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住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

水野勝種侯菩提所参拝之記

2016年10月20日 18時06分38秒 | 様々な出来事について
 延宝元年(一六七三)五月十四日、この地をおそった集中豪雨によって大原池は決壊し、堂々川が氾濫して壊滅的な被害をもたらしました。川下の民家田畑も流されて、六三名もの犠牲者を出したことはよく知られています。このとき國分寺は草堂一宇を残し、すべての堂塔を失いました。そして五年後、延宝六年(一六七八)に芦田福性院の住僧で、容貌魁偉志気宏放と称された快範上人が國分寺に晋山し再建に乗り出します。

 快範上人は、創建時からの境内地の真北に位置する現在地こそ霊壌であるとして、山をうがち谷をふさいで、復興に着手。そして、現本堂は備後福山藩の第四代藩主・水野宗家四代水野勝種侯が大檀那となり、神辺網付山から用材を切り出し、さらに金穀役夫を給付下さり、元禄七年(一六九四)に再建されました。

 この時國分寺本堂再建監督奉行であった代官桜井忠左衛門の書付が國分寺に伝えられています。元禄七年三月七日付で「國分寺本堂同寺作事諸入用目録」とあり、公儀より米四十六石が寄進され、内三十石は本堂寺諸入用として、また十六石は同造営扶持方と明記されています。これは藩から四十六石もの米を頂戴し、三分の二は建築の諸費用に、三分の一は造営に掛かる扶持給付として寄進があったということでしょう。他に郡中の代官十七名が集銭した各々三百五十七匁から一百六十二匁の銀、併せて三貫七百七十六匁五分七厘が寄進されたとあります。

 当時、金一両で一石の米が買えたといいます。一石は二・五俵ですから、三〇㎏米袋五袋ということになります。三〇㎏のお米の小売価格は現在八〇〇〇円から一三,〇〇〇円として、金一両は四万円から六万五千円となります。ですが、文献などを参照しますと、時代に応じて価値に相違があるようで、一般に米価を基準に計算した金一両の価値は江戸初期で十万円、中~後期で三~五万円、幕末頃には三~四千円になるそうです。また賃金換算すると、一両が三十万円から四十万円にもなり、そば代金の換算では一両が十二~十三万円ともいわれます。

 仮に分かりやすく金一両十万円とすると、一両は銀六十匁ですから、銀一匁が一,六六〇円ほどになります。郡中からの寄進三貫七百七十六匁は、およそ六二七万円。一石は一両として、公儀の四十六石が四六〇万円とすれば、併せて一,〇八七万円という計算になります。用材を除いての本堂造営費としての金額と考えられますが、当時の実質としてはこの数倍もの価値があったものと想像されます。そして、これと別に公儀から仰せつけられし人夫が千五百二十二人とあります。

 これに先立ち元禄五年には本堂内諸仏の造像が完了し、大小の仏像等について施主の名前ともども像容が記された「本尊並諸尊像造立目録」が残されています。

 そうして郡中数多の人々の寄進により、また多くの人たちの労働によって再建されたことに改めて思いをいたすとき、突如として、それら郡中の人々に呼びかけ再建を実現して下さった勝種侯に感謝の念が沸々とわき上がり、十月四日、そして、十月七日二度に亘り墓所に参詣しました。これまでにも賢忠寺境内飛び地の水野家墓所前を車で何度も通りかかりながら参拝する機会もなく過ごしておりました。当日は賢忠寺山門前の駐車場に車を止め、新幹線高架下を通り車道を渡って水野家墓所の門を入りました。

 正面に初代勝成侯の五輪塔があります。その右手に同じく南向きに、玉垣に囲まれた五メートルはあろうかと思われる大きな五輪塔があり、それこそが勝種候の菩提所でした。五輪には梵字ではなく、下から地・水・火・風・空と梵字の意味するところを漢字一字で刻まれていました。玉垣の門、五輪塔の下部、香炉、花立てにも水野家の家紋や蓮などが刻まれ意匠を凝らした作りとなっており、後世にまで大切に祀られてきていることが分かりました。

 水野家二代勝俊侯の墓所のみ日蓮宗妙政寺にあり、三代勝貞侯の五輪塔は、勝成侯の墓所の左に西に向けて祀られていました。玉垣は取り払われ五輪塔のみがやはり地水火風空と刻まれて立っています。因みに、勝成侯の五輪には、上から祖・師・西・来・意とあります。これは、無門関第三十七則にある禅の代表的公案(達磨大師が西にあたる中国にまでお越しになったその真意はと問う意味となります)です。この他勝成侯の父君、ご子息方の他勝種侯の長男数馬殿の五輪塔も祀られており、それらすべてにお線香を供え、勝種侯の墓前でしばし理趣経を読誦させていただきました。

 時折通る新幹線の騒音にかき消されつつ、感謝の心を込めてお唱えしお参りをさせていただきました。新幹線高架下で北側はマンションに囲まれた土地ではありますが、木々に守られ敷地に入ると誠に心穏やかに落ち着つく空間となっています。いつまでも留まっていたいような気持ちになりましたが、「また参ります」と申して墓所を後にいたしました。

 調べてみましたら、勝種侯は、國分寺ばかりでなく、阿伏兎観音で知られる磐台寺の観音堂と境内の造営をはじめとして、同じ鞆の医王寺本堂建立、白石島開龍寺奥の院石燈籠寄進、福山八幡宮移転修復、艮神社諸社殿造営修復、笠岡菅原神社創建など神社仏閣の普請事業を数多く手がけられたお殿様でありました。

 勝種侯は、父勝貞侯がお隠れになり寛文三年(一六六三)わずか三歳で福山藩主をお継ぎになられました。元禄十年三十七歳で逝去されるまで三十三年間もの長きにわたり藩主の地位にありましたが、若くしてこの世を去られたのは誠に残念なことでした。

 亡くなられる三年前に國分寺を再建して下さった大檀那勝種侯、そのご生涯について『広島県史』を参考に述べてみたいと思います。

 『広島県史近世資料編Ⅰ』水野記[勝慶之譜」には、寛文元年(一六六一)五月九日に福山でご誕生になり、はじめ勝慶といわれ後に勝種と改めたとあります。幼くしてよく馬を馳せ、人となり慈孝の行を顕す、庶民を愛して刑罰をゆるやかにし、孤児をまもり世嗣(よつぎ)とし、藩の倉を開いて貧窮なる者たちに施し、故に減給なく国中に餓死無し、人々は勝種侯の徳をたたえ楽しく歌ったとあります。

 同水野記のその後の記述より少々詳しく勝種侯の足跡を見ていきますと、寛文二年十月二九日父勝貞侯が江戸で他界、ときに三八歳。この年は勝貞侯の継母が一月に、三月には弟小八郎、五月に正室が亡くなり自身も亡くなるという、水野家にとって陰々滅々たる年でありました。

