生きていくのは厄介なことだ。
入りたかった会社に無事就職することができたとしても、
入社すれば、そこにはライバルとの競争が、
生きるか死ぬかの熾烈な競争が待っている。
毎日の生存競争に疲れ果て、疲れ切った自分を
アルコールで騙しながら、やっと定年までこぎつけたあなた。
さあ、これからはのんびりと、趣味でも見つけながら、
第二の青春を謳歌するぞ! そう思いを新たにしたあなたは、
今の自分の姿を肯定し、ここに至るまでの自分の
会社人としての生き方をも肯定したい思いに駆られるだろう。
ところが荘子は、こんな言葉を遺している。
ぐさりと胸を突きさす言葉だ。
「世俗の人間は、徒らに外界の事物に引きずられ、
他と争い傷つけあって、自己を耗(す)りへらして、
その人生を早馬のように走りぬけ、
これをとどめるすべを知らないのは、
なんと悲しいことか」(斉物論第2-6)
あなたの会社人としての人生を全否定するような荘子の言葉。
これをどう受け止めたらいいのか、
これに対して、どういう反論がありうるのか、
この問題を考えてみたい。
まずあなたは、ほかならぬ荘子の言葉を盾にとって、
こう言い返すだろう。
自分はこれまで、「ライバルに負けたくない」という自分の感情に忠実に、
素直に従って、生きてきたつもりだ。
荘子さん、あなただってこの私の態度は否定できないはずですよ。
心胸に生起する感情を「自然」のものとして受け入れ、
これに従うとき、我々はこの人間的なものを超越することができる、
と言っていたのは、荘子さん、あなたではありませんか。
ふむふむ。たしかに、荘子は矛盾したことを言っている。
私はこれを、ただ矛盾として受けとめるのではなく、
この矛盾を解消したいのである。
一方の見解(会社人としての人生を全否定する見解)を、
徹底的に粉砕するための確固たる論拠を、
荘子自身の言説の中に見出し、
そういう形でこの矛盾を解消したいのである。
ーー聡明な読者は、もうお気づきだろう。
そう大見得を切るからには、お前はその確固たる論拠とやらを
すでに見つけているに違いない、と。
お察しの通りである。私はすでにその論拠を見出している。
しかも、そういう目で読み進めてみると、
荘子の「斉物論」には、その種の論拠があふれているように思えるのだ。
例えば、次の言葉を、我々はどう受けとればよいだろうか。
「(本来、真でも偽でもない)道に、何故真と偽との区別が生ずるのか。
(本来是も非もない)言語に、何故是と非の対立が生ずるのか。
道はあらゆる場所に存在するし、
言葉はどんな場合でもそのすべてが「可」である。
道は小さな成功を求める心によって真偽の対立を生み、
言葉は虚栄と、はなやかな修飾によって是非の対立を生むのだ。」
(斉物論第2-8)
人生という道。私がリタイアするまでに歩んできた
これまでの人生の道。
荘子によれば、それは本来真とか偽とかと言えるものではない。
「然り」と是認すべきものでも、逆に「否」と否定すべきものでもない。
そういう是非の区別や対立をそこに持ち込むのは、
「小さな成功を求める心」なのだ。
「私は望ましい人生を歩んできた」と思いたい心、
自分を人生の成功者として位置づけたいと望む心が、
そうさせるのだと言ってよいだろう。
そういう心で見るとき、私の人生は、
是認すべきもの-否定すべきものという対立を抱え込んだ矛盾的存在になる。
会社人のあくせく人生を全否定する荘子の言葉が入り込んで
鋭い茨の棘になるのは、こういう心に対してなのだ。
荘子はヘーゲル張りに、
「一切の矛盾と対立の姿こそ、そのまま存在の世界の実相なのだ」と
述べるが(斉物論第2-9)、
世界が矛盾したものに見えるのは、
我々がそこに「心知の分別」を加えて見ているからである。
これに対して、そうした「心知の分別」を加えずに、
世界のあるがままの姿を、
そのまま自然として眺め受け入れるのが、
達人の境地である。
「達人は分別の知恵を用いないで、
すべてを自然のはたらきのままにまかせる」(斉物論第2-12)
のである。
荘子は言う。達人が看破する世界、そこでは
「すべての「然り」が「然り」として肯定されるだけでなく、
「然り」を否定する「然らず」もまた今一たび否定されて、
「然らざるはなし」と肯定される。
この大いなる一切肯定の世界が、
道樞(ドウスウ)すなわち実在の世界
にほかならない。」(斉物論第2-11)
実在の世界は「大いなる一切肯定の世界」だとする
達人・荘子の見方からすれば、
会社人のあくせく人生も、
肯定されるべきものだということになる。
そうではないだろうか。
入りたかった会社に無事就職することができたとしても、
