塾での授業が終わり、雪は一人廊下を歩いていた。
謎の女性に掴まれた手首を見ると、幸い指の形の痣はほぼ消えかけていた。

明日は先輩とのデートだというのに、こんな痣が残っていては何事かと思われるところだ。
苦々しい表情をして、雪は廊下を歩いた。
するとそんな雪の前を、河村亮が道を塞いだ。ダメージヘアー、と声を掛ける。

亮はいつもと違い、神妙な顔をして雪のことを見ていた。
普段の憎まれ口も叩かずに。

何か用ですか、と雪が亮に問うと、亮は頭を掻きながらお前のダチはどうしたと聞いてきた。近藤みゆきのことだ。
雪が、「みゆきちゃんなら授業の途中で帰りました」と伝えると、亮はいつも通りの口調で不満を漏らした。
「ったく何なんだあの女は?!高い金出してまたサボって、何考えてんだか‥」

目の前の雪が若干引き気味でそれを聞くのを見て、亮は口を噤んだ。
ゴホン、と咳払いを一つした後、雪に向き直って言った。
「さっきは、悪かったな」

亮は「アイツ、オレの姉貴なんだ」と言葉を続けた。少し居心地悪そうに、言いづらそうに。
「アイツちょっと‥癖のわりぃヤツでよ。オレが代わりに謝るから‥」

この後亮は、前に西条和夫と揉めた時のことを言及した。
あの時も先ほども、いつも雪の前で格好悪い所ばかり見せてしまっていることを、亮は詫びた。
俯きながら視線を落とす亮は、普段の粗野な彼とはまるで違っていた。

そんな亮を見て、雪は慌てて口を開く。
「‥いえ、河村氏のせいじゃないですし‥。そんな大したことでもないし、手も大丈夫ですし‥。
今度みゆきちゃんに大丈夫かって一言聞いてくれれば‥」

亮は、一生懸命言葉を紡ぐ雪を見ながら、先ほどの姉の言葉を思い出していた。
淳に復讐しようとか思って来たんでしょ。どーせ失敗したんだろうけど

亮が上京したのは、姉の安否確認と淳への復讐心からだった。
淳の通う大学へ彼を見に行った時、今まで見たことがないくらい楽しそうに笑う淳がいた。

一緒に居る女は、スタイルも容貌もファッションも凡庸に見えるのに、なぜ淳はあんなに嬉しそうなのだろう?
そう思って彼女に近付いた。

そして度重なる偶然が、ますます亮を彼女に近付けた。

亮は淳への復讐として、彼女に嘘のアドバイスをしたり、

意識的に近付いてみようとしたが、なぜだかいつも上手く行かなかった。

雪に絡む度に彼女は真面目に振り回され、二人は口喧嘩ばかりを繰り返す。

しかしそんな亮の、計画的とは言いづらい復讐も幾らか淳に影響を与えていた。
これ以上、俺の周りの人間に付きまとうなよ

他人に無関心な彼の、意識的な威嚇と警告。
亮は引き続き、赤山雪に何かしら関わっている環境に居続けた。
そして塾で彼女を見かける度、地道に自分の人生を歩む彼女を知った。
自習するために早く来たり、席を取るために走ったり、

休憩時間も教材片手に勉強し、「頑張っているのは自分だけではない」と謙虚に言ったりした。

亮が誤って彼女のノートを濡らしてしまった時、彼女は決して怒らず丁寧にコピーの仕方を教えてくれもした。

彼女は一度も本気で怒らなかった。亮はその度量の広さに感心する。
客観的に見た彼女は堅実で良識があり、地に足を付けて自分の人生を歩む、かなり真面目ないいヤツだ。

けれど‥。
ただそれだけの理由で、淳はこの女に近づいたのだろうか?
彼女でもない女に近づいた報復に、静香の金のアテを切るまでするのか?
高校時代は彼女に対してだって、あれほど無関心だったじゃないか‥。

そして主観的に彼女を前にした時に感じるものを、亮は持て余していた。
もう淳への当てつけとしてだけで彼女を見ることが、いつのまにかなくなってもいた‥。
そんな亮の視線を感じて、雪は振り返った。

雪は「さっきのことならあまり気にしないで下さい」と言った。
先ほどからずっと落ち込んでいるように見えるからだ。
亮はそういう意味で見ていたのではなかったので、無意識な自分をきまり悪く思った。