 そして、十二月に将軍家の命により、幼き勝侯候は備陽を発して関東に赴き、同三年一月五日江戸に到着。二月三日には本領安堵の上意が下り、四月には、藩主幼少であるとのことから将軍家の使い旗本二名が福山藩に監司として派遣されています。

 寛文七年四月乗馬を始め、高祖父勝成侯が大阪の戦乱にて用いた鞍に乗ったと記録されています。

 寛文八年、九月将軍家に拝謁、尾張中納言光義、紀伊宰相光貞、水戸宰相光圀に謁すともあります。このとき勝成侯の姪の婿であった紀伊大納言頼宣はすこぶる懇切に手ずから金龍を八歳の勝種侯に与えたということです。

 翌年四月には将軍家大老老中らを勝種侯が藩邸に招請し、自ら玄関外で出迎え、上段の間から順に案内して茶を献じ猿楽などでもてなし、書院の茶具墨跡古器を披露して饗応しています。

 寛文十一年、初めて甲冑を身につけ、延宝二年(一六七四)十二月二十二日には酒井雅楽頭の娘と縁組み調い、従五位下美作守に任ぜられています。延宝五年(一六七七)七月元服し、十一月二十五日酒井雅楽守の娘を妻に迎え、同七年六月十一日帰国の暇を賜り二十八日江戸を出立しました。しかし七月一日に実母勝貞侯妾永久院が亡くなり、服喪のために城に入れず、四十九日忌も済んだ八月二十五日に初めて福山城にお入りになられたということです。ときに十七歳。

 天和二年(一六八二)、石州大森銀山の手当(罪人などの捕縛)を松平周防守とともに命ぜられ、鉄砲、弓など足軽百名他警護の部隊を派遣しています。また、元禄元年(一六八八)には伯父小八郎氏の二十七回忌にあたり茶湯料として麻布真性寺に賜り、翌年には姉了寿院殿の十七回忌にあたり江戸霊厳寺にて執行され、元禄七年には父勝貞侯室寿康院殿の三十三回忌を江戸常林寺にて法事修行なされたとあります。

 さらに同水野記[水野美作守勝慶行状]より抄録いたしますと、勝種侯が在国の時には不思議に罪人なく、法を犯し斬首の罪人あるときは勝種侯が福山から離れた留守のときであったとあります。

 家督の相続に配慮され、実子養子なき者には養子になすべき者の名を書いて懐中させて、もしもの時には目付役が見聞してその者に相続させ、また一歳の小児でも後見者を付け家督をたてられることにしました。

 貧しい者には利子なく金銀を貸しつけ、借金が重なり逼迫した者には米を賜り、凶年には庫を開き民を救ったので、百姓らみな勝種候を、万年の君と仰ぎ称賛しました。これにより国は太平となり、民は富み、藩の倉は実り多く栄えたと記しています。

 また、鞆の目付役が大酒を飲み行い乱れたかどで訴えがあったとき、その人物の器量あるを見定めて訴えを引き延ばし猶予し、家老らの前で本人から事情を聞いて、大酒を禁じ身心を慎むこととし、後には大目付役として福山城下に住まわせました。

 元禄三年、勝種侯が将軍家の勘気(怒り)をこうむり閉門諸事遠慮することがあったときには、町人百姓らまで甚だ歎き愁いて祈り、諸寺諸社へ参拝し、断食して祈る者までいたといわれ、これ皆勝種侯の人を思いやる心に厚く、あわれみ深きことのなせるところなりと云われたということです。

 元禄七年(一六九四)八月十五日、城下の八幡宮に参詣の折、諸々の商売人がしばらく売買を止め、参詣人たちも走り隠れるのを見て、勝種侯は不審に思い侍者に問えば殿の参拝に憚りありとして遠慮したものと応じたので、勝種侯は諸人の妨げになったことを憂えて、商人らに銭を授け賜ったといい、まこと民のために利となり害となることを避けようとなさること、正に民の父母と云うべきなりと記しています。

 また、毎年麦が熟さぬうちは百姓の食が乏しいので、麦を貸し与えて民を救い、困窮した群村には銀子を貸し、年貢を納めるのも秋から翌年三月までとゆるく上納させました。このように民をいたわり給わるので、その恩沢を感じ、米初穂を別に、上納する米俵に紙で包み入れて納める者まであったということです。

 元禄九年、美作津山城主滅亡の時、勝種侯が城の請け取りに参上せよとの上意が下り、福山藩家臣らはみな勇んでお供しようとしたところ、勝種侯は武具の他装束の類、美を飾ることのなきように、亡国に赴くのに悦んでまいるものではないと諫(いさ)めたと云います。

 そして元禄十年(一六九七)八月十二日、勝種侯はにわかに血を吐かれ、そのまま治療することもできずに二十三日ご遷化になり、城下の賢忠寺に埋葬されました。御年三十七歳、戒名は萬輝院殿前作州太守忠嶽全功大居士。翌年五月五日嫡子勝岑(かつみね)殿二歳にて逝去され、これによりお家滅亡となり、民ら各村々の寺院に勝種侯の位牌を造立して久恩に報いようとしたと伝えられています。亡国の主となりても、勝種侯の年忌は怠ることなく、国中の庶民らが法事を執り行い、宝永四年諸国大地震で勝種侯菩提所の石塔が倒れたときには、恩を思い庶民集まり来たり建て直したと云います。勝種侯三五回忌には百姓町人男女数百人が金銀米穀を持ち寄り賢忠寺にて法事を修行し、その際に詠まれた歌が残されています。

「水の恩わするな軒の花あやめ」

このように詠まれるのも勝種候の積善の余慶なり、と[行状]は結んでいます。

 誠に慈愛深き名君、民百姓にまで慕われ愛された勝種侯。こうして県史を開き、勝種侯のご人徳を知り、知ることによって報恩の心が生じ、改めて感謝のまことを捧げたいと存じます。皆様もぜひ水野家墓所にご参詣いただけますようお願い申し上げます。


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ヒンディー語会話教室を開設します

2014年07月19日 19時39分27秒 | 様々な出来事について
第一回平成26年8月24日午後3時半より

FUKUYAMA(会場・備後國分寺)
ヒンディー語会話教室

テーマ 「言いたいことが言えるヒンディー語、
    インド一人旅で困らないヒンディー語を身につける」

(デーヴァナーガリー文字の習得から日常会話まで)
ヒンディー語はインドの公用語です。使われる文字は仏教でも用いられるデーヴァナーガリーという文字です。語順は日本語と同じですから、私たちには、とても話しやすい言葉です。現在、残念ながら福山にはヒンディー語を学ぶ場がありません。言葉からインドの文化を学びたいと思われる方のために、会話を通してインドに親しみ、一人でインドに旅しても簡単なことが言えることを目標にヒンディー語会話教室を開催したいと思います。文法から本格的に学ぶ教室ではありませんが、是非この機会にディリープ先生とやさしいヒンディー語会話を楽しみながら学んで参りましょう。どうぞお気軽にお問い合わせ下さい。

