住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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菩薩の十善について

2024年07月14日 20時00分27秒 | 仏教に関する様々なお話
菩薩の十善について  昨日の法話に加筆して


今日は、〇年前にお亡くなりになられたお母さんのために、こうして遠方からもお集まりになられご苦労様です。〇年の間にご家族も増えそれぞれに年齢を重ねました。故人もそうした年数を経てなお思い出して法要を営んでくれたことに感謝されていることと思います。

今長い長いお経を聞いて下さり、また一緒に勤行次第をお唱えしました。はじめに礼拝があり三宝に帰依されたわけですが、礼拝する仏さまは最高の悟りを得られて、人として最高の人格を得られた方であり、その方を礼拝する帰依するというのは、あまり意識されていないとは思いますが、仏さまを自分の理想として人生の目標として生きるということです。そういう意味において法事を営むというのは皆様一人一人にとり誠に意味深いものだということをまずは申し上げておきたいと思います。

ところで、今年六月天皇皇后両陛下はイギリス皇室の招待でイギリスを訪問され、歓迎祝賀、晩餐会など大歓迎を受けられました。特に、共に留学されたオックスフォード大学時代を懐かしがられたとか。そんなこともあってか、留学時代の映像が何度も報道されていました。陛下にとってのイギリス留学の二年間はご自身の宝物とさえ言われて著作も残されています。

陛下は昭和三十五年二月二十三日のお生まれです。実は私も同年の三月初めに生まれており、十日ほどの違いに過ぎません。私にとっても、高野山での一年、インドでの三年ほどの期間は宝物に思えますが、陛下は留学時代は何でも自分の考えですることが出来たのがとてもうれしく思えたと心情を吐露されています。つまりはそれ以外の時間はすべて思い通りにならないことばかりとも言えるわけで、皇室の生活とはさぞ窮屈なことなのであろうと想像されるのです。

それでも私は毎日五時に鐘を撞き御供えをしてお勤めして、境内の草を取ってと毎日同じ事の繰り返しの生活をしていて、やはり陛下のお姿をテレビなどで拝見するとこの違いは何なのだろうなどと馬鹿なことを考える訳です。

明治の傑僧と言われ、伊藤博文、大隈重信、山県有朋など明治の元勲の師とも称され、東京目白に僧園を造り、そこに皇室や政界官界軍人など名士が大勢足を運ばれ、教えを乞われた釋雲照律師という、まさに生き仏のようだったと言われるほどの名僧がおられました。この方の著作の中に、天子となられるお方は、前世で菩薩の十善を完璧に行じられて、一切の悪をなさず、一切の善行を行い、慈悲に基づく一切の利他を行じ、すべての衆生をわが子のようにご覧になり、慈悲をもって憐れんだ功徳により、この世にお生まれになるときにそれに相応しきお方のお腹に入られるのだとあります。だからこそ陛下に相応しきお方となられるのであり、だからこそ天皇という位のお勤めをなされることが出来るのだというわけです。

アショーカ王という、二千三百年ほど前のインドで初めて統一するマウリア王朝の大王ですが、この方は前世で貧しかったのですが、道ばたのゴミのような物でもきれいに洗いそれを神様に御供えをした、その功徳によって大王になられたとインドでは言われています。

話変わりますが、私は神辺に来て二十五年になります。生まれた家には仏壇もなく、お寺との縁も何もありませんでした。ですが、訳あって仏教を学び、高野山の学院を終えてから十年ほど、インドや四国を歩いて、そのお蔭で、やっとのこと四十になって國分寺に入寺しました。

神辺や福山の他のお寺さん方は生まれたときから、それに相応しい徳を持って生まれ、立派な御父様から仕込まれて、みな真面目で筋の良い方ばかりです。皆さん相応しい前世を過ごされて功徳を積まれてお生まれになったということだと思います。私には前世でゴミを洗い仏さまに御供えする功徳が少しでもあったのかどうか。

前世があって今生があり、今があります。インドでは輪廻するんだと、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天に生まれ変わるんだと信じられていますが、とにかく前世で培った業がよかったので私たちは人間界に生まれることができました。ですが、人間界も様々ですから、前世までの業によって生まれるべきところに生まれ、いま縁あって存在しているところにあるべくしてあるということにもなります。

ですからどこでもない今いるところで生きていく、インドの仏教徒は来世はもう少し経済的にも恵まれたところに生まれるようにたくさん功徳を積むのだと言います。私たちも同様に何度も生まれ変わりながら少しずつでも心を清らかにするように仏様のところに近づいていく生き方をしなくてはいけないのです。では、どうすべきか。天皇陛下が前世でなされたといわれるように、菩薩の十善に精進することが最善のことだとは思えるのですが、勤行次第にある十善戒は、止善についての内容です。悪いことをしないという善行です。その上に行善という、善いことを行う善行があるのだといいます。

不殺生の行善は、生き物を殺さないというだけに終わらずに、生き物を育て放つことです。不偸盗は、与えられていないものを盗らなければよいというのでなしに、自分のもてる物を必要とする者たちに与えることです。不邪淫は、相手を敬い清潔な関係を保つことです。

不妄語は、誠実な心を保ち、常に真実を語ること。不悪口は、常に心穏やかに相手に寄り添い、誰に対してもきれいな言葉で語ること。不綺語は、自分が良くありたい良く思われたいという気持ちをなくし賢者聖人の言葉について語ることです。不両舌とは、他者との関係において仲良く和合すること。

不慳貪とは、小欲知足を保ち、他者に施したり施す人の行為に賛同し随喜することです。不瞋恚とは、相手を敬い慈しみの心を保つこと。 不邪見とは、この世の因果道理をもってものごとを考え、心安らかに落ち着いた心を養うことです。

このように行善を止善とともに行じて功徳を養い、菩薩の十善を完成させて、私たちもより善い所に来世生まれ変われるようにしたいものです。



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