ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

「表現の不自由展」 補助金不交付に対する東大有志の抗議声明をめぐって(続)

2019-10-14 10:13:59 | 日記
東大教員有志の声明文には「何が」が欠けている。そう私は書いた。では、欠けているこの「何か」とは一体何なのか。きょうはこれについて検討することにしよう。

東大教員有志の声明文に欠けている「何か」、ーーそれは端的に言えば、企画展に出品された展示物の、その〈内容〉に関わる意見表明である。文化庁は〈内容〉に関わることを避け、〈形式(手続き)〉にこだわったが、それはあくまでも戦略上の理由からだった。作品の〈内容〉に立ち入れば、文化庁の対処は「表現の自由」を保証した憲法の規定に抵触することになる。文化庁は、補助金の不交付という行政措置が、憲法違反になることを怖れたのだ。

それは解る。至極尤もな理由だと言うべきだろう。けれどもそれは、この措置を批判する教員有志の側が〈内容〉に関わることを避けていい理由にはならない。むしろ批判する側は、「表現の自由」の理念を堂々と掲げ、企画展の展示作品が〈内容〉的に無問題であることを強調すべきなのだ。

ただしこの場合、批判する側は、憲法が保証する(権利としての)「表現の自由」が(無条件に認められるべきものではなく)あくまでも「公共の福祉に反しない範囲で」という条件内で認められるべきものだという点に、充分留意しなければならない(憲法12条による)。企画展の展示作品は「公共の福祉」に反しないものであったのだろうか。

ここで思い起こさなければならないのは、この企画展には、慰安婦を表現した「少女像」が展示されたこと、それに対して河村・名古屋市長が「日本国民の心を踏みにじる行為」だとして中止を求めたことである。少なからぬ日本国民に不快な思いをいだかせる「作品」を、あえて公共の場に陳列したこの企ては、近年、物議を醸すことの多い「ヘイト行為」のパフォーマンスと、何がどう違うのだろうか。教員有志は、この問いに向き合わなければならない。

産経新聞は9月7日付の社説《愛知の企画展中止 ヘイトは「表現の自由」か》で、次のように書いている。
「芸術であると言い張れば『表現の自由』の名の下にヘイト(憎悪)行為が許されるのか。そうではあるまい。」
この社説は、「少女像」の展示に「表現の自由」を主張することは、憲法12条がいましめる「権利の濫用」に該当すると言うのである。「少女像」の展示は、日本国民を攻撃する「ヘイト行為」に相当し、「公共の福祉」に反するという判断がここにはある。産経新聞は、はっきりと次のように書いている。

「日本の象徴である天皇の肖像を燃やし展示することは、公共性を破壊する反社会的行為である。少女像は韓国が史実を誇張、捏造(ねつぞう)して日本非難の宣伝に使ってきた。やはり日本への悪意がある。」
(産経新聞10月9日《企画展再開 ヘイト批判に答えがない》)

ネトウヨも顔負けの過激な(露骨すぎる)主張だが、産経新聞のこの主張は、はたして誤っているのかどうか。私が東京大の教員有志諸君に求めたいのは、この問いに対する明確な回答である。
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