講師 ディリープ・ノティアル先生  現在福山市在住、35歳
   インド・ウッタルプラディーシュ州出身、日本語能力試験二級合格

場所 備後國分寺客殿 
   720-2117福山市神辺町下御領1454

日時 毎月第四日曜日
   午後3時半より一時間程度

対象 老若男女問わず日本語のできる方

参加費 一回500円(教材費並びにお茶代)

定員 20名(申し込み制)

問い合わせ、申し込み。☎084-966-2384 横山


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拙著『ブッディストという生き方-仏教力に学ぶ』初稿から

2013年04月21日 12時52分09秒 | 様々な出来事について
タイトルも正式に決まらない頃、一昨年の10月に提出した最初の原稿では、『はじめに』において下記のような文章を書いた。想定したタイトルは『仏教とは何か-世界基準の仏教法話集』というものだった。日本でだけ通用するような教えではいけない。世界の仏教徒が理解し通用するものでなくてはならない。その考えに今も変わりはない。もちろん『ブッディストという生き方―仏教力に学ぶ』においても、正にそのような教えを書き込んであるつもりである。



 『この世は無常であり苦である、という真理を改めて実感させられた東日本大震災。これから犠牲になられた多くの故人を偲び、超宗派で合同で法要をする場面が多くなるであろう。そのときお経は何を唱えるのであろうか。各宗派バラバラにそれぞれの常用経典を唱えるか、もしくは般若心経を唱えるかであろう。それを非難しているのではない。その場に居合わせるであろう心ある僧侶方の戸惑いを慮っているのである。

 なぜ日本仏教徒が唱える統一したお経がないのか。なぜ僧侶は宗派ごとにみんなバラバラなのか。なぜ妻帯し家族をもって寺に暮らしているのか。様々な疑問が世界の仏教徒たちから寄せられている。このままでよいのだろうか。明治時代の末期には、こうした大問題が議論されながら、その後長らく放置されたままである。どの業界も地球規模の変革の波にさらわれ世界基準の経営手法を採用した。しかるに、仏教界だけが旧態依然でよいのだろうか。

 日本でだけ通用する仏教ではいけないだろう。私にはそんな思いがある。国際化が叫ばれて久しいけれども、日本仏教の国際化とは、単に外国語で布教をしたり、海外の仏教徒と交流することではない。日本仏教が単にこの村社会の日本だけで通用する考え方ではなく、広く世界の仏教徒と共通の物の見方考え方で、いろいろな教えを説き、行じていくことではないだろうか。

「世界基準の仏教法話集」とはいかにも奇をてらったものに思われるかもしれない。しかし、世界基準の仏教とは「あたりまえの仏教」という意味である。それなのに日本では特別に思えるから不思議なのである。しかしともかくも私は、お寺ででも、どこに行っても世界の仏教徒にとってあたりまえと思える仏教の話をさせていただいている。

 備後國分寺は昔は華厳宗総本山の奈良東大寺との関係が深く、その後真言律宗の奈良西大寺の末寺となり、今日では真言宗大覚寺派の末寺である。また、私自身が高野山で僧侶になり、また修行もさせていただいた後、インドの伝統教団でも短い期間ではあるが僧院生活を経験させていただいた。

 江戸時代の真言宗の高僧慈雲尊者は、宗派を越えてお釈迦様の根本の教えに復帰することを唱導された。明治時代の浄土宗の律僧福田行誡師は、広く他宗の教えを兼学することを勧め、「宗旨をもって仏法を説くなかれ、仏法を以て宗旨を説け」と教えられた。また同じく明治の真言宗の傑僧釋雲照律師は、「仏教の宗骨たる大(乗)小(乗)に一貫」せるお釈迦様の善悪因果応報の真理をこそ大本の教え」として広く宣布なされた。

 私は寺院の生まれでもなく、また仏教を専門学府で学んだ者でもない。しかしだからこそ、宗旨宗派にとらわれることのない、世界に共通する仏教の基本を踏まえた教えが説けるのだと自負している。どの場面でもお釈迦様の教えを説いてきた。団体参拝者に向けての法話でも、檀信徒の通夜、法事でも、寺内のお話し会でも、正に仏教の宗骨たる教え、世界基準の仏教と思える教えを説くことを一貫して実践してきた。

 仏教とは学ぶべき教えであります。単に経を唱え、言葉を唱えれば済むものではない。それらが自分の人生にとっていかなる意味があり、いかに大切なものか、生きるとは何で、どうあらねばならないかを探求せずして教えを実践しているとは言えないだろう。

 成仏とはそれほど簡単なことではない。死ねば誰もが果たせるものでは勿論ない。今生で成仏が果たせないのなら、せめても学んで学んで沢山のことを学び、そして、少しでもそれを行じ、実践して、一歩でもお釈迦様の悟りに近づくことが私たち仏教徒のせめてもの責務であろうと思っている。

 ここに記した文面から、ここはなぜ世界基準かと思われる部分があるかもしれない。是非ご指摘をいただきたい。真摯に学ばせていただきたいと思う。』



目次と解説 大法輪閣ホームページより



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中国新聞10月1日付『洗心』

2012年10月01日 07時34分17秒 | 様々な出来事について
本日の中国新聞に掲載されました。取材して下さった、総合編集本部文化部伊東雅之記者に感謝申し上げます。




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「ブッディストという生き方―仏教力に学ぶ」発刊のお知らせ

2012年05月30日 18時16分25秒 | 様々な出来事について
この度、大法輪閣より、『ブッディストという生き方―仏教力に学ぶ』を上梓することになりましたのでお知らせします。

『大法輪』という、昭和九年創刊の我が国では最も権威ある仏教雑誌ですが、こちらにはこれまでに幾度となく原稿を書いて参りましたが、かねて編集長より単行本の原稿をまとめるようにとのお勧めをいただいておりました。長年の懸案ではあったのですが、やっとこの度下記のような内容で、原稿を収録し、できれば、気楽に読んでいただける分かりやすい内容にしたいと思い、一度書いたものをすべて口語体に書き改めて編集いたしました。