二人は自然と、いつも別れる交差点まで並んで歩いた。
雪は亮の姉のことを恨むことなく、そっくりだけど双子なのかと亮に聞いたりした。

亮もそんな雪の会話にリードされて、年子なんだと普通に答える。
そっくりなのは顔だけでなく、性悪なところもそうだと自虐的に言って、雪を困らせたりもした。
すると、家へ向かう通りの途中にパトカーが何台も止まっているのが見えた。
警察官も何人かウロウロしている。

気になった雪は、野次馬の一人に声を掛けた。中年女性に、「何があったんですか」と聞く。
「あんたこの辺の子?この辺りで夜中に泥棒が入って、下着やら金品やら盗んでいったみたいよ」

雪はそれを聞いて、思わず顔が青くなった。
亮が物騒な世の中に舌打ちする。

ここは雪の家の近所である。自分の家は大丈夫だろうかと、雪は急いで家に帰ろうとした。
すると亮が彼女を呼び止める。
「送ってやるよ」

突然の申し入れに雪が戸惑っていると、亮は「さっきの詫びだ」と言葉を続けた。
「こんな騒ぎの中、一人で帰すのも申し訳ねーし」

な?と返事を促す亮に、雪はまだ決断できず迷っていた。
そんな生真面目な雪に、亮は「そんな重く捉えんな」と諭すように言った。
「お前だって不安だろ。さっさと行くぞ」

そう言われて、雪は先日怖さのあまり一人歌を歌って帰った時を思い出した。
確かに不安だ‥。それに河村氏は悪い人じゃないし、心配なさそう

雪は「はい‥それじゃあ‥。ありがとうございます」と亮に向かって笑顔を浮かべた。
幾分申し訳なさそうに、手を首にやりながら。

亮はそんな雪を見ながら、彼女の心境の変化を感じた。

そしてまだ意識してはいないが、彼の心境の変化も。
二人は満月の下、雪の家へと向かって並んで歩き出した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<彼の心境>でした。
亮→雪への、「心境の変化ダイジェスト」のような回になりました。
今回の亮を見ていると、普段の振る舞いや言動は粗野なイメージだけどすごく細かいところを察したり、
他人の心境の変化を汲み取ったり出来る繊細な面があるのだなと気づかされます。
そしてこの薄い青のシャツは過去何回着ただろうとか、スーツは塾に置きっぱなのだろうかとか、
細かいところまで気になります。笑
次回は<疑われた彼>です。
人気ブログランキングに参加しました
人気ブログランキングへ
謎の女性に掴まれた手首を見ると、幸い指の形の痣はほぼ消えかけていた。

明日は先輩とのデートだというのに、こんな痣が残っていては何事かと思われるところだ。
苦々しい表情をして、雪は廊下を歩いた。
するとそんな雪の前を、河村亮が道を塞いだ。ダメージヘアー、と声を掛ける。

亮はいつもと違い、神妙な顔をして雪のことを見ていた。
普段の憎まれ口も叩かずに。

何か用ですか、と雪が亮に問うと、亮は頭を掻きながらお前のダチはどうしたと聞いてきた。近藤みゆきのことだ。
雪が、「みゆきちゃんなら授業の途中で帰りました」と伝えると、亮はいつも通りの口調で不満を漏らした。
「ったく何なんだあの女は?!高い金出してまたサボって、何考えてんだか‥」

目の前の雪が若干引き気味でそれを聞くのを見て、亮は口を噤んだ。
ゴホン、と咳払いを一つした後、雪に向き直って言った。
「さっきは、悪かったな」

亮は「アイツ、オレの姉貴なんだ」と言葉を続けた。少し居心地悪そうに、言いづらそうに。
「アイツちょっと‥癖のわりぃヤツでよ。オレが代わりに謝るから‥」

この後亮は、前に西条和夫と揉めた時のことを言及した。
あの時も先ほども、いつも雪の前で格好悪い所ばかり見せてしまっていることを、亮は詫びた。
俯きながら視線を落とす亮は、普段の粗野な彼とはまるで違っていた。

そんな亮を見て、雪は慌てて口を開く。
「‥いえ、河村氏のせいじゃないですし‥。そんな大したことでもないし、手も大丈夫ですし‥。
今度みゆきちゃんに大丈夫かって一言聞いてくれれば‥」

