とうへいさんの話をします。
とうへいさん、お生まれは 大正7年。
とうへいさんの生家は 吉祥寺の近くです。
軍医さんであり、戦死なさった方です。
『蠅の帝国――軍医たちの黙示録』(帚木蓬生著、新潮社、2011.7.20)
を読んでから、
そして とうへいさんとご縁のあった方にお会いした、
という情報が寄せられて以来、
とうへいさんの事を書かなくては、という気持ちになっていました。
現在の戸主の方に とうへいさんを記事にする許可をいただいたのは、
花祭りの日でした。
今日 ようやく記事にする事ができます。

吉祥寺にある過去帳の記録によりますと、
「昭和十九年十月二十五日 二十七歳
海軍大尉 比島方面ニテ戦死」
との事です。
とうへいさんの墓所は、生家の近くです。

写真は 4月8日撮影のものです。

とうへいさんの墓石には 「墓誌」が刻まれています。
読んでみたいと思います(大汗)。

故〇〇とうへい墓
居士 諱(いみな)は とうへいと称す
先考〇〇 母〇〇の長男として
大正七年七月二十九日 中瀬村に生まれ
後 現父〇〇に養育せらる
天資聡明 思慮周密
夙に 県立本庄中学校の課程を卒え
進みて 東京 慈恵会医科大学に学び
昭和十八年九月 首席を以って学部を卒業
十居士 また特に 敬愛の心 篤く
父母に孝に 姉弟 相偎す
是を以って 在学中 師友の信望を収めて
常に学術研究の中心たり
而して 猶 趣味豊かに
就中 弓道に長ず
加之 文学 詩歌 音楽を好み
? ? ? 巻書
楽譜を手にするなど
その視野 甚だ廣汎
情操 適くとして 佳ならざるはなし
同年十月 海軍々医学校に入り
見習士官に任ぜられ
翌十九年三月 軍医注意に任官す
同年四月 同学校を 首席を以って卒業し
賞に 白鞘の短刀 一振を受く
同年 氷川丸に乗り
サイパン及び南洋諸島を徘徊し 戦艦扶桑に転勤す
而して 同年七月二十八日 突如 帰省す
滞在僅に三日
嗚呼 思はざりき
是ぞ 人生の永別なるべしとは
八月一日 当居を発し 呉にて扶桑に乗じ
一路南進 ボルネオ沖 艦隊基地に赴く
十月廿二日 朝 扶桑は 僚艦二十余隻と共に
出動して レイテ島の陸軍を救わんとす
然るに 命なる哉
忽ち 敵軍の知る所となり
海軍十字の砲火を受け
我が軍は 遂に 策の施すべきなく
全艦 相次いで 沈没し
茲に 居士が運命 亦 艦と共に窮る
時に二十五日 午前四時十分なり
洵(まこと)に 傷しき哉
官一級を進めて 海軍大尉に任ぜらる
超えて 昭和二十年五月廿五日
戦死の公報 至り
一族 村民 愕然たり
生年 二十六年 三ヶ月
蓋し 無上の大義と謂うべし
噫呼
天台座主 中山玄秀大僧正は 居士が訃音を享け
厚き吊意を表して
諡して 〇〇院〇〇〇〇居士と称す
則ち銘に曰く
六尺丈夫 学識如巖 忽殉国難 千歳痛恨
養父 〇〇 〇〇 識之
弟 〇〇 〇 建石
妙法院門跡 大僧正 三崎良泉 書 印 印

諱(いみな):貴人や死者の本名。
先考:死んだ父。亡父。
天資:生まれつきの資質。天性。天稟(てんぴん)。
周密:注意が隅々にまで行き届いていること。また、そのさま。
夙(つと)に:ずっと以前から。早くから。
偎(ワイ、エ)す:ぴったり寄り添う。寄り掛かる
就中(なかんずく):その中でも。とりわけ。
加之(しかのみならず):そればかりでなく。それに加えて。
詩歌(しいか):漢詩と和歌。 詩・和歌・俳句など韻文の総称。
適く(いく)= 行く
一部 判読できなかった部分は、後日 再調査(?)させていただき、
読めたら 書き加えるつもりです。
とうへいさん、お生まれは 大正7年。
とうへいさんの生家は 吉祥寺の近くです。
軍医さんであり、戦死なさった方です。
『蠅の帝国――軍医たちの黙示録』(帚木蓬生著、新潮社、2011.7.20)
を読んでから、
そして とうへいさんとご縁のあった方にお会いした、
という情報が寄せられて以来、
とうへいさんの事を書かなくては、という気持ちになっていました。
現在の戸主の方に とうへいさんを記事にする許可をいただいたのは、
花祭りの日でした。
今日 ようやく記事にする事ができます。