第一章は、お寺や福祉施設などで実際に行った法話を収録し、第二章第三章では、様々な仏教語や仏事について、また最近の話題についても、現代的な解釈や受け取り方を述べた短編が綴られています。本文で納めきれなかった詳しい説明は註を施し、さらに詳しく知りたい方のために参考になる本を紹介してあります。

本書をたよりに仏教の基本を学んでいただき、さらに関心のある分野に進んでいただけるように沢山の本を紹介してあります。

帯には、「仏教徒という生き方が現代人を救う!」という大それたことが書いてありますが、気楽に読んでいただきながら、特別なことではなく、日頃私たちがしていることを違った受け取り方をするだけで幸せに向かって明るく生きていけるということが全体のテーマとなっております。

是非、一度書店で手にとってご覧頂きたいと存じます。またご関心のありそうな方にもお勧め下さいますればありがたく存じます。定価は1,680円(四六判並製224頁)、6月8日全国書店にて発売の予定です。何卒宜しくお願い申し上げます。


目次と「はじめに」を下記に記します。



『ブッディストという生き方―仏教力に学ぶ』

目次

はじめに

一、仏教で生きる

仏教とは何か-他寺院での涅槃会法話
仏教は心の教え-退職教職員組合の皆様への法話
仏教という教えの本質について-地元寺院結衆布教師法話
なぜお釈迦様はやさしい心でいられるのか-福祉施設での法話
お釈迦様は私たちにチェンジを求める-団体参拝者に向けての法話
「死ねば皆、仏様 誤解」を読みながら-老人会いきいきサロンでの法話

二、仏教の基本について考える

縁起ということ
空ということ
お釈迦様は亡くなろうとする人に何を語ったか
施論戒論生天論
仏法僧とは何か 仏の十徳 法の六徳 僧の九徳
五戒の教えについて
無常偈について
煩悩即菩提ということ
山川草木悉皆成仏とは
即身成仏について
救われるということ
最期は慈悲の心で ガンを患ったNさんへの手紙
供養の先のこと
布施ということ    
仏事は何をしているのか
いのちの尊さとは何か 葬式簡略化に思う
報恩ということ
天人五衰
仏像とは何か
塔婆とは何か 塔婆にまつわる四方山話
数珠の話
般若心経の現代語訳と解説
   
三、仏教余話
 
千の風になって の誤解
家庭内暴力の話
宗教の眼目 ある新興宗教の話題から
霊の話
倍音読経 天界の音楽を聴こう
断食に学ぶ
にじうおの話

 あとがき


『はじめに』

『生きるとは何なのでしょうか。私たちは何のために生きているのでしょうか。仏教を学びつつ、そう自問することで悩みもつらい思いも解消されることを私は知りました。

 三十年ほど前に、私は仏教と出会いました。生まれた家には仏壇もなく、もちろんお寺に知り合いがあるわけでもなく。小さな頃よく連れて行かれた浅草寺で、何度もお香の煙を身体にかけられたことはよく記憶していますが、仏教になど特別縁のない、ごく普通の家で育ちました。

 ですが中学三年の時、クラブ活動でも一緒だった友達がガンで亡くなりました。その日の朝私は雨音に目を覚まし、起き上がるとカーテンがひらめくのを目にしました。しかしその日は雨も降っておらず窓も閉まっていました。そして学校に行くと、その日の未明に友達が亡くなっていたことを知らされたのでした。

 お葬式では弔辞を読み、四十九日の法要に参列し、納骨にも立ち会いました。そして気がつくと、月命日には学校帰りに一人で友達の家に寄り仏壇に手を合わしていたのです。それが年に一度になり、行かなくなって、忘れかけていた頃、忘れもしない大学二年の秋のことですが、高校時代の友人数人とつれだって様々な話に興じていたとき、自分がものの見方考え方を持ち合わせていないこと、何の心のより所もないことに気づかされました。

 そして、その後ふと立ち寄った本屋で手にしたのが、『仏教の思想1知恵と慈悲〈ブッダ〉』(増谷文雄・梅原猛著・角川書店刊)でした。その本にはお釈迦様の生き様、教え、仏教の基本的なものの考え方が丁寧に説かれていました。私の心に火が灯り、次から次にと仏教書を読み、仏教の独学が始まったのです。

 そしてその後、縁あって高野山で出家得度し、四度加行という初歩の修行を済ませ、インドへ旅したり、四国遍路を歩いたり。また、三年余りの短い期間ではありましたがインド・コルカタの仏教教団で南方上座部の仏教僧として過ごし、もともとの仏教とはどのようなものであったかを学びました。そして、前世からのご縁でもあったのでしょうか、備後の国に来て國分寺の住職として勤めさせていただきましても、やはり、仏教について学び思索し続けています。

 阪神大震災の折には、そのときインド僧で黄衣を纏っていたのですが、ボランティアとして避難所に住み込み沢山の被災者の皆様からお話を聞かせてもらいました。夜、焚き火に手をかざし語るお年寄りたちの話は、この世は無常なのだ、苦なのだと、まさにお釈迦様の教えが訥々と言葉にされていったことを記憶しています。そして、何でこんな事になったのかと誰もが思索されていました。おそらく、そうならねばその時そんなことを思い語ることもなかったことでしょう。

 いま多くの方々が未だ仮設住宅に住まわれ、また故郷から離れて避難しておられる東北の人たち。大変な苦難の中にあります。亡くなられた方も行方不明者を併せると二万人に迫ろうとしています。三月十一日は、私たち日本人にとって未来永劫に忘れがたい日となりました。しかし、たとえそうして何があっても、この世の現実を鋭く見つめ、それを仏教の目からどのように見て、どう受けとめていくべきかと考えねばならないのでしょう。そこから、人として大切な何かを学びつつ生きるしかないのかもしれません。一日も早い被災地の復興を願いたいと思います。

 仏教とは、供養や慰霊、癒しのためと思われがちですが、その教えそのものが意味あるものとして私たちの心に訴えかけるものでなければならない、そうあってこそ、その力もあるのだと思います。仏教の様々な教え、また日本人が大切にしてきた仏事、行いの一つ一つが私たちにとってどんな意味があるのか、どう受け取ったらよいのかと考えています。

 本書が、仏教の基本について学び、今をいかに生きるべきかを考えるための一助となればありがたいと思います。 


                    

                               
                              平成二十四年三月  著者識』



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ものわかりのいい人ではいけない

2012年02月05日 11時54分31秒 | 様々な出来事について
今、私たちのまわりには30才40才になっても結婚しない人、結婚しても子供を産まない人が結構いるだろう。そして親たちも、「困ったわ」と言いながら、本人の問題だからと余り口やかましくも言わないという親が多いのではないか。夫婦共に仕事をしていたら子供も作らない方が良いからと、また子供がいたら自分の時間もなくなると作らずにいるという夫婦も多い。

