政治の舞台には、政局が表立つ場面と、理念が表立つ場面がある。政局を左右するのは政治力学であるが、理念を左右するのは、その理念が(人々を行動に駆り立てる)力を持つかどうかだといえよう。
今、注目をあびる与野党の政治改革論議では、立憲民主党が政治資金パーティーの全面禁止法案を提出したことが、何かと物議をかもしている。
この法案に対して、小沢一郎氏が激しく批判していることは、先日のブログでとりあげた。立憲民主党が提案する通りに政治資金パーティーを全面禁止にすれば、「大金持ちでなければ政治ができなくなる」という歪(いびつ)な現実が生じ、これでは日本国憲法が謳う平等主義の理念に反することになる。
小沢氏の批判は、立憲民主党が提出した改革法案の、その理念上の問題点を突くものだが、この法案はその他にもう一つの問題点をかかえている。
画餅。絵に描いた餅。実現する可能性がない空虚な、ただのお題目。
立憲民主党が提出した改革法案は、この意味で「画餅」の典型であることが明らかになり、このことがもう一つの批判の種になっているのである。きょうの朝日新聞は、次のように伝えている。
「政治改革をめぐる与野党論議で、立憲民主党が集中砲火を浴びている。政治資金パーティーの全面禁止法案を提出する一方、複数の党幹部が近くパーティー開催を予定しているためだ。」
(朝日新聞5月25日)
「政治資金パーティーは全面禁止にすべきだ」と言いながら、舌の根の乾かぬうちに党の幹部らが臆面もなく政治資金パーティーを開く。それは、小沢氏が言うように、政治にはカネがかかるからだ。大金持ちでないこの党の幹部らはそのカネを捻出するために、政治資金パーティーを開かなければならないのである。
ここに見られるのは、自家撞着をもたらす独善的な理念の空回りである。
「隗より始めよ」という言葉があるが、理念は、これをまず自らが実行してこそ周囲への力を持つ。この原点に背を向ける立憲の姿勢は話にならない。
立憲民主党が泥舟自民をイマイチ攻めきれず、政局へと持っていけない理由の一つは、理念の原点に立返ろうとしないその怠慢な姿勢にあるのではないか。そんな気がする。
今、注目をあびる与野党の政治改革論議では、立憲民主党が政治資金パーティーの全面禁止法案を提出したことが、何かと物議をかもしている。
この法案に対して、小沢一郎氏が激しく批判していることは、先日のブログでとりあげた。立憲民主党が提案する通りに政治資金パーティーを全面禁止にすれば、「大金持ちでなければ政治ができなくなる」という歪(いびつ)な現実が生じ、これでは日本国憲法が謳う平等主義の理念に反することになる。
小沢氏の批判は、立憲民主党が提出した改革法案の、その理念上の問題点を突くものだが、この法案はその他にもう一つの問題点をかかえている。
画餅。絵に描いた餅。実現する可能性がない空虚な、ただのお題目。
立憲民主党が提出した改革法案は、この意味で「画餅」の典型であることが明らかになり、このことがもう一つの批判の種になっているのである。きょうの朝日新聞は、次のように伝えている。
「政治改革をめぐる与野党論議で、立憲民主党が集中砲火を浴びている。政治資金パーティーの全面禁止法案を提出する一方、複数の党幹部が近くパーティー開催を予定しているためだ。」
(朝日新聞5月25日)
「政治資金パーティーは全面禁止にすべきだ」と言いながら、舌の根の乾かぬうちに党の幹部らが臆面もなく政治資金パーティーを開く。それは、小沢氏が言うように、政治にはカネがかかるからだ。大金持ちでないこの党の幹部らはそのカネを捻出するために、政治資金パーティーを開かなければならないのである。
ここに見られるのは、自家撞着をもたらす独善的な理念の空回りである。
「隗より始めよ」という言葉があるが、理念は、これをまず自らが実行してこそ周囲への力を持つ。この原点に背を向ける立憲の姿勢は話にならない。
立憲民主党が泥舟自民をイマイチ攻めきれず、政局へと持っていけない理由の一つは、理念の原点に立返ろうとしないその怠慢な姿勢にあるのではないか。そんな気がする。