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ささやんの天邪鬼 ほぼ隔日刊

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

外地で敗戦国民は(その2)

2025-07-19 09:29:59 | 日記
(承前)
引き揚げ者と復員兵の窮状を救うべく、政府は1945年、戦後開拓事業をはじめた。飛行場などの旧軍用地を農地として提供し、食糧問題、就労問題を解決しようとしたのである。
北海道から九州まで、全国約およそ100万箇所に開拓地が設けられた。引き揚げ者たちは開拓生活をもう一度、今度は日本の中で始めることになった。
だが、彼らの開拓はそんなにうまくは進まなかった。与えられた土地は、ほとんどが農地には不向きな痩せた土地だった。加えて、朝鮮戦争が起こると、警察予備隊の増強に絡んで多くの開拓地が接収されることになった。

それだけではない。日本が戦後の高度成長期を迎えると、引き揚げ者が切り開いた開拓地は公共事業のために買収されることになり、引き揚げ者はまたしても住み処を追われることになった。

筑波の研究学園都市や六ヶ所村の石油備蓄基地の、その大部分の用地は、引き揚げ者が切り開いた土地だった。福島や青森の原発関連施設の用地にも、戦後開拓地が含まれていた。成田空港の多くの用地も、満州からの引き揚げ者ら200世帯が開拓した土地だった。

1972年には、日中の国交正常化が果たされ、これにより、中国に取り残された残留日本人にも帰国の道が開かれた。
だが、そこに待ち受けていたのはハッピーエンドではなく、新たな悲劇のはじまりだった。
まず、ゲームクリエイター野村達雄の祖母、野村志津の例がある。中国人の夫と築き上げた一家のうち、彼女一人だけが入国を許され、やっと帰国した志津だったが、日本の土を踏んだとき、彼女はガンに侵されていた。帰国できたのはたった一日で、すぐに入院となり、中国に残してきた家族に会いたいと願いながら、二ヶ月後に息を引き取った。

中国残留日本人は13000人。そのうち7000人が永住帰国を果たした。だが、彼らを待ち受けていたのは、言葉の壁、差別の壁だった。帰国した人々と同じ数の受難のドラマがある。
(つづく)

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