また、立派な息子娘がいるのに、老後は子供たちの世話にならない、迷惑を掛けたくないという人たちも多い。そういう世の中の風潮、 時代の流れなのだと言われるとそんなものかと済ましてしまいがちであろう。みんなそうよと言って済ましてしまう人も多い。世の中、誠にものわかりのいい人で溢れている。そんな風に思えるのだ。

果たして本当に結婚しない、子供を作らないということでいいのだろうか。と、本当は誰もが真剣に考えなくてはいけないのではないか。別に国の少子化対策に賛同して、ものを言っているわけではない。私たちは、人としてそれでいいのだろうか、と考えなくてはいけないと思うのである。

実は先日もある人と話をしていて、娘も息子もいるけれども二人とも結婚していないという。娘さんは「お母さん、私は自分のしたいことがあるのにどうして結婚したり、子供を産まなくてはいけないのかしら、そんなことしていたら自分の夢を実現できないじゃない」と言うので、それはあなたの人生だから好きにしなさいと言ったのだという。

また、息子は、「結婚なんて何でしなくてはいけないんだ、そんな面倒なことしないで自分一人自由気ままに生きていきたい」と言うのでそれもいいだろうと言ったとか。それでいて、ご自分のことは、「将来何があっても老後も娘息子の世話にはならないと決めている」という。それがあたかも立派な自立した人としてあたりまえだと言わんばかりの自信をもって言われているようにも感じた。

そこで私は、「本当にそれでいいと思っておられるのですか、みんな今しか見えてないんです、自分が歳を取ったとき、どんなことになるのか、まわりに今は友達が沢山いたとしても、みんながみんな結婚しない、子供がいないというわけではない、そんなとき自分だけ何もないと分かったとき、一人でいて歳を取ったときどれだけ寂しい思いがするのか想像できないだけではないですか。みんな結婚して大変な思いをして、子供産んで、何もかも自分のことを諦めて子供のために尽くす、そんなことを経てみんな大人になり、愛情というものが分かり、みんな生きていくっていうことが大変なことなんだと分かる。そうして人は成長していくものなんではないですか」思わず、こんなことを話していた。

どうして子供なんか産まなくてはいけないのかという娘や息子がいたら、なら、あなたを私は生まない方が良かったの、と聞くべきではないか。人は生まれてくるときから親にお世話をかけ、みんなまわりのお蔭で大きくなってきたはずなのに、自分が一人大きくなったように勘違いしている人が多すぎるのではないか。

自分がそうして大きくなるにはどれだけの人たちの手を煩わし、迷惑を掛け、いろいろ教えられ今があるということに気づかねばならない。生んだらそれっきりという他の動物と違う、人として大切に育てられ教育されて、今があるということを知るべきではないか。恵み、恩というものに気づかねばいけないのであろう。そして、そういうことにきちんと気づけて、はじめて人は人として心を成長させていけるものなのではないかと思うのである。

老後のお世話も、子供たちに大いに迷惑かけたらいいのではないか。そもそも、何で迷惑とかと言うのであろうか。余りよく機能していないのかもしれないが介護保険制度によるケアーもある、そうして出来る限り小さな時にお世話をしてくれた老親に恩返しをする絶好の機会として子供たちもなすべきであろうかと思う。みんな順繰りなのだから。みんな老人になるのだから、いずれ自分も世話を掛ける、だから自分の親の面倒を見るのは当然だと思うべきなのであろう。

ところで、今、私たちのまわりにはこうしたあたりまえのことを言う人が心細いほどいないと思うのである。みんなあたりさわりなく、事なかれ主義で、真綿に包んだようなことしか言わなくなったと感じる。なんでなのだろうか。世の中のこと、政治のこと、経済のこと、みんな新聞テレビを見て、それに流されてしまって、書いてあるとそのまま鵜呑みにしてしまう。時代はこうだとテレビで言うとそれが当然のことだと思ってしまう。新聞に書いてあるとみんなそんなものかと思ってしまう。はたしてそれでいいのだろうか。

おいおい、そんなことでいいのかという人が居ない。何を書いてるんだ、おかしなこと言っちゃいけないぜという思いをきちんと言うべきなのだ。私たちにとっての本当のこと、そんな事じゃダメだと言ってくれる大人がいなければいけない。苦口をたたく面倒なオヤジがいない世の中は平和でいいといって済ませられることではない。

そんな頑固で、きちんと世の中の風潮に対して一言言える人間が必要だと私は思う。みんな苦しんで大変な思いして、泣いて泣いて大きくなるんだ。我慢して我慢して耐えてやり遂げるから、やったー、よかったという感激があるんだと。苦しむから幸せが何かとわかる。大変な思いをするから人間が出来るんだと。こうしたあたりまえのことをきちんと言う国でありたいと思う。

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考えない習慣

2011年07月07日 08時31分23秒 | 様々な出来事について
先日、ある方の見舞いに病院を訪れた。頸椎を損傷されて身体が動かず、何かに縛り付けられているように思って、早く外してくれとばかり言われていた。何度説明しても、認知症も発症されているのでなかなか了解してくれない。不意にテレビを付けてみたら、そちらに目がいって、見てもらえたので、やっとその問答から解放された。

日長一日何をされていて、何をお考えになっておられるのかと思えた。若い時には学生たちを教えられ、退職されてからも民生委員やいろいろな地域のお世話をされてきていたのに、残念なことに思えた。何か静かに身体を動かさないで出来ること、たとえば坐禅を寝ながらでも出来るのにとも思った。

永平寺の前貫首様で、宮崎奕保禅師という百六歳まで生きられて貫首として坐禅に生涯を捧げられた現代の生き仏のような方が居られた。この方は若いときに結核を患われて、病院の病床にあるとき、道元禅師の言われる如くに、とにかく坐禅だとお考えになって、ベッドの上でひたすら坐禅をされた。看護婦さんが来られて叱られても叱られても坐禅をされた。

何ヶ月かして結核が消えていて、それからも坐禅に邁進されて弟子を教化し、それが故に曹洞宗の最高位へと登られていった。そこが曹洞宗は偉いとも思う。修行をして、本義である坐禅に命を捧げる方を上に押し上げていく宗団のあり方が、現代にあって、なかなか出来そうで出来ることではない。

話はそれたが、では、なぜ坐禅かということになる。坐禅とは考えないことだ。妄想しないこと。普段私たちがしがちなあれこれと周りの刺激に反応して考える習慣を止めるということだ。我思う故に我ありと言うけれども、その思い考えること自体が煩悩に纏われていれば、つまらないことの集積にしかならない。

