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雲照律師再考 『釈雲照と戒律の近代』(法蔵館)を読む

2024年07月01日 20時38分06秒 | 仏教に関する様々なお話
 六大新報令和六年一月一日 新春増大号掲載
 雲照律師再考 『釈雲照と戒律の近代』(法蔵館)を読む




『釈雲照と戒律の近代』という本が法蔵館・日本仏教史研究叢書の一冊として刊行されている。二〇二二年八月二十五日初版で、恐らくその頃私は購入し書棚に置いたままになっていた。

だが、この度改めて取り出して精読することになったのは、昨年十月十日に九段のインド大使館で行われた中村元東方研究所の東方学術賞の授賞式に出席したことにある。

長年著書を拝読してきた中央大学国際情報学部保坂俊司教授が東方学術賞を受賞されるとのことで参上したのであったが、若手研究者を対象にした学術奨励賞にこの本の著者が選考されていたのである。

公益財団法人・中村元東方研究所は御存じの通り創始者中村元博士が原始仏教の研究で名高いこともあり、インド学や原始仏教に関する研究者が多く在籍されている研究所である。授賞式では、奨励賞受賞の審査報告が選考委員長からなされた。著作の意義が述べられ、内容について細かく紹介された。

つまりそれは真言宗の僧であった雲照律師(以下律師と表記)の活動と思想にかなり踏み込んで触れるものであって、この著作の価値もさることながら、それ以上に現代が律師を改めて必要とする時代であると再認識させられたのであった。

この本の著者亀山光明(みつひろ)氏は、実は真宗寺院の寺族である。大阪大学在学中に、東北大学准教授で日本宗教史、特に近代仏教を専門とするオリオン・クラウタウ博士から近代仏教に関する概説的テーマの講義を受け、当時抱えていた出自に関する煩悶から救われたという。

そして、クラウタウ氏より近代仏教の魅力と戒律研究の可能性を教えられ、真宗の寺族が近代真言僧の戒律を研究する矛盾を感じつつも、自己を捉え直す契機へつながるものとして研究を続けてきたと「あとがき」にある。

御存じの通り、近代仏教史をめぐる研究は「真宗中心史観」ともいわれるように、これまで時代の変化に率先して対応した真宗関係者中心の近代仏教史像がまかり通ってきた。

しかしその描き直しを提言する研究者も現れ始めており、著者もその一人として律師の特に戒律主義に関する再評価により、その時代の偏った研究の空白を埋めることで近代仏教の再編成を模索しているという。

二〇一八年より『近代仏教』『文芸研究』誌などに本書のもとになる論文を発表してこられた。なお現在は米国プリンストン大学宗教学部博士課程に在籍して研究を続けている。


それでは本書の内容を紹介しながら、律師の業績を再考したい。

まず序において、一八五〇年代からというので明治に時代が変わる十年ほどの間に、外国との交渉の必要に迫られ、「レリジョン」の対訳として様々な言葉が考案されたという。現在は「宗教」という言葉が普通に用いられるが、それに準じてそれまで仏道、仏法とされていた仏の教えも「仏教」と明治期以降集約されていく。

その過程で、本来儀礼的実践などの非言語的慣習行為である〈プラクティス〉に重点が置かれていたものが、教義などの言語化した信念体系〈ビリーフ〉中心へと展開していくのだという。

そうした時代背景の中にあって、律師は、プラクティス的な行為である戒律の実践を重視しつつ、独自の語りの戦略をもって時代に対処していかれたという。

その生活姿勢から滲み出る気迫、崇高なるその人格は既に当時各界から評価され、明治三十二年(一八九九)『太陽・別冊増刊』(博文館)に「明治十二傑」として、伊藤博文、渋沢栄一、福沢諭吉らとともに、宗教家としては唯一選出されるなどその名声は頂点に達する。

しかし、その一方で、下流を見捨て権門に取り入る仏教者であり、加持祈祷は迷信の詐術。戒律復興は社会の進歩から取り残された禁欲主義であり旧仏教の象徴と目された。さらには世間知らずの頑固で滑稽な人物と批判されることもあった。

さらには、戦後の仏教史学においては、皇室と仏教の連携を重視した律師の皇国仏教観は天皇制国家への従属的態度であり、戦争協力に繋がるものであったとして非難されたと記している。

第一章「戒律主義と国民道徳論」では、明治初期の肉食妻帯令など一連の僧侶身分解体期の護法活動について述べる。

当初律師は、建白書を政府に提出して僧尼令や官符の復活を画策するが果たせず、その後宗門内での僧風刷新へ邁進する。
後七日御修法再興を上奏した明治十五年に著述した『大日本国教論』において排耶論を説き、歴代皇室が長く崇信してこられた仏教を国民道徳の根拠として国教化すべきであると論じている。