入社すれば、そこにはライバルとの競争が、
生きるか死ぬかの熾烈な競争が待っている。
毎日の生存競争に疲れ果て、疲れ切った自分を
アルコールで騙しながら、やっと定年までこぎつけたあなた。
さあ、これからはのんびりと、趣味でも見つけながら、
第二の青春を謳歌するぞ! そう思いを新たにしたあなたは、
今の自分の姿を肯定し、ここに至るまでの自分の
会社人としての生き方をも肯定したい思いに駆られるだろう。
ところが荘子は、こんな言葉を遺している。
ぐさりと胸を突きさす言葉だ。
「世俗の人間は、徒らに外界の事物に引きずられ、
他と争い傷つけあって、自己を耗(す)りへらして、
その人生を早馬のように走りぬけ、
これをとどめるすべを知らないのは、
なんと悲しいことか」(斉物論第2-6)
あなたの会社人としての人生を全否定するような荘子の言葉。
これをどう受け止めたらいいのか、
これに対して、どういう反論がありうるのか、
この問題を考えてみたい。
まずあなたは、ほかならぬ荘子の言葉を盾にとって、
こう言い返すだろう。
自分はこれまで、「ライバルに負けたくない」という自分の感情に忠実に、
素直に従って、生きてきたつもりだ。
荘子さん、あなただってこの私の態度は否定できないはずですよ。
心胸に生起する感情を「自然」のものとして受け入れ、
これに従うとき、我々はこの人間的なものを超越することができる、
と言っていたのは、荘子さん、あなたではありませんか。
ふむふむ。たしかに、荘子は矛盾したことを言っている。
私はこれを、ただ矛盾として受けとめるのではなく、
この矛盾を解消したいのである。
一方の見解(会社人としての人生を全否定する見解)を、
徹底的に粉砕するための確固たる論拠を、
荘子自身の言説の中に見出し、
そういう形でこの矛盾を解消したいのである。
ーー聡明な読者は、もうお気づきだろう。
そう大見得を切るからには、お前はその確固たる論拠とやらを
すでに見つけているに違いない、と。
お察しの通りである。私はすでにその論拠を見出している。
しかも、そういう目で読み進めてみると、
荘子の「斉物論」には、その種の論拠があふれているように思えるのだ。
例えば、次の言葉を、我々はどう受けとればよいだろうか。
「(本来、真でも偽でもない)道に、何故真と偽との区別が生ずるのか。
(本来是も非もない)言語に、何故是と非の対立が生ずるのか。
道はあらゆる場所に存在するし、
言葉はどんな場合でもそのすべてが「可」である。
道は小さな成功を求める心によって真偽の対立を生み、
言葉は虚栄と、はなやかな修飾によって是非の対立を生むのだ。」
(斉物論第2-8)
人生という道。私がリタイアするまでに歩んできた
これまでの人生の道。
荘子によれば、それは本来真とか偽とかと言えるものではない。
「然り」と是認すべきものでも、逆に「否」と否定すべきものでもない。
そういう是非の区別や対立をそこに持ち込むのは、
「小さな成功を求める心」なのだ。
「私は望ましい人生を歩んできた」と思いたい心、
自分を人生の成功者として位置づけたいと望む心が、
そうさせるのだと言ってよいだろう。
そういう心で見るとき、私の人生は、
是認すべきもの-否定すべきものという対立を抱え込んだ矛盾的存在になる。
会社人のあくせく人生を全否定する荘子の言葉が入り込んで
鋭い茨の棘になるのは、こういう心に対してなのだ。
荘子はヘーゲル張りに、
「一切の矛盾と対立の姿こそ、そのまま存在の世界の実相なのだ」と
述べるが(斉物論第2-9)、
世界が矛盾したものに見えるのは、
我々がそこに「心知の分別」を加えて見ているからである。
これに対して、そうした「心知の分別」を加えずに、
世界のあるがままの姿を、
そのまま自然として眺め受け入れるのが、
達人の境地である。
「達人は分別の知恵を用いないで、
すべてを自然のはたらきのままにまかせる」(斉物論第2-12)
のである。
荘子は言う。達人が看破する世界、そこでは
「すべての「然り」が「然り」として肯定されるだけでなく、
「然り」を否定する「然らず」もまた今一たび否定されて、
「然らざるはなし」と肯定される。
この大いなる一切肯定の世界が、
道樞(ドウスウ)すなわち実在の世界
にほかならない。」(斉物論第2-11)
実在の世界は「大いなる一切肯定の世界」だとする
達人・荘子の見方からすれば、
会社人のあくせく人生も、
肯定されるべきものだということになる。
そうではないだろうか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます