こんばんはー!!
2時半睡眠って、「2時間半で起きなきゃ!!」という強迫観念で寝られないモノって気が冷静に考えたらして来たけど、
ワタクシ、おやすみー、、、、、、グーグー、、、、
(目覚まし)
ん?何だ??なぜ起きなくてはいけないんだ??お!!5:50か??
お!新潟に行くんだ、起きよう!!
的な(笑)
爆睡してんじゃんか?!すげー!!
そして320キロのドライブのお供は「ドクターX」@TVer
ギンギンに目覚めた状態で新潟に着きました。
ところで、
「言葉で伝える力」
聖書に「初めにことばがあった」ってのがある。
日本語にも「言霊(コトダマ)」ってのがある。
ふんふん!ふむふむ!!!
動物も鳴き声とかそういうので意思の疎通してると思うけど、この「コトバ」ってところが、やっぱり「人間」に与えられた素晴らしい「力」の1つかなーと思う。
いや、今まではそんなに思ってなかった。けど、ひとりさんなんかの音声で繰り返し言われてて、うん、言われてみりゃーそーですね、と日増しに腑に落ちて来た。
ほらほら、絵本とかもちろん本もだけど、そんなのをたくさん読むと情緒が豊かになって、精神も安定するって教育関係でもよく言われてる。
で、それって「情緒」というか、「芸術性」というか、なんかそういうものが良くなるよーと言う話のように聞こえてて、「うちの子は別にそう言うんじゃないから」なんて思っていたり、まあいわゆる「学校の勉強」「試験の成績」などがよく出来れば、それで万事うまくような錯覚もあって、特段大切感がないように思う。
単なる「心の豊かさ」という「オプション」的な見方ね。
かくいう私も、まあよくこのブログにも書いているかもだけど、学校の「図書の時間」などは、「鍾乳洞探検」という写真集の上でサンリオのオマケの舟を走らせる時間として有効活用(笑)
ほぼ毎回。
あと活字といえば、「王さまバンザイ」などの「王さまシリーズ」、そしてウチにあって唯一熟読していたのは学研の「ひみつシリーズ」。かなりたくさん小遣いで買っていた。
ひみつシリーズについては、科学、とりわけ宇宙関連にかなり特化。
その後、高校時代に読んでいたのは「ブラックホール」などの宇宙物理学モノ。ブルーバックスってやつを。
仕方なく大学に入ってから、太宰や三島、夏目漱石など定番の日本文学をひと回し。
結婚してから旦那や母の影響で、浅田次郎や池波正太郎を始めとした、エッセイや時代物。あとは「臨場」みたいなタイプの推理小説など。
あとはね、各種宗教、特に原始仏教、聖書関連、、、
なので、(≧∀≦)あははは。
結果、こういうブログ記事を書く感じになるのであった😆
やはり、曲目解説なんかを書くときに、圧倒的な表現力の足りなさを痛感する。こりょーもうね、一朝一夕にできませんわ。仕方ない。
形容するボキャブラリーが特に足りない。
普段の生活なら、「ドーン!」とか「ギュギュッ」とかで伝えることが出来るし、長ーい例え話にすれば何とかイケたりはするけど、簡潔に自分の考えや今の感情を言葉にするってことが、なかなか出来ない。
さらには、「今は自分だけが発言する時間」と明らかに決まっている時(大勢の前で何かトークをするなど)は、「自分が話して伝える」ことが大事だから、まあまあ考えを言葉にできる、、、いや、違うな。そういう時には、何かが「降りてくる」から、私が喋ってるんじゃないこともある。何かのインスピレーションで口から言葉が出てるってんですか?!その時に適切な言葉は勝手に出てくる。
だけど、みんなでワイワイ喋ってたりする時には、私には何にも降りて来ないので、結構困るよ。
ここは何を言えば良いんだ??ここで一番最適なのは??求められてるのは何だ??
で大抵、なんかちょっとズレてるな、という感触だけが残り、ちょっぴり悲しい。
ま、気にしない。
で、やはりいろんな「言葉」ってのがあると思うんだけど、私なんぞのように「降りてくる」モノは良いけど、自分の中から「なに言や良いんだ?」と探ってる時、なんか無力感あるし、もっと言うと自分の心とは実は向き合えてないって気がする。
なに求められてんだ?って、何か本当は自分の中にはないモノを捻り出そうとしてる感じ。
でも、きっと一段下がって(いや自分を一段上げて)、心に聞いてみれば何かいい言葉があるのかもしれない。
ま、それは自分の話なんだけど、さらに最近の子どもたちを見ていて、
自分の心から何か感情的な「エモーション」(情動)があったとしても、それをはっきりと感じ取って、それを咀嚼して、その感情を「言葉」にするとどのような状況かを探して、そして外の世界へ「ことば」としてアウトプットする
という訓練とか経験とか、なんかそういうモノが圧倒的に足りない子が急増している気がする。
、、、、いやはや、お風呂で書いてたもんで、暑さの限界を迎え、一旦中断!
しかし、どうやら今日の記事はワタシが書いてるのではないらしく(笑)、何かが降りてきて書いてるようで、書くのをやめて髪を乾かしたいのだが、もったいないくらい次から次へと書くことが頭の中に「言葉」になって、溢れて来て、そのウチには次の話題になりかかって来たので、ドライヤーを諦め、直ちに続きを書くことにする!!
はい、そそ、、、なに書いてたんだ??
ヤバイ、もう頭の中から一回出たから、何かが満足してる、、、思い出せー!!