排耶論では、「外教の宗は曰く天地万物は皆天主の所造に係り人智の能く知るべき所に非ずとし只管天主に一任して黙従する」と述べて、仏教こそ文明の宗教であり、因果論を説く仏教はその原因を論じないキリスト教に優るとしている。

第二章「戒律の近代」では、律師の初期の十善戒論について考察する。

江戸後期の慈雲尊者が「人となる道」として宣揚した十善について、律師は当初あまり言及することなく明治十年代に国粋主義的仏教者たちが十善に注目した頃から、十善を前面に出して論じるようになったとある。

『大日本国教論』の巻末に、「十善は一切衆生本性自然の戒修身治国の要」と述べて、明治十六年に「十善会」を発足。同年刊『密宗安心義章』において、仏教は心の本源を探る営みと解した上で、十善を自己の存在の根源と位置づけて、仏教の枠にとどまらない普遍性あるものであると強調したと書いている。

第三章「在家と十善戒」では、明治中期における律師の十善戒思想について考察している。

宗門の改革に見切りをつけ、律師は明治十九年東京に活動の場を移し、翌年戒律学校(後の目白僧園)を開設する一方、明治二十二年には在家者に向けて『十善戒法易行辨』を書き、道徳的生活の基礎とすべく十善戒を在家の勤行の中に定着させようとされた。

そして、品行を重んじる文明社会においては十悪を制する十善戒こそが、易行とされる念仏にも優る易行であるとせられ、また百歩歩く短時間の持戒の功徳を説くなど戒律実践論を展開したと述べている。

第四章「善悪を超えて」では、明治後期に展開された、近代を代表する知識人加藤弘之氏と仏教者との「仏教因果説」論争に触れる。

『哲学雑誌』第百号(明治二十八年)に、加藤氏が科学的世界観から「仏教にいわゆる善悪の因果応報は真理にあらず」と述べたことについて、他の仏教者たちは善悪因果は宗教の次元による真理であるなどと反応した。

しかし律師は、明治二十九年六月の『哲学雑誌』第百十二号に掲載された「仏教因果説」において、「世間学は未だ推理の源を尽さず、仏教の因果説は三世三際に亘りて能く推理の本末を説き尽せる」などと回答されたという。が、残念ながら加藤氏を十全に承服させるには至らなかったと著者は分析している。

第五章「正法と末法」では、正法という概念から律師の戒律論を展開している。

すでに末法の世にあり末法無戒といわれる中で、律師は正法興隆のための基点として戒律学校を設立。また甥興然師をスリランカに留学させ、後に他国の仏教徒たちとともにブッダガヤの聖地買収を計画した。

そうして、同じ末法の時を共有していながら正法を守る南方上座部の仏教国と交流する中で、南方仏教者の姿を理想と捉えていく。

そして、明治三十年刊の『末法開蒙記』にて、末世を生きる僧であっても、正法渇仰の心を生じ深く懴悔し上品の戒体を発得するとき、正法は時空を超えて姿を現すとせられたという。

しかし関連して、その前年に刊行された『軍事に関する観念』では、理想の正法王とは正法を護るためには戦争による流血も厭わない存在であると書き、日清戦争期において律師は他の仏教者同様に戦争肯定の立場であったとも指摘している。

第六章「旧仏教の逆襲」では、明治後期における新仏教徒を名乗る、主に真宗出身の青年仏教徒たちとの論争を取り上げる。

戒律復興に生涯をかける律師の運動は迷信の害毒を社会に流し、思想進歩の障害であるとして「旧仏教」とレッテルを貼られ、新仏教徒たちから排撃される。

それに対し律師は、明治三十五年『十善寶窟』「世の仏教曲解者に諭す」において、「時代の精神に合わせ道徳や教義を改めることは天魔破旬の行為であり、仏教の教体は時流の推移においても不変である」と述べた。そして、仏教の精髄である三毒の払除と三学双修の復活を仏教復興の要であると反論されたなどとその顛末を解説している。

第七章「越境する持戒僧たち」では、そうした国内での論争を経て、日露戦争後日本の保護下に置かれた韓国に、明治三十九年に巡錫する晩年の律師について考察する。

『六大新報』第百六十号「朝鮮に於ける雲照律師」にあるように、釜山近郊の通度寺での朝鮮僧たちとの交流により、朝鮮僧の中には持戒道心堅固な僧も存在すると認識を新たにする。

しかし、『韓国皇帝陛下に奉りし書』では、韓国仏教は大戒二百五十戒や受戒の法規、七衆別戒などを弁えておらず、これを「大乗の弊風」として日本仏教と共通する問題と捉え、国家による僧分の統制と国民信教が国家利益になるとして仏教国教化を上申したという。

第八章「近代日本における戒律と国民教育」では、最晩年における律師の「国民教育論」について述べている。

明治中期以降宗教の上位概念とされた皇道という言葉が教育勅語や学校教育に用いられていた。明治三十二年に「宗教教育禁止令」が出されると、律師は仏教を皇道の中に再配置することを構想して、神儒仏三道の道徳的倫理は本質的に同一であるとせられた。