亮は、一生懸命言葉を紡ぐ雪を見ながら、先ほどの姉の言葉を思い出していた。
淳に復讐しようとか思って来たんでしょ。どーせ失敗したんだろうけど

亮が上京したのは、姉の安否確認と淳への復讐心からだった。
淳の通う大学へ彼を見に行った時、今まで見たことがないくらい楽しそうに笑う淳がいた。

一緒に居る女は、スタイルも容貌もファッションも凡庸に見えるのに、なぜ淳はあんなに嬉しそうなのだろう?
そう思って彼女に近付いた。

そして度重なる偶然が、ますます亮を彼女に近付けた。


亮は淳への復讐として、彼女に嘘のアドバイスをしたり、

意識的に近付いてみようとしたが、なぜだかいつも上手く行かなかった。


雪に絡む度に彼女は真面目に振り回され、二人は口喧嘩ばかりを繰り返す。

しかしそんな亮の、計画的とは言いづらい復讐も幾らか淳に影響を与えていた。
これ以上、俺の周りの人間に付きまとうなよ

他人に無関心な彼の、意識的な威嚇と警告。
亮は引き続き、赤山雪に何かしら関わっている環境に居続けた。
そして塾で彼女を見かける度、地道に自分の人生を歩む彼女を知った。
自習するために早く来たり、席を取るために走ったり、

休憩時間も教材片手に勉強し、「頑張っているのは自分だけではない」と謙虚に言ったりした。

亮が誤って彼女のノートを濡らしてしまった時、彼女は決して怒らず丁寧にコピーの仕方を教えてくれもした。

彼女は一度も本気で怒らなかった。亮はその度量の広さに感心する。
客観的に見た彼女は堅実で良識があり、地に足を付けて自分の人生を歩む、かなり真面目ないいヤツだ。

けれど‥。
ただそれだけの理由で、淳はこの女に近づいたのだろうか?
彼女でもない女に近づいた報復に、静香の金のアテを切るまでするのか?
高校時代は彼女に対してだって、あれほど無関心だったじゃないか‥。

そして主観的に彼女を前にした時に感じるものを、亮は持て余していた。
もう淳への当てつけとしてだけで彼女を見ることが、いつのまにかなくなってもいた‥。
そんな亮の視線を感じて、雪は振り返った。

雪は「さっきのことならあまり気にしないで下さい」と言った。
先ほどからずっと落ち込んでいるように見えるからだ。
亮はそういう意味で見ていたのではなかったので、無意識な自分をきまり悪く思った。

二人は自然と、いつも別れる交差点まで並んで歩いた。
雪は亮の姉のことを恨むことなく、そっくりだけど双子なのかと亮に聞いたりした。

亮もそんな雪の会話にリードされて、年子なんだと普通に答える。
そっくりなのは顔だけでなく、性悪なところもそうだと自虐的に言って、雪を困らせたりもした。
すると、家へ向かう通りの途中にパトカーが何台も止まっているのが見えた。
警察官も何人かウロウロしている。

気になった雪は、野次馬の一人に声を掛けた。中年女性に、「何があったんですか」と聞く。
「あんたこの辺の子?この辺りで夜中に泥棒が入って、下着やら金品やら盗んでいったみたいよ」

雪はそれを聞いて、思わず顔が青くなった。
亮が物騒な世の中に舌打ちする。

ここは雪の家の近所である。自分の家は大丈夫だろうかと、雪は急いで家に帰ろうとした。
すると亮が彼女を呼び止める。
「送ってやるよ」

突然の申し入れに雪が戸惑っていると、亮は「さっきの詫びだ」と言葉を続けた。
「こんな騒ぎの中、一人で帰すのも申し訳ねーし」

な?と返事を促す亮に、雪はまだ決断できず迷っていた。
そんな生真面目な雪に、亮は「そんな重く捉えんな」と諭すように言った。
「お前だって不安だろ。さっさと行くぞ」

そう言われて、雪は先日怖さのあまり一人歌を歌って帰った時を思い出した。
確かに不安だ‥。それに河村氏は悪い人じゃないし、心配なさそう

雪は「はい‥それじゃあ‥。ありがとうございます」と亮に向かって笑顔を浮かべた。
幾分申し訳なさそうに、手を首にやりながら。

亮はそんな雪を見ながら、彼女の心境の変化を感じた。

そしてまだ意識してはいないが、彼の心境の変化も。
二人は満月の下、雪の家へと向かって並んで歩き出した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<彼の心境>でした。
亮→雪への、「心境の変化ダイジェスト」のような回になりました。
今回の亮を見ていると、普段の振る舞いや言動は粗野なイメージだけどすごく細かいところを察したり、
他人の心境の変化を汲み取ったり出来る繊細な面があるのだなと気づかされます。
そしてこの薄い青のシャツは過去何回着ただろうとか、スーツは塾に置きっぱなのだろうかとか、
細かいところまで気になります。笑
次回は<疑われた彼>です。
人気ブログランキングに参加しました
