大河ドラマ『八重の桜』の放送が終了しましたね。
えっ、もうそんな時期? と、焦りを覚えました(汗)。
母の実家は 会津地方でした。
(と言っても、会津若松ではなく、もっと奥の方。)
父が育ったのも、祖母の実家のある、同じ町でした。
私が 会津を訪れた事は 多くはないのですが、
私の血には かなりの割合で 会津の血が流れているわけです。
今年も とても楽しみに 大河ドラマの放送を待ちました。
そんな『八重の桜』の最終回の、それも最後の方に、チョコッと、
秩父宮妃の事が出て来ました。
ご覧になった方、覚えておいでですか?(笑)
私としては、勢津子妃について 少しでも放送していただけて、
なんだかホッとしましたした(笑)。
というのも、私の名前は 秩父宮妃にちなんでつけられたからです。
どうせなら、という感じで? 勢津子妃と同じ字を使ってもらいました。
『秩父宮妃勢津子』(江間守一著、山手書房、1983.9.9)
(古い本で恐縮です。 あら、この発行日、勢津子妃の誕生日だ!)
秩父宮雍仁親王妃勢津子、
1909年(明治42年)9月9日 ~1995年(平成7年)8月25日)、85歳で薨去。
祖父は 会津の松平容保。
本の中にあるお写真です。
上品なお顔です!
同じ著者が 1996年に『秩父宮妃勢津子の生涯』という本を書いています。
また、妃は『銀のボンボニエール』という本を出していますが、
当然、「秩父宮妃勢津子」という著者名です。
どれも絶版のようです。
1983年出版の『秩父宮妃勢津子』は、お貸しできます♪
孝明天皇から賜った
ご宸翰(ごしんかん:天皇直筆の手紙)と
御製(ぎょせい:天皇の和歌)の存在が
あきらかにされた事(明治35年前後)がありました。
が、もしかしたら それ以上に、
朝敵・・・「チョウテキ」と打って、「朝敵」と変換されません(笑)。
朝敵の汚名を着た あの戊辰戦争の後、
あんなに 苦難に満ちた 過酷な日々を過ごした会津の人々にとって、
1928年(昭和3年)の 勢津子妃の輿入れは
旧会津藩の士族の人々の名誉回復と復権につながるものでもあり、
会津の人々の感激には 並々ならぬものがあり、
このうえない朗報に 感涙にむせんだことでした。
1928年(昭和3年)のご成婚
秩父宮は昭和天皇の弟であり、皇位継承権第1位にありました。
八重の最晩年でも 一番嬉しい事だったに違いありません。
いくとせか 峯にかかれる村雲の はれてうれしき 光をそ見る
と詠んだそうです。
ドラマの最終話でも 触れられていた「ちょうちん行列」。
会津では
「これで朝敵の汚名も消える」と
三日三晩ちょうちん行列が繰り出されたというのですが、
それは ご婚約の日なのか、ご成婚の日だったのか、
よくわかりません。
が、会津まつりでは 今でも 提灯行列を行っているようです。
現代の会津の人達に
どれほどの「会津魂」があるのかは わかりませんが、
少なくとも 祖母が生きていた頃には
しきたりを重んじ、頑固でマジメな人が多かったような気が
私は しています。
母は「東北人の粘り」という言葉が好きでした。