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座敷ネズミの吉祥寺だより

吉祥寺って、ラッキーでハッピーなお寺ってこと?
中瀬の吉祥寺のあれこれをおしゃべり。

吉祥寺 北門

2024-01-14 | 山門

吉祥寺の北門の事は、

まだお話してしていませんでした。

 

少々 というか、多々(?) 傷んでいましたので、

改修工事をしました。

 

  2023年6月3日

 

 

  6月7日

 

 

  8月9日

 

 

  8月22日

 

 

 

 

  9月4日

 

 

新しい材木でできた部分は わかりやすいです。

 

 

  9月13日

 

 

それを黒く塗ると、わからなくなってしまいますね。

 

 

 

 

 

黒い鉄でできた 古い門扉も新しくします。

 

これまで 開けにくく、閉めにくい扉でした。

 

 

  10月27日

 

 

  

 

 

10月30日

 

 

門扉は、あっという間に新しく取り替えられました。

 

 

 

 

 

 

 

古い部分も、新しくなった部分も、

気持ち良く新年を迎える事ができました。

 

以上、ご報告でした。

 

 

 


山門の上棟式

2008-10-28 | 山門
いつの間にやら、山門が復元(?)されつつありました。







今回、山門は修理ですので 材木の色が 新しかったり、古かったり。



でも、そこがまた面白いんですよね!






格天井も 当然ながら 今回は絵はありません。



でも、木目がとてもキレイ!






着々と工事は進んで 昨日の好天の日に 上棟の運びとなりました。





新しい棟札は ご用意いただいた板に 住職が書いて準備してありました。

 

現在の 役員の皆さんのお名前が書き連ねてあります。





皆さんで、般若心経一巻!





「帰依仏」の半纏をまとった吉祥寺の役員さんたち。





カシラが着ていらっしゃるのが、観音講の半纏です。

古い棟札も 新しい棟札と共に 再度 取り付けられました。






手前の枝垂れ桜が咲き誇る頃には 山門も美しく仕上がっているかと思います。



彫物師 政五良

2008-09-26 | 山門
9月7日の記事の 3番目の画像、



この一番左側に 近隣の地区前「S」と共に
「彫物師 政五良」とあります。

Iさんのお話では、
I地区の G兵衛さんのご先祖の奥さまのご実家がS地区で、
そちらの家系に彫物師の方がいた、とのことです。

こちらは特定できませんが 貴重な情報だと思い、記事にしました。






お彼岸に 彼岸花咲く。 なんの不思議なけれど。



山門の棟札の棟梁

2008-09-25 | 山門
さて、昨日ご登場いただいた、H地区のIさん、
この方が 棟札を見ていてが気付いて下さったのですが、
棟梁がわかりました。

観音寺は H地区の人たちの菩提寺だったそうで、
棟梁も 地元の方だったのです。







これです、この、河田弥傳次さん、
H地区の 河田H左衛門さん宅のご先祖だったのです。

「あすこんちの先祖に 大工がいたって話だ。」

過去帳で探してみると、確かにいらっしゃいます、弥傳次さん。

おお! Iさん、貴重なその記憶の数々、大事になさってくださいね!



大工の棟梁、河田弥傳次、弘化4年(1847)に亡くなってます。

弘化4年(1847)は 天保2年(1831)の16年後。

山門の仕事は 脂の乗った時期だったのかも?!

残念ながら 過去帳では
お生まれはいつか、何歳で亡くなったのか、まではわかりませんでした。





ということで、山門を造った棟梁が判明しました!

すごいなー。



Iさん関連の記事は もうひとつ続きます。



棟札  その3

2008-09-09 | 山門
今回整備する鐘楼と山門は
元は 観音寺というお寺のものだったのだそうです。

その観音寺が 後に吉祥寺に合併されてましたので
建物も吉祥寺に引越しをしてきた、というわけです。

ただし 観音寺の本堂は K市K地区のR寺さまに移築され、
本尊の観音像は 吉祥寺の薬師堂におまつりされました。

そして 南門の棟札の裏には 山門を移築した時の事が書かれていました。




観音寺 正門ヲ 合寺ニ付 吉祥寺正門 移ス

棟札 大工 石原市太郎
      
        同 兵三郎

        同 信太郎











合寺世話人

   衆議員  齋藤 安雄

   村 長  河田 文衛



建築委員

   石川 暢次郎

   川田 高三郎

   石川 政四郎






大正二年 

四月廿七日



住職

権大僧都 能円(?) 覚宥





大正2年は1913年、今から95年前ですね。

第一次世界大戦中です。

前年には夏目漱石の『こころ』、阿部次郎の『三太郎の日記』が、
この年には森鴎外の『山椒大夫』、芥川龍之介の『羅生門』が出版されています。




この頃になってくると 知った名前が出てきて、ぐっと身近になりますね。

ご先祖さまに、感謝申し上げます!