そして、「中でもとりわけ十善は人々本具の真性であり皇道の心肝である」などと主張したという。国民教育論を展開した晩年の主著『国民教育之方針』(明治三十三年刊)は天覧に供され、貴衆両院全議員に配布された。

終章では、近代仏教研究における戒律復興の意義を振り返る。

真宗知識人たちによる新仏教運動などにおいても、近代に乗り遅れた仏教者という律師批判が行われた。悪行をなしても念仏によって往生間違いなしとする中世の迷信勢力が、善悪因果ひいては戒律実践という仏教の根本原理を破壊しているとする律師を、彼らが目の敵としたのは至極当然ともいえる。

しかし、英国に留学してマックス・ミューラーに学んだ南条文雄師は阿弥陀如来や浄土教が釈迦直説か否かを巡る難問を突き付けられ、「精神主義」を唱えた清沢満之(まんし)師の弟子暁烏敏(あけがらすはや)師も大正期に南アジアを訪れて現地の仏教に触れると自宗の伝統との関係に再考を迫られたと指摘している。

そうした中にあって、律師は本然の仏教である戒定慧の三学に則った僧侶の修学実践の場として目白僧園、那須僧園(那須野雲照寺)、連島(つらじま)僧園(倉敷寶島寺)を開設。在家者には「十善会」を再興し、「夫人正法会」を発足して、機関紙『十善寳窟(A5版約50頁月二回)』『法の母(月一回)』を発行して、十善を柱とする国民教化により社会秩序をもたらすことを念願した。

それは皇道と名を換えつつも戒律主義の精神が活かされる方策まで考慮が重ねられたものでもあった。戒律復興という旗を最後まで下ろさず、多年にわたり驚くほどの精力を傾け常に真剣に取り組まれた。

その目指すところは、あくまでも釈迦の正法の時代への原点回帰であり、それは理論を超えた経験的な新しい仏教の潮流を体現するものであった。

その意味において、律師の運動は近代において挫折したとみる向きもあるが、その試みは一つの日本仏教の近代を見事にあらわしており、無自覚に受け入れてきた仏教や宗教をめぐる理解の再考を迫るものといえると結んでいる。

以上、律師の八十三年の生涯の後半生について、著作の他に雑誌や評論、関係者の資料まで丁寧に調べ上げて律師の思想を体系的に分析した亀山氏の論考を紹介した。

律師が真摯に時代の変化に向き合い様々な相手と真剣に討論を繰り返す中で、苦心惨憺して論を練り上げていく姿を彷彿とさせる内容であった。いかに時代が変わっても本然のあるべき仏教をその時代に実現せんとなされた軌跡を丹念に記録した労作といえよう。

真宗の寺族である著者がここまで律師の思索を追跡して顕彰して下さったことに感謝もうし上げる。皆様も是非ご一読願いたい。律師の労苦の程が知られよう。

著者は最後に「戒律復興に身を捧げた令名高い近代の律僧は、自分を認めてくれないのではないかという不安の念はどうしても拭いきれない」と述懐している。

しかし、今となっては誰もがそうした思いの中にあるのではないか。それでも律師のような誤魔化しの一切ない正真の求道僧が近代という、つい百年ほど前にこの日本に存在したことに救われる思いがする。

国家社会に貢献せんと、世の中が西洋化して欲望が肯定されていく時代に、それでも仏教がいかに世間に不可欠なものかを論じ、仏教の社会的な地位、威厳のために長年にわたり精魂を傾けられた。

それは偏に自誓された生活姿勢を頑なに護り実践する営みにおいて得られた確信があり、それが律師の一生を支えるものとして不動の確固たるものであったということであろう。

律師遷化後、律師ほどに社会に無視できない存在感を示し得た僧があろうか。私どもも、本当はそうした頑固に脇目も振らずに主張できるだけの確信を得られる仏との対面を果たさねばならない。

ところで、ヴィパッサナーという初期仏教の瞑想法を心理療法や精神医学に利用せんとして、米国のマサチューセッツ大学メディカルセンターでは一九八〇年代から研究がなされてきた。近年やっと日本にもマインドフルネスという名でそれらが逆輸入された。

律師が甥興然師を留学させたスリランカから長老比丘が来日して、四十年ほど前から上座部の仏教を日本語で布教している。今日では日本テーラワーダ仏教協会として全国に布教所が開設され、法話会、瞑想会が定期的に開かれている。

二十年ほど前からはミャンマーやタイで比丘となり瞑想修行を積んだ日本人僧たちが帰国して法話し瞑想指導にあたっている。初期仏教に関する著作が書店で平積みされ、その多くが売れ筋ランキング上位に位置する。

当然のことながら、それらの仏教は律師が唱えた三学に基づく実践的体系を重んじている。それを多くの人々が理解し実践しようとしている。時代が律師を再評価し始めていると言えようか。



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