ゆこちんのトランペット

トランペット奏者 藤井裕子のコンサート情報、トランペット談義のつもりが…こぼれ話や大きな声では言えない話も…毎日更新中♪

ざっくりと思ってることを書いてみたりする

2022年04月19日 00時11分17秒 | 雑感
こんばんはー!!

いつもはタイトルを決めてから書き始めるんですけど、今日はざっくりと書いちまえってんで、タイトルにならないタイトルを書いてスタートしますw

自分の中に「先生たるもの」みたいな気持ちとか、「先生の指導力」って言葉とか、「生徒を育てる」とか、「生徒の力量は先生の力量」みたいな気持ちが、きっとあるんだよね。

昔からずーっとなんかモヤモヤするなぁって思っていて、上に書いたようなことが果たして本当か?それで良いのか??って思い続けていて、

ついに今は、そういう考えはすべて捨てよう!と思っているし、これは特に子ども相手の場合は良くないなって思って、そこははっきりしているんだ!

でもなんで、「自分の中にある」って書いたかって言うと、

そういう行為や考えに触れると、文句言いたくなるから(笑)

こだわりがあるってのは、裏を返せば自分がそういう気持ちを持っているのに否定してるからだって思うワケ!

そんなこと微塵も思ってないって人は、そういう考えに触れても、全く気が付かないと思うわwww

というわけで、きっと自分の中にハッキリこだわりがある、と認めた上で、

でもそれは私の理想じゃない!!とキッパリ思うことが出来たから、どんどん捨てていきます。


このことに気が付くと、

例えば、、、、

子どもの世話を焼き過ぎる大人
コンクールなどの成果を上げようと躍起になること
練りに練った指導計画
子どもが失敗しない、最短コースで行けるように配慮する
効率のいい指導
いうことを聞く子ども

などなどが、だんだん気持ち悪く感じてきて、

いかに大人が子どもの学びや発見の喜びのチャンスを盗んで、自分の手柄にして、子どものやる気を少しずつ削いできたか・・・・という現実に気が付く気がします。


子どもがほとんど動かずにいられる、不便を感じなくていいように、分かりやすいように、見やすいように、、、、

そうやって段取りをしてあげることは、ものすごく大変だし、すべて子どものため💕って思ってやってあげてるって思う。

その気持ち自体はきっと本当だと思うのね。優しさや親切心だと思うのよ。

でも、、、、

そんなに全部お膳立てされて、段取りされていて大人にコントロールされた遊びって、楽しいかなぁ??

「そうじゃなくて、こうよ!」
「ほらほら、こうやったら良いじゃない?」
「そうそう、そうやれば良いのよ!」
「できたじゃない!!やればできるのよ!」

こんな風に言われてやるゲームって、はたして楽しい??
こんなに自分で発見したり工夫したりする時間やチャンスを与えられない、失敗が悪いこと、ダメなことのように言われる遊びって、、、

最初のウチは、褒められたりすればやりたくなるかもしれないけど、そのうち、モチベーションはきっと下がる。

そうやって、やる気がなくなってくると、

「どうしてやらないの?」
「ちゃんとやりなさい」
「ダメねー、ほらー」

ってなるんじゃないかいな???

あとね、

子どもがちょっと失敗した時に、ちょっとガッカリした空気出したり、あるいはちょっと笑う大人いるでしょ?

あれは、やめてあげて。。。。

子どもは何にも言わないけど、身体にいっきに緊張が走っちゃう。

失敗したらいけない!!って、瞬時に察する。
上手くできたら、褒める。失敗したら、ダメ・・・

そんなことで自分の価値が決まるって思ったら、やるせない。

失敗しちゃダメなくらいなら、挑戦しないに限るッ!!

そうやって、やる気が少しずつ失われて、勇気や自尊心もちょっとずつ減っていく。

失敗は勲章!!たくさん集めて、それでもいろいろ工夫し続けてると、スーパーアイテムと交換できる💕

上手く行っても失敗しても良い。問題はそのあとどうします??ってことだけ。

上手く行って、は~上手く行った・・・それでもう進化するのをやめれば、そこで学びは終わる。

くっそー失敗したぁー!!!次に向かってどうしたら良いかなぁ?あれやってみるか??これもやってみよう!!!・・・そうやって学び続けていくと、少しずつ新しい自分に変身していく。

この「くっそー失敗したぁー!!」ってときに、そばにいてあげたり、悔しさなどに共感したりしてあげられてれば、それがもしかしたら一番良いんじゃないかな?