動かない身体をジタバタも出来ず、心の中でジタバタを繰り返す。何でだと、早く帰りたい、何とかしてくれ、そんな思いばかりが空回りすることであろう。そこでもしも、坐禅をする習慣があれば、仕方ないから静かに坐禅に入ろうという気にでもなれば、とても楽な時間が過ごせるのにと思ったのであった。勿論そんな境地になるには様々な葛藤がその前にあることは想像できるのではあるが。

坐禅は心身を共に癒してくれる。窮屈な時間に思われるかもしれないが、何もせず、心の中に渦巻く思いが鎮まれば、平安な時間が推移する。たとえ病気が治らなくても、安らかな時間が過ごせる。前回の「心という行為」でも書いたとおり、考えて考えて私たちは疲労する。考える習慣を止めるだけで私たちは楽になれる。

以前、奥さんを亡くされて、ふさぎ込み、寂しいと言われていた方が、ひとたびお経を唱え始めるとその思いが消え、その間だけは救われるような気がすると言われていた。お経を唱えている時間は余計なことを考えなくて済む。お経に一心に心が向いているということであろう。お経も、念仏も、題目も、真言も、何でも心をひたむきに一つに向かわせ、考えないという時間を持たせてくれる装置なのかもしれない。その底流にはやはり坐禅があり、仏教本来のありかたが生かされているのだということであろう。

ここ國分寺では、六年前から座禅会を月一回ではあるが開いている。最近になってやっと少しずつ参加者が増え始めた。歩く瞑想を十分。それから坐る瞑想・坐禅三十分を二回。それだけである。警策を持って背中を叩くこともなく、静かに滝の音を聞きながら坐るだけである。月一回ではあるが貴重な時間である。何かあったときのためにも、考えない時間・坐禅の習慣をもつことをお勧めしたい。


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Metis『人間失格』を聞いて仏教を思う

2011年04月27日 19時58分18秒 | 様々な出来事について

この曲に出会ったのは、Youtubeで、『日本で放送できない報道できない震災の裏側』という動画のバック音楽に使われていたからだ。この動画自体が「NewyorkTimes」の写真サイトから取られた画像を何百枚も用いてそのまま使い、なかなか日本では隠されて見ることのないあからさまな映像となっていることに対する拒否反応や著作権などに問題があるとのコメントが多数寄せられている問題のある投稿であるが、それらのことはここでは置いておきたい。

その映像を見ながらこのバックの曲に、つまり『人間失格』という曲に、最初はとても違和感を感じた。震災の悲惨な映像そのままをそのままに見せた方がよいのではないかと思ったのだ。しかし、その曲を聴けば聞くほどに、その歌詞の力、声の力、魂の問いかけに心動かされるものを感じた。ここにじっとして震災の被災者の方々のことを思うだけでいいのだろうか。何かすべきことがあるのではないか。心騒ぐものを甘受するにはあまりにも心に突き刺さる歌詞を無視できなくなっていた。

この曲は3月2日にリリースされた。その一週間あまり後に地震があったことになる。だから、この曲自体は震災について書かれたものでは勿論ない。しかし今こうして地震の映像と共に聞くとき、正にこの震災を予感し、この事態に及んで、私たち日本人の心にそのままでいいのですか、何かすべきことがあるのではないですか、変わらなくてはいけないのではないですかと問われているようにも感じられるのだ。

「涙を忘れていませんか、大事なことから逃げてないですか、自分に嘘ついてませんか、諦めることに慣れすぎてませんか、夢を忘れてていませんか、道を外れていませんか、大切な人涙してませんか、家族を大事にしてますか・・・」という問いかけが延々と続く。

http://www.youtube.com/watch?v=xPfm80lZdFA

この曲を書き歌うMetisは、1984年広島市に生まれた27歳のソウル系の女性シンガーソングライターだ。3歳の時両親は離婚し、お母さんの手一つで育った。親戚の家々を渡り歩きながら育った時期もあり、いつもいい子でいなくてはいけないと思って、自分の心を偽りうわべだけいい子を装ったことも。そんな自分にお母さんはいつも絶大な愛と勇気を与えてくれたという。

そんな生い立ちのせいだろうか、その曲作りには聞く者たちに良くあって欲しい、元気になって欲しい、明るく幸せであって欲しいという思いが感じられるものばかりだ。子供たちに命の大切さを知って欲しいからと小学校に出前授業をしたり、病院に出向き輸血なしに生きられない若者たちを励まして歩く。そしていま震災の被災地に行き炊き出しを手伝う。

そんな彼女ではあるが、時に深く悩み苦しむこともあった。そんなとき、いいことばかりの明るい曲を歌っても虚しさしか感じられない。そして出会ったのが太宰治の「人間失格」だった、それを読んで、彼女は人間が迷いもがき葛藤する姿に美しさを感じたという。さらにある人から言われた「涙を忘れていませんか」との言葉に動かされ書いたのがこの『人間失格』という曲だという。

前回「想定外ということ」に書いたとおり、いいことばかり、総花的な、耳障りのいいことばかり言ったり考えていたりしても、それではダメだということであろう。オブラートに包んだような表現を使いたがる私たち日本人のやりがちなことを、Metisのこの歌は正にぶち壊すような曲だとも言えようか。しかし、今このときにこのような試みこそ求められているのかもしれない。

私たち日本の仏教はいかがであろう。正にMetisが陥った息のつまるようなものになってはいまいか。良いことばかり、耳障りのいいことばかり、みんな仏様ですよ、死んだらみんな仏様の世界に逝くんですよ、この世は素晴らしい仏様の世界ですよ、そんな言い方に誰もが辟易しているのではないか。言われたときにはそのように思えても、まったく心に深く残ることのないこのような表現に誰もが仏教など無意味に感じ無関心になっているのではないか。

仏教とは、そもそもそんなものではない。そんなものであったならば2600年も続いてこなかったであろう。仏教とは、この世の現実、真実を何よりも大切にぐっさりと突きつけてくるものではないか。自らの行い、業そのままの結果を予測しそのために今この瞬間にいかにあるべきかを迫る教えであろう。大事なことから逃げてはいけない。正に、Metisが謳うその歌詞そのままに自らの心を問いつつ、日々葛藤する中で自らの道を糺していく教えなのではないか。

仏教が総花的なことばかりになり、本当のことを説かなくなった。沢山の宗派に別れバラバラとなり、そして自らをも律していく姿勢が失われていることこそが、何よりもこの国のだれた馴れ合いの無責任な社会を作ってきてしまった根本的な原因ではないか。私にはそう思えてならない。勿論私もその加害者であることは言うまでもないが。仏教者は皆その自責の念を今このときに自覚する必要がある。

