
とうへいさんのお顔は、かなりハッキリした顔だと思います。
写真屋さんが描き足した?
いいえ、とうへいさんと血縁のあった方も
銀幕のスタアになりそうな程に ハッキリとしたお顔立ちでしたので、
このお写真そのままの方だったと 想像します。

とにかく、体格の良い方だった、と伺いました。
それが「六尺丈夫」という言葉になったのでしょう。

また、音楽にも造詣が深い方だったそうです。
!
そこで 座敷ネズミは ひらめきました!
あのオルガン!!!
このブログでは 2010年の11月から12月に
古いオルガンを ご紹介しています。
(オルガン、 思い出 その1、 思い出 その2)

あのオルガンの寄贈者は、とうへいさんでした!
大正7年にお生まれになった方が、
大正14年に 中瀬の吉祥寺に オルガンを寄贈くださる。
通常では 考えられない年齢です。
ただ 早くに親を失った事と 富裕な家の子であった事で
理由がわかります。
そして それだけではなく、音楽が大好きな方だった。
それで 吉祥寺にオルガンを、という話になったのでしょうか。
吉祥寺の「中瀬子供会」は いつ頃からあったものでしょうか?
(終戦特集が、まさか、中瀬子供会の歴史に繋がってしまう?)
先々代は この頃 おいくつくらいだったでしょうか?
やる気満々の年齢だったと思われます。
それから、先代との関係も想像されます。
先々代は 大正10年の生まれ。
とうへいさんは、ほんの少し、先輩になります。
聡明で。 音楽がお好きで。 視野が広くて。 思慮深くて。 お医者さまで。
家も遠くないし。
先々代は とうへいさんが
子息である先代を 力強く支えてくださる事を希望したのではないでしょうか。
そして その様子が まぶたの裏に ありありと見えていたのではないでしょうか。
だとすると、「噫呼(ああ)!」という嘆きの言葉は
そのまま 先々代の
身をよじるような 哀しさと悔しさの入り混じった
真実の言葉だったと感じられます。

あの戦争が なかったら。
あの人が 生きて帰ってくれていたら。
あの頃 誰もがそう思い、嘆いていました。
日本中、否、世界中に そんな哀しい“IF”が 溢れていました。
もしも とうへいさんが 生きて帰ってくれていたら。
とうへいさんの生家だけではなく、
外地から生還した先代住職の、
そして 中瀬の吉祥寺の状況も
今とは 少し、違ったものになっていたのかもしれません。
これからも 誰もが 平和を希求してくれますように。