思い出せないので、今出て来てることを書くから、続いてなかったらゴメン!
そう、このように「今、ドライヤーかけたいが思考が止まらない!!」という時に、流れ出してるのは「感情」ではない。
「コトバ」だ。
ここで不思議な事に気がつく。
「はじめに言葉ありき」
頭の中に流れているのはコトバなんだよね。だから、そのコトバをどんなコトバにするかで、「感情」の方がコントロールされていたりもするのだよ。
自分で思い当たることは、ラインのスタンプ。
ワタシの場合だけだろうな、と思っているのだけど、スタンプを選ぼうと思った時に、モヤモヤーっとハッキリとは掴めない感情があって、そこにはまだ否定的な意味も肯定的な意味もないんだけど、それでツラツラーっとスタンプを探す。そうすると、「あ!これだ!」と思うようなスタンプが何個か見つかる。
それが意外な事に、先にハッキリとした感情があって日本語で考えて探してる時はまた別なんだけど、そのモヤモヤーっとしたハッキリとはしない感情で探している時は、
その時にこれだ!と思うスタンプに真逆の意味合いが入りそうなモノが含まれていて、その時にどちらのスタンプを選んだかによって、感情ソノモノが確定されることがあるのね。
ということは、スタンプを探してる時点では感情に方向性がハッキリあるわけじゃなく、選んだスタンプによって感情が確定するという、なんが逆現象。
で、これはスタンプだから言葉じゃないんだけど、実は言葉にも同じチカラがある気がするんだよね。
感情が確定していて、それを表す言葉を選ぶ、ってのが普通な事に感じるけど、
実は、「どんな言葉を選んだか」「どんな言葉を発したか」によって、感情が確定する!!
という現象が明らかにあると思うし、実は確信している。
そんなバカな?って思うだろうけど、
例えばだよ、
「今日は10時間練習したから」(してないけど笑)
の後に何をつけるかさ、
「ちょー疲れたね」
「もーやりたくないね」
「何回もやらせてバカじゃない?」
「そんなにやらなきゃできないんだねー」
「いやー、良い疲労感だねー」
「美味しくご飯が食べられるねー」
「上手くなっちゃうなー」
「楽器が好きなんだねー」
「明日が楽しみだ」
「楽しかったねー」
「頑張れたねー」
多分、どれでも付けられる。
子どもがモヤモヤーっとしてるときに、最後にどれを付けるかで、絶対違う。そのモヤモヤーが言語化されて、その方向にモヤモヤが引っ張られて確定する。
それをたくさん繰り返してモヤモヤを言葉にする技術が身についたり、モヤモヤを言葉でコントロールして、自分を「良い方向」に導くこともできるようになる。
ふふーん。
自分で書いてて、お風呂前後ではアプローチが逆になってる事に気がつく。
オトナの立場としては、お風呂後方面からのアプローチで子どもの気持ちを良い方向に引っ張る必要があるなー。
また子どもたちは、自分のモヤモヤがどの言葉に当たるのかを探して口に出す訓練がいるし、ただしその「言葉」には「コトダマ」があるので、マイナス方向の言葉でタグ付けする癖が付くと、その「コトバ」の力によって、感情がそっちに引っ張られてしまうから、そばにいるオトナがいい言葉を選ぶようにしていくことが大事だよね。
その訓練。
そこで、まあ自分もめっちゃ使ってるけど、
タブレットやスマートフォンなんかとの直感的なやり取り、
テレビやビデオなどからの一方通行の刺激、
親や周りの大人が先回りして感情を読んであげ過ぎて、アウトプットしたり自分の中と向き合う必要がなくて訓練されない、
言葉のボキャブラリー自体が少ない、
そして、子どもの能力が育つまでじっくりと周りが付き合って行く、という時間と手間を惜しむ世の中になっている、
ということ。
それが、自分の中の説明できないモヤモヤを泣くとか、外界とのスイッチを切る、といった行為にしてアウトプットする子が増えたのかなーと。
まあ、今は「個性」と言って済ませてしまえる世の中ではあるけど、
訓練には時間がかかるし、言葉にできて、外の世界へアウトプットすることができれば、周りとの共有もできるし、そしたら「理解」してもらえたり、「共感」してもらえたりもするから、自分の存在に価値を感じることにも繋がって、生命力アップ!!
そしたら、また次にチャレンジする力も生まれるだろうから、
ま、人それぞれだよね!などと言って、訓練してあげないのは、社会的なネグレクトなのかなー、、、と。
少子化もあるし、どこの教育機関でも「責任問題」なんかがすぐに取り沙汰されちゃうもんだから、お子さまお客さま状態で、「察する」とか「してあげる」とかのスタンスにならざるを得ない感じだし、それでいて効率も求められちゃうし、親も向き合う時間があまりないか、逆に入り込みすぎちゃうか、、、
そんな現実もあるような気がしますが、
やっぱり、「言葉の力」「言葉にする訓練」「コトダマ」「ボキャブラリー」などは大切にする必要があると思いました。
英語教育はひょっとして、母国語での「言葉」との関係が下地として出来てからでも良いんじゃない??優先順位。
多分早い方が良いってのは、「発音」とかの問題であって、表現の手段として考えれば、まず自分の「言葉」を持つことが最優先と思うなー。蛇足ですが!
ハイ、降りてきたのは粗方書きました!!うん、満足。
それでは、生乾きの髪を乾かすことにします。
また明日ー、おやすみなさーい。今日も読んでくれてありがとうー!!