吉祥寺にある過去帳の記録によりますと、
「昭和十九年十月二十五日 二十七歳
海軍大尉 比島方面ニテ戦死」
との事です。
とうへいさんの墓所は、生家の近くです。

写真は 4月8日撮影のものです。

とうへいさんの墓石には 「墓誌」が刻まれています。
読んでみたいと思います(大汗)。

故〇〇とうへい墓
居士 諱(いみな)は とうへいと称す
先考〇〇 母〇〇の長男として
大正七年七月二十九日 中瀬村に生まれ
後 現父〇〇に養育せらる
天資聡明 思慮周密
夙に 県立本庄中学校の課程を卒え
進みて 東京 慈恵会医科大学に学び
昭和十八年九月 首席を以って学部を卒業
十居士 また特に 敬愛の心 篤く
父母に孝に 姉弟 相偎す
是を以って 在学中 師友の信望を収めて
常に学術研究の中心たり
而して 猶 趣味豊かに
就中 弓道に長ず
加之 文学 詩歌 音楽を好み
? ? ? 巻書
楽譜を手にするなど
その視野 甚だ廣汎
情操 適くとして 佳ならざるはなし
同年十月 海軍々医学校に入り
見習士官に任ぜられ
翌十九年三月 軍医注意に任官す
同年四月 同学校を 首席を以って卒業し
賞に 白鞘の短刀 一振を受く
同年 氷川丸に乗り
サイパン及び南洋諸島を徘徊し 戦艦扶桑に転勤す
而して 同年七月二十八日 突如 帰省す
滞在僅に三日
嗚呼 思はざりき
是ぞ 人生の永別なるべしとは
八月一日 当居を発し 呉にて扶桑に乗じ
一路南進 ボルネオ沖 艦隊基地に赴く
十月廿二日 朝 扶桑は 僚艦二十余隻と共に
出動して レイテ島の陸軍を救わんとす
然るに 命なる哉
忽ち 敵軍の知る所となり
海軍十字の砲火を受け
我が軍は 遂に 策の施すべきなく
全艦 相次いで 沈没し
茲に 居士が運命 亦 艦と共に窮る
時に二十五日 午前四時十分なり
洵(まこと)に 傷しき哉
官一級を進めて 海軍大尉に任ぜらる
超えて 昭和二十年五月廿五日
戦死の公報 至り
一族 村民 愕然たり
生年 二十六年 三ヶ月
蓋し 無上の大義と謂うべし
噫呼
天台座主 中山玄秀大僧正は 居士が訃音を享け
厚き吊意を表して
諡して 〇〇院〇〇〇〇居士と称す
則ち銘に曰く
六尺丈夫 学識如巖 忽殉国難 千歳痛恨
養父 〇〇 〇〇 識之
弟 〇〇 〇 建石
妙法院門跡 大僧正 三崎良泉 書 印 印

諱(いみな):貴人や死者の本名。
先考:死んだ父。亡父。
天資:生まれつきの資質。天性。天稟(てんぴん)。
周密:注意が隅々にまで行き届いていること。また、そのさま。
夙(つと)に:ずっと以前から。早くから。
偎(ワイ、エ)す:ぴったり寄り添う。寄り掛かる
就中(なかんずく):その中でも。とりわけ。
加之(しかのみならず):そればかりでなく。それに加えて。
詩歌(しいか):漢詩と和歌。 詩・和歌・俳句など韻文の総称。
適く(いく)= 行く
一部 判読できなかった部分は、後日 再調査(?)させていただき、
読めたら 書き加えるつもりです。