ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

原田隆之氏に問う

2018-08-01 14:03:27 | 日記
スギタ議員の「LGBTは生産性がない」発言が、いまだネットの言論界に波紋
を広げている。原田隆之氏の《日本社会を覆う「杉田水脈問題」で私たちがい
ま試されていること》(現代ビジネス 7月31日配信)も この問題を取りあ
げた言説の一つである。思うにこの論説は、 他の言説を一歩越えでた 卓抜な
論説であり、紹介するに値する力作である。ただ、それだけにこの論説は、他
の論者には見逃されがちだった意外な問題点を摘出するとともに、また反面で
は、私の理解力不足もあってか、私にはうまく飲み込めない面も持つ。あえて
公開質問状のような形で、ここに教えを乞う次第である。

原田氏の論説の特徴は、〈スギタ的なもの〉を自己自身のうちに見出し、その
ことにこだわる点にある。この〈スギタ的なもの〉とは、他者への差別的な眼
差しである。氏は次のように書いている。
「実際、私も多かれ少なかれ「杉田水脈的」な醜さを持っている。巷の人々
も、程度の違いこそあれ、多分誰でも「杉田水脈的」なものを抱えて生きてい
る。何よりもまず、そのことを自覚し、よほど気をつけないと、無意識のなか
に差別は忍び込んでくる。
残念ながら、人間は生まれながらにどこか差別的なところがあり、本当の意味
で他者の気持ちを理解することはできないのかもしれない。」

我々は、自分自身の内にある〈スギタ的なもの〉をよく自覚し、その上でスギ
タ議員に向き合わねばならない。このことを自覚しないまま、スギタ議員に怒
りを投げつけ、排除の対象にしようとすれば、我々は荒野でサタンの試みに欺
かれたイエスのようになってしまう。「あたかも荒野でサタンがイエスを試し
たように、差別や暴力がはびこる荒野のような社会で、われわれはその企みに
騙されて、同じように卑しい地平に落ちてしまう」と原田氏は述べる。ーーこ
う述べるとき、原田氏はまるでイエスその人のようだ。娼婦を前にして、パリ
サイ人の民衆に語りかけるあのイエスのようだ。
「聖書学者たちとパリサイ人が、姦淫の時に捕まった女を連れて来て、真ん中
に立たせ、イエスに言った、「先生、この女は姦淫を犯している現場で捕まえ
られました。モーセは律法の中で、そのような女を石打ちにするよう、わたし
たちに命じています。ところで、あなたは何と言われますか?」彼らがこう
言ったのは、イエスを試すためであり、彼を訴える口実を得ようとしたのであ
る。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。彼らがしつ
こく問い続けたので、イエスは立ち上がって彼らに言われた、「あなたがたの
うちで罪のない者が、まず彼女に石を投げなさい」。」(ヨハネによる福音書
第8章1-11節)
念のために書き添えれば、(原田氏ご自身も書いておられるように)原田氏は
「私もあなたも多かれ少なかれ差別的である、だから杉田発言も許そう」と
言っているのではない。

では、原田氏はどう言いたいのか。私が解らないのは、このことである。この
論説の中で原田氏は、自分が人権思想の熱烈な信奉者であることを明言してお
り、これが氏の論説の第2の大きな特徴になっている。では、「杉田議員にも
人権があるのだから、批判してはいけない」と原田氏は言いたいのかーー。そ
うではない。これも原田氏ご自身が書いておられることだが、原田氏はそんな
ことを言おうとしているわけではない。

では、原田氏はどう言いたいのか。答えはおそらく次の文章に示されている。
「いまわれわれがすべきことは、杉田議員を社会的に抹殺して、その声を封じ
るのではなく、まず健全な批判をしながらも、その声を聴くことではないだろ
うか。
(中略)
このような憎悪に満ちた差別と対峙するためには、一方で差別は許さないとい
う断固とした態度を保ちつつ、苦い気持ちを飲み込んで相手の人権も尊重しな
がら、言論を封殺するのではなく、言論で闘っていくしかない。」

原田氏は、スギタ議員の人権を尊重する、と言明している。スギタ議員の言論
を封殺しない、とも言明している。原田氏がこう言明できるのは、思うに、ス
ギタ議員が「口だけ番長」で人畜無害であることを、原田氏が知っているから
である。スギタ議員を支持するネトウヨの面々が「口だけ番長」であること
を、原田氏がよく知っているからである。

危険な差別思想の持ち主であるスギタ議員が「口だけ番長」でなかったら、ど
うか。原田氏は彼女の人権を尊重する、と言えただろうか。彼女の言論を封殺
しない、と言えただろうか。

危険な差別思想の過激な実践者。ここで私が念頭においているのは、(原田氏
も言及する)植松聖被告ーー障害者施設「津久井やまゆり園」で、19人の入
所者を殺害した殺人犯ーーのことである。この男の思想がスギタ議員の思想と
きわめて強い類縁性を持つことは、原田氏も認めるとおりである。社会にとっ
てきわめて危険なこの殺人者に対して、我々はどういう態度をとればよいと原
田氏はお考えなのだろうか。管見を述べれば、私は、植松被告を無期懲役の刑
に処し、死ぬまで社会から隔離すべきだと思っている。無期限の拘束(=自由
の剥奪)は彼の人権を蹂躙することであるから、原田氏はこの刑事処分には反
対なのだろうか。

話が極端に走ったきらいがあるから、別のケースに目を転じよう。私が敬愛す
るフクシマ在住のブロガーさんは、フクシマ原発に批判的な見解を持ちながら
も、反原発運動に加われないでいる。東電の資金提供によって作られた郡山駅
前のビル「ビッグアイ」を日ごろ利用するなど、電力会社の恩恵に浴しながら
生活し、そういう自分に忸怩たる思いをいだいているからである。「自分も共
犯者だ」という自覚は、批判の矛先を鈍らせる。批判を社会運動として展開し
実践するには、(己の内部への)自覚の眼差しにはあえて目をつぶり、穴をま
くる潔さが必要とされる場合もあるだろう。自分の内部を見る自覚の眼差しと、
他者にそそぐ批判の眼差し、ーーこの2つをどうバランスさせるかは、う〜む、
たしかに難しい問題である。
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