ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

荘子が見る人生の矛盾

2016-02-24 16:19:53 | 日記
生きていくのは厄介なことだ。

入りたかった会社に無事就職することができたとしても、

入社すれば、そこにはライバルとの競争が、

生きるか死ぬかの熾烈な競争が待っている。

毎日の生存競争に疲れ果て、疲れ切った自分を

アルコールで騙しながら、やっと定年までこぎつけたあなた。

さあ、これからはのんびりと、趣味でも見つけながら、

第二の青春を謳歌するぞ! そう思いを新たにしたあなたは、

今の自分の姿を肯定し、ここに至るまでの自分の

会社人としての生き方をも肯定したい思いに駆られるだろう。

ところが荘子は、こんな言葉を遺している。

ぐさりと胸を突きさす言葉だ。

「世俗の人間は、徒らに外界の事物に引きずられ、

他と争い傷つけあって、自己を耗(す)りへらして、

その人生を早馬のように走りぬけ、

これをとどめるすべを知らないのは、

なんと悲しいことか」(斉物論第2-6)

あなたの会社人としての人生を全否定するような荘子の言葉。

これをどう受け止めたらいいのか、

これに対して、どういう反論がありうるのか、

この問題を考えてみたい。

まずあなたは、ほかならぬ荘子の言葉を盾にとって、

こう言い返すだろう。

自分はこれまで、「ライバルに負けたくない」という自分の感情に忠実に、

素直に従って、生きてきたつもりだ。

荘子さん、あなただってこの私の態度は否定できないはずですよ。

心胸に生起する感情を「自然」のものとして受け入れ、

これに従うとき、我々はこの人間的なものを超越することができる、

と言っていたのは、荘子さん、あなたではありませんか。

ふむふむ。たしかに、荘子は矛盾したことを言っている。

私はこれを、ただ矛盾として受けとめるのではなく、

この矛盾を解消したいのである。

一方の見解(会社人としての人生を全否定する見解)を、

徹底的に粉砕するための確固たる論拠を、

荘子自身の言説の中に見出し、

そういう形でこの矛盾を解消したいのである。


ーー聡明な読者は、もうお気づきだろう。

そう大見得を切るからには、お前はその確固たる論拠とやらを

すでに見つけているに違いない、と。

お察しの通りである。私はすでにその論拠を見出している。

しかも、そういう目で読み進めてみると、

荘子の「斉物論」には、その種の論拠があふれているように思えるのだ。

例えば、次の言葉を、我々はどう受けとればよいだろうか。

「(本来、真でも偽でもない)道に、何故真と偽との区別が生ずるのか。

(本来是も非もない)言語に、何故是と非の対立が生ずるのか。

道はあらゆる場所に存在するし、

言葉はどんな場合でもそのすべてが「可」である。

道は小さな成功を求める心によって真偽の対立を生み、

言葉は虚栄と、はなやかな修飾によって是非の対立を生むのだ。」
                 
                   (斉物論第2-8)


人生という道。私がリタイアするまでに歩んできた

これまでの人生の道。

荘子によれば、それは本来真とか偽とかと言えるものではない。

「然り」と是認すべきものでも、逆に「否」と否定すべきものでもない。

そういう是非の区別や対立をそこに持ち込むのは、

「小さな成功を求める心」なのだ。

「私は望ましい人生を歩んできた」と思いたい心、

自分を人生の成功者として位置づけたいと望む心が、

そうさせるのだと言ってよいだろう。

そういう心で見るとき、私の人生は、

是認すべきもの-否定すべきものという対立を抱え込んだ矛盾的存在になる。

会社人のあくせく人生を全否定する荘子の言葉が入り込んで

鋭い茨の棘になるのは、こういう心に対してなのだ。

荘子はヘーゲル張りに、

「一切の矛盾と対立の姿こそ、そのまま存在の世界の実相なのだ」と

述べるが(斉物論第2-9)、

世界が矛盾したものに見えるのは、

我々がそこに「心知の分別」を加えて見ているからである。

これに対して、そうした「心知の分別」を加えずに、

世界のあるがままの姿を、

そのまま自然として眺め受け入れるのが、

達人の境地である。

「達人は分別の知恵を用いないで、

すべてを自然のはたらきのままにまかせる」(斉物論第2-12)

のである。


荘子は言う。達人が看破する世界、そこでは

「すべての「然り」が「然り」として肯定されるだけでなく、

「然り」を否定する「然らず」もまた今一たび否定されて、

「然らざるはなし」と肯定される。

この大いなる一切肯定の世界が、

道樞(ドウスウ)すなわち実在の世界

にほかならない。」(斉物論第2-11)


実在の世界は「大いなる一切肯定の世界」だとする

達人・荘子の見方からすれば、

会社人のあくせく人生も、

肯定されるべきものだということになる。

そうではないだろうか。
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