仏教とは本来それだけの力ある教えなのではないか。仏教の力で、今のこの国の窮地を救おうではないか、そんなことを言っても少しもおかしくない、それだけの力ある教えのはずである。奈良時代の聖武天皇、平安時代の嵯峨天皇の事跡を上げるまでもなく、仏教によって日本はその国難を何度も乗り越えてきた歴史がある。私たちは、その力あるはずの仏教を貶めてきた、それが故に今こうしてあることを思わねばならないのではないかと思う。何よりも、真実を見る、この世の現実を、誰が言ったからではない、本当のことを自ら探求し多くの人たちがより良くあれるようにすべき智慧ある仏教の本来の教えを自覚すべきであろうと思う。

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想定外ということ

2011年04月21日 18時46分22秒 | 様々な出来事について
今回の震災に関連して、想定外という言葉が乱用されている。もちろん、想定外なら何でも許されるということではないだろう。その道の専門家であるお歴々がそう簡単に使う言葉でもない。地震、津波、原発事故。どれをとっても想定内のことばかりではないか。何十年かに一度は起こってきた地震。津波も過去に何度も経験してきた土地でもある。原発はそもそも最悪のケースを想定して様々な危機に対処すべきものでもある。

それなのに何故こうも簡単に想定外を口にするのか。それも皆その専門分野の権威ばかりである。そして今頃になって想定外について様々な意見が発せられるようにもなってきたようだ。が、そもそも何故口々に想定外と語ってしまったのであろうか。

日本人は忌み言葉を嫌う。死や不浄など、あって欲しくないものには蓋をする。触れない。その言葉を口にするとそれが現実になるように思え、その言葉も嫌って口にしない。それこそ『千の風になって』が流行るまで、死そのものについて語ることはタブーであったように。受験生の前で、滑ったの落ちたのと言うことも嫌われてきた。

以前ある浄土系のお寺さんと話をしていて、地獄に行くような人は居ませんかと尋ねたとき、そういうことを考えることも避けるべきだということを言われたことがあった。考えなければそれが避けられるというものだろうかとその時思ったのだが、正に今回の震災の様々な場面でこのことが現実のこととなったように感じる。

想定外は、想定もしたくなかったのであり、想定するとあたかもそのことが現実となるような恐れの気持ちから、避けてしまったとは言えないだろうか。縁起でもない。悪いことを考えるとそれが起こる。起きて欲しくないから甘い想定をしてそれ以上については思考停止してしまう。だからこそ生ぬるい地震や津波の予測を設定して、防災対策が不備のまま今にいたり、緊急時にも後手後手の対応となってしまったのではないか。

もちろんそれなりに過去のデータから厳しく地震や津波を想定すれば、それだけの莫大な費用を要する設備設計のやり直しを迫られるであろう。余分な経費から利益が吹っ飛んでしまうということもあっただろう。様々な思惑の元に長年推進されてきたものの根本が揺らぐということも考えられよう・・・。

イヤなことはなるべく考えずによいことだけ考えて努力する。そして、喉もと過ぎて熱さを忘れ、何でもイヤなことは水に流す。そんな日本人の性質が決して悪いと言いたいのではない。それはとてもさわやかな印象を人々に与え、新しいことに向かってひたむきに努力するためには欠かせない長所とも言えよう。だからこそ、日本人はこれまでも度々過酷な災害や戦禍に見舞われながらも、そのつど復興し凄まじいばかりの発展を遂げてきたのだとも言える。

そのことを『NEWSWEEK』(4/20号)の『日本人を襲う震災トラウマ』と題する評論の中で、ジョージ・ボナンノ、コロンビア大学臨床心理学教授は、「人間は本質的に(危険や被害にあっても)再起力を持つが、なかでも日本人は飛び抜けて大きな再起力を持っているようだ」と語っている。

そこには、考えることは現実となる、だから悪いことは考えない、良いことだけを考えてひたすら努力する、という日本人の美点が作用してもいるだろう。素晴らしい特性ではないかと思う。しかし、何事も善くも表れ、悪くも展開するのが現実だ。想定外と語られた多くの事々は、既に述べてきたようにおそらくそれが悪い方向に展開したからであろう。

そしてこれからの復興においてはそれが善い方向に表れるべく、新たな未来に向けて発想を切り替え進むことが求められているのかもしれない。しかし努々甘い想定にとどまり、想定しなければ現実とならないなどと言わんばかりの発想は、この世の現実の前には役に立たないことを肝に銘じて、国民一人一人が今後は何事にも厳しい目で見定め意思表示することが何より大切であるということは忘れてはならないであろう。

悪いことを考えると現実になると考えるのなら、悪いことがたとえ起こっても善くあれるように考えることも現実となるのであろうから。

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(追記あり)震災一月に思う (付[ ボランティア奮闘 ]95年2月記) 

2011年04月10日 18時13分11秒 | 様々な出来事について

東日本大震災から、ひと月が経とうとしている。今日も近くのお寺の法要に参加し、東日本大震災の被災者の皆様の一日も早い復興と亡くなられた方々への追悼のために経を唱えてきた。被災地では今もって物資が足りない、瓦礫の整理が進まない、遺体の身元も確認できない、その中で痛んだ遺骸を葬らねばならないなど、様々な問題が山積していることと思う。何事もうまくいかない、焦燥の中に困り果てている方もあるかもしれない。しかし、これだけの大惨事にすべてが上手く進むと考える方がどうかしているとも言えるのかもしれないし、それでも、もう少し何とかなっても良さそうなものだと思わざるを得ないという方もあるだろう。

原発事故のその後の推移もまったくテレビ報道がなされなくなると判断が付かない状況にある。新聞から海水へ汚染された水が漏れ出たというが、その後意図的に低濃度の放射能汚染水一万トンを放出したという。これは、明らかにロンドン条約という国際的な廃棄物の海洋投棄に関する条約に違反していると指摘する方もある。私たちは国家犯罪に荷担している国民なのだという方もある。これから海外の環境問題に関する諸団体から糾弾を受けることになるのではないか。とにかく放射能の大気や海洋への汚染を食い止めることを最優先して即刻手段を講じて欲しいものである。

そんな中で、この震災による私たちの生活への影響ばかりか、経済にものすごい悪影響が及んでいる。この震災があったばかりに多くの中小企業が部品が届かない、商品が引き取られない、受注が止まった、キャンセルの嵐だと、資金繰りに困りはてている。余りにも日本全体が萎縮してはいまいか。何もかも取りやめ、自粛では日本経済が沈没する。これまで通り、なるべく普通にすべきことをすることによってしか、日本は元気になれないし、被災地の経済も活性化しない。

そんな中、復興計画が審議されつつあり、その財源に連帯税なる考えが浮上している。日本全体が被災し、疲弊し、経済的にも困り果てている人たちが多く出つつある現状に増税があってよいものか。先頃新聞(朝日新聞4/5)にも、会計検査院審議官が言われていたように、昨年の決算剰余金30兆円を使えば増税などせずにすぐに復興に使えるという。このような真っ当な発言が出来る官僚をこそ政治家はブレーンとして大切にして新しい国造りを考えて欲しい。

被災した三陸海岸地方の復興計画の青写真はもう既にできていると言われる。参議院議長が言われるように会議を開いて悠長なことをしているときではない。早く優秀な官僚の智慧を結集して国の方針を発表すべきではないか。

4月6日に行われた民主党国会議員勉強会での上杉隆氏の原発事故を中心とする官邸と報道機関のあり方並びに東電の対応などについて問題点を鋭く指摘している会見。是非ご覧下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=O0CRuajD6C8

ならびに同日別室で行われた上原春男佐賀大学元学長(原発設計者)の官邸とのやり取りを交えた原発事故の終息に向けた提言。必見の価値あり。
http://www.youtube.com/watch?v=B1aAYwCnRt8&feature=related 

 

以下の文は、阪神大震災の折、何度かボランティアに入った先での体験談である。今多くの人たちがボランティアとして活動されていることと思うが、この地から何のツテもなくボランティアに入ることを躊躇している身として、少しでも応援したい気持ちから掲載させていただく。何か参考になることがあれば幸いである。
  

[ ボランティア奮闘 ]  


 今回の阪神大震災に関連して延べ三十万人ものボランティアが活躍しているといわれている。

 一口にボランティアといってもその形態立場はまちまちで、団体に属し数人の単位で行動しているもの、まったくの個人で駆けつけて来るものなどさまざまである。

 私の場合も、知人の紹介によって避難所に寝泊まりし、避難所を中心として活動した。全国からこうしたボランティアが毎日五人から十人は本山南中学には来ていた。多すぎて区役所内に設けられた情報センターに問い合わせてもらうケースも多かったようだ。

 一週間くらいの長期の人もあれば一日だけという人も多い。高校生から社会人まで。大半は大学生。出身地で目立ったのは、大阪、千葉、東京、北海道。一度中学生が自転車で大阪から来たというケースもあった。

 団体で活動する場合も、代表的には、医療担当の医者や看護婦のグループのように専門職を持つ人と、炊き出しなどの仕事を担当するために道具を持参で避難所を回ってくれている団体の人たちもある。

 これらは労働組合、青年会議所の人たちが多かった。また、洗濯のサービスや理髪師美容師のグループ。風呂や仮設トイレを設営してくれるグループもある。また、炊き出し用の大鍋や網を運んでくれる人、街角でテントを出す便利屋のようなボランティアまである。さらには、救援物資を地方から運ぶ運送屋さんのボランティアまでいる。

 本当にみんなの気持ちが暖かい、優しい、嬉しいのである。何かしたい。その一心でここに飛び込んで来た人たちばかり。駅の貼り紙を見たり、人に聞いて来たという人たち。何でも必要なことをしよう。その純粋な気持ちで結ばれた人たちの仕事によって避難所に暮らす人たちの生活が支えられていく。

 物資が市役所から届くと一斉にボランティアが集まり荷を下ろしていく。自衛隊の給水車が来ればポリタンクに水を移し運ぶ。一日二度の物資の配分。そして炊き出し。朝夕のお湯の準備。小さな子供たちの世話。子供たちを校庭に出させて一緒に遊ぶのもボランティアの仕事。

 私も呼ばれてドッチボールをしたり、バスケットボールをしたり。遊ぶ中で、子供は元気になっていき、大人たちも外に顔を出すようになって来た。

 そうして、この次に待っていたのが、災害弱者といわれる老人のケアーの問題。こちらのほうは私の担当になり、避難所の周りの各家々を一軒一軒三人四人で手分けして回っていく。

 避難所以外の比較的損壊の少なかった家やマンションに暮らす人たちの状況調査である。その中に老人だけの家庭もあり、水や食料に事欠く家が無いかどうか調べて回るのである。本来であれば行政の仕事であろうが、そこまで手の回る段階に無いことから、我がボランティアチーム独自の調査に乗り出したという訳なのであった。

 初めは何か押し売り的な気分がして気後れしていたが、ドアを開けてくれる人それぞれがやはり誰かと話したいという気持ちで質問する以上のことを語ってくれた。話をするということがこれ程までに求められているのを実感することができた。

 ボランティアに来る人の中には、学校内の様子を見て、自分にはやることが無いからすぐ帰りますという人もいる。せっかく遠くから来たのだから何かしていけば。と言っても何もありませんと言う。何でもいいんだよと言うとよけい困惑してしまう。

 何か生きるか死ぬかの状況の中で、作業をし人を救うことがボランティアと勘違いしているようなのだ。ボランティアとは本来、自主・自立ということで、自分で判断し自分で責任を持つということだそうだ。

 自分の判断で自由に仕事を見つけ行動すること。人から指図されていて楽しいことは無い。自分で見つける自主的にやるからいきいきできる。楽しいし自分のためになる。ボランティアに限ったことでも無いだろうが。

 また、長くいると、こんなに俺たちはやっているのに住民は何も手伝わない。疲れて来てそうぼやき出す人も多い。被災住民が主で我々ボランティアは補佐する立場なのに主導になってはいないかとの反省も聞かれる。初心を忘れないということはいかに難しいことか。

 何かしたい。そう思って来たのにいつの間にか、こんなにしてやっているのにという気持ちになって来てしまう。ボランティアに期待し感謝してくれている人がほとんどなのに被災者と接していないがためにそのことを知らずに過ごしてしまったのである。たくさんの被災者と接すれば、してやっている、という気持ちは吹き飛んでしまうだろう。

 大切なのは、その仕事を通じて被災者と接し、そこから自分自身が何かしらを学んでいくことではないかと思うのである。被災者のためになることをさせていただき、あくまでそのことは自分のためである。

 そして、被災者が地震で何を得たのかを知り、学び取って帰ることで、地元の多くの人と話し考えてもらう必要があるのではないのか。そうして初めて、この地震が神戸のものだけでなしに広く日本人全体の問題として捉え始めるのではないかと考えるのである。

 人間は本来ボランティアではなかったであろうか。お金のために毎日奔走する姿が人間の本来の姿では無かろう。困った人を見つけたら、黙って馳せ参じて救ってあげる。何の恩着せがましいことも無く。ただ当たり前の行為としてできたこれらのことが、今では特別のものとなってしまった。

 人の痛みを分かること、これほど今の私たちに求められていることは無い。この震災を契機にこれだけ多くの若い人たちが被災地に集結したことに勇気を感じ、ただただ熱い気持ちが胸に込み上げて来るのである

 

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