棟札  その2

2008-09-07 | 山門



写真はあまり得意じゃありません。。

頑張って 撮影してみます。

って、これはこの前の写真ですが(苦笑)。



天保二年 七月廿日 

御棟札 大工 河田弥傳次


これは、読めますね。 嬉しいですね!(笑)






当山 無住 長勢山 住職 新井

乗円 兼務 即 明治十五年 十月五日 補裡之


これも、読めました。 やるじゃん!(笑)



これは 明治に修理した時(1882年)に書き加えたものですね。

(この年のこの月、早稲田大学が創立されています。
 伊藤博文や板垣退助が 渡欧したりしている年です。
 時の総理大臣、いや、太政大臣は、三条実美!)

この頃には 観音寺は住職が住んでいないお寺、「無住」になっていて
吉祥寺の住職が兼務して管理していたようです。

新井乗円というのは 大活躍した吉祥寺の住職ですね。

この名前、郷土史に興味がある方は 覚えておいて損はありません!








下の方には 細かい文字がいっぱい書いてあります。

多分 天保二年当時のものではないかと想像していますが・・・?







右から読んでいいのでしょうか?(汗) 

読んでみます!(大汗)

下道寺 
多嘉谷 ○弥(?)

当所 
河田 宇八

平塚
松本 兵八

○子 由次郎(?)

下手計
根○ 佐重

水戸
柴田 源吉

大戸・・・(栃木県の地名だとのI氏のお話です。)
湯(?)本 松(?)次良

矢島
福島 龍蔵

越後国 三人

下手計
彫物師 政五(?)良






中の段に行って

当所
河田惣吉

小我○
石塚丹次良

山川村
高橋 浅五良








がんばって、一番下の段に行きます。

世話人 中澤 茂重良

    石川 長次郎

    石橋 孫八 充○←これは読めないのではなく、書けない。
                あ、結局、読めないのか。。。 矢偏に巨。

    令子 粂八

    石川 房○○ 孝播

    河田 仙次郎 重尚

    石川 令七

    河田 茂右衛門 重延(?)

    川田 広(?)右衛門

    石川 吉左衛門 ○展(?)






そして 最後に 左下、

大阿闇梨 竪(?)者 法印 覚順代【花押】




・・・・・・・・・ふう(汗、タメイキ)。

ご先祖様はいらっしゃいましたか?(笑)



次回は 裏に挑戦してみたいと思います。



棟札  その1

2008-09-05 | 山門
南門を解体する過程で 棟札が出てきました。

火事になったら灰になって 跡形もなくなってしまう運命の木材。

こうして残っていてくれて嬉しく思います。

そればかりか、文字もくっきりと読み取れて、感激です!




天保2年 7月20日の建築だった南門。

天保2年は 西暦1831年です。 (えーと。177年前?!)

時の将軍は徳川家斉、 
水戸藩では 徳川斉昭が 藩政改革をしている頃です。



大工の棟梁の名前は 河田弥傳次!   いよッ、色男!?  大棟梁!!



南門  その1

2008-08-27 | 山門
先週末、南門に足場がかかり、
修理のための解体の準備が始められました。

きょうはお天気もよかったので いよいよ屋根瓦をはずし始めました。








本当に、瓦の下は 泥なんですねえ。





これは、南側から撮ったもの。

今年も 百日紅がきれいに咲いていますね。








一方、これは 南門の中央を 下から眺めた写真。

わずかながら、胡粉の跡が認められます。

武人像でしょうか?





こちらはうさぎ?



胡粉は 
顔料(がんりょう)とよばれる昔ながらの絵の具ひとつで、
貝殻を天日にさらし、数ヶ月~何十年もかけて風化させたものを粉砕し、
水で溶き、粘土状になったものを板の上に延ばして更にさらして
造られるのだそうです。

気が遠くなりそうですね(笑)。



これらの絵を再現するのは無理だろうと思いますが、
惜しい気持ちでいっぱいです。






28日追記
昨日は骨組みだけになった南門の屋根を 撮影しようと思っていましたが
グズグズしていて 撮影する前にブルーシートがかけられてしまいました。