目的が分らない状態では、テーマは行き当たりばったりに定めざ
るを得ない。それでは、迷いの中で迷いを重ねることになってしまうのではないか。
今生の人生のテーマを決める前に、まず自分の人生の究極の目的を定めることが先決であろう。それ無くして真の安心は得られないと思う。
人生は、ただ過ぎ去っていくものです。そんなに大それたことができるものではないのです。魂を磨くというのも、大層なことではなくて。投稿文にあるように、つまらないことの連続の中で、様々な心を経験し味わい、学んでいくことなのです。
あなたの言う究極の目的を決めるというのはどのようなことを言っておられるのでしょうか。抽象的でなく、明瞭なその目標に向かって生きることが安心に繋がるのでしょうか。おうかがいいたします。
輪廻については、輪廻の存在を知り、そこから脱するにはどうするかが、最も大事な問題でありましょう。
それを仏教は教えているし、各宗派はそれぞれの教えを持っている。その教えに究極の目的が示されているでしょう。
それを知ることが、明瞭な目標に向かって生きる、安心に繋がるのではないでしょうか。
だからこそ、この輪廻の苦界から解脱することを願い、精進する、そのための教えが仏教ということになります。各宗派といえども、仏教である限りにおいて、解脱以外のものが目的になることはありますまい。もし解脱以外のことが目的になるのであれば、それは仏教という名を借りたエセ宗教ということになりましょう。
ところで、究極の目的を知ることが、安心に繋がるということはどういうことでしょうか。目的を知るだけでなぜ安心できるのですか?お伺いいたします。
究極の目的が悟り、解脱だと知っていたとしても、それに基づく教えも知らず実践も伴わなければ、安心よりも恐れに繋がるのではないでしょうか。
このような条件は、各宗派でちがった説き方をしているでしょうが、いずれにせよ上記のような条件が定まることが、安心であろうと思います。