何かちょっとしたことでも、自分で発見したり、自分で考えて出来たりすると、やたら腑に落ちる。「分かった!!!」「できた!!!」って思う。

そのときに「その程度で分かった気になってちゃダメよ!もっとこうでしょ?」などと言っちゃーいけない。

子どもや学生に、「これで良い?」って聞くと、空気を読んで「ダメです」って言う子、めっちゃ多いよw

だから最初に「カマかけてるんじゃないから、安心して自分で判断しな」って言うと、だんだん空気で答えなくなっていくけど、訓練がいる。

空気を読むと、自分の頭を使わなくていい。

空気に乗れば良いんだもの。考える必要なんぞナイ。
あれこれ論理的に、これがこうで、こっちがこうだから・・・なんてやらなくても、周りの顔色とか雰囲気で答えちゃえば良いんだからね。

ときどき凄く居心地悪いなって思うのは、

空気を作る人がいて、それ以外の考えが出せない、出す人はオカシイ人、悪い人っていう空気が流れるとき。

みんなが同じ空気に乗っていれば、和気あいあいって感じで収まるけど、

どうもその内容、オカシクね??って思うのに、みんな乗って行っちゃうとき。

ワタシなんぞは、みんなが同じ意見なんて、オカシイって思う。

同じモノを見て、同じく感じるなんて、親兄弟でも夫婦でも、ほとんどあり得ん。

同じところに遊びに行っても、覚えてる内容が結構違ってたり、印象に残ってるモノも違ってて、なんなら解釈も違ってて、、、

人間の脳って、目の前にあるモノすべてを認識できるわけじゃないんだよね。

それに気が付いてない人も結構いるのかもしれない。

よく考えたらおかしいな?ってことって、考えない方が周りとズレなくて、面倒も起きない。

でも、そうやって生きてると、どこかにひずみが起きてきて、その流れに合わない人たちを無意識的に排除するような社会になる。

差別はいけないねーって言って差別的になるような世界になったりする的な。

それならいっそ差別しまーす!!って言ってやった方が健全なくらい。

今起きてる戦争も、はやり病も、学校も、、、そういうのがめっちゃ多い気がするんだよなー。

吐きそうになるね。

もちろん、いろいろ素晴らしい部分もいっぱいあるんだよ。
「社会すべて コノヤロー!!!」って言ってるわけじゃない(笑)

そうじゃなくて、みんなで「親切」で「良い人」で「正しい」「正義」の人で「価値ある」人間あろうとして、ヘンテコになってることが多いのかなーって思うのかな、、、と、、、自分に問う(笑)


子どもを手段にしてはいけない。

こんなに凄いことが出来る子どもたちを育てた「私」
という価値になったら、子どもが手段になっちゃう。

いやいや子どもが凄くなったんだから、良いじゃない?って言われそうだけど、その子は凄いから価値があるの?凄くない子は価値がないの??ってなったときに、変なことになる気がする。

凄くなるには本人が努力したんだから、価値があるでしょー?!

それは他人が強いた努力だとしたら、それに報いたのだから褒められるべきものだよね。

でも、自分が楽しくて楽しくて仕方なくて、探求していった結果すごくなったんだとしたら、結果として凄くなったことに「わー、良かったねー」で良い。

ま、そんなの理想論でしょ?って言っちゃえばそれまでだw

自分の力を行使して、子どもを凄くして、どーだスゴイだろ?と心のどこかで思っちゃう。。。

子どもが学んで、子どもが育つ・・・それをちょいと見守ったりサポートしたり、橋渡ししたり、通訳したり、、、そういうことができるようになりたい。

今までは、ホントにこういうことを思っていながら、それでも「こうならないように、これを教えとかなきゃ!」「このくらい常識だから、やらせなきゃ」「これができなきゃダメだ」って、、、それを子どもが本当に必要としてるのか、求めてるのかとか全然考えられてなかった。考えてるツモリだっただけで、もうホント余計なことをいっぱい言ったりやらせたり。

もうねワタクシ、大変極端な人間ですから、勇気を持って、要らないもんは捨てますよ。

それで「教えてるって言える?」ってくらい。

もちろん、こっちは仕事だから知識とか経験はいっぱい準備していく。でもそれを使うかどうかは、相手のニーズによる。

今!!って思わなければ、使わない。
求められたときに出せるようにしておく。

その代わり、人に判断を委ねずに自分の頭で考えられるように、思ったことを安心して言えるように、やりたいことが出来るように、失敗もいっぱいしていいように、、、そういうことが出来る場を作りたい。。。

あー、アタシって欲張りさんw

まぁ、まだやり始めたばかりですけどね。


なんだか、きっとほとんど分からんチンな話だと思うけど、今日も読んでくれてありがとう!

それではみなさんまた明日ー(^▽^)/
コメント
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