
雪の家の周辺は小さな建物が隙間なく建っていて、窓と窓との距離も近い。
雪の家の向かいに住む女性が通話をしながら、最近物騒になってきたこの近所のことを嘆いていた。
「なんか最近いつも誰かに見られてるような気がしてさぁ、引っ越そうかと思って部屋調べてるとこ。
町内で変態も出没してるみたいだし‥」

ふと彼女が窓の外を見ると、お向かいの男性の姿が見えた。
こちらを向いている。

女性は下着同然の格好をしていたため、その男性に向かって思い切り顔を顰めた。
小さな叫び声を上げて、カーテンを引く。
「きゃあッ!マジありえないんだけど!」

それを聞いた秀紀は怒り心頭だ。
覗く趣味も無ければ、女性をそういった対象で見ることも無いというのに。
「な‥何なのよ一体?!」

秀紀の怒号がその場に響いた。
ここに住むようになってからというもの、こうした誤解を受けるのが常だった。
その度に人々は後ろ指を指し、秀紀に汚いものでも見るような目つきを向けていく‥。

日が暮れる前、橙が徐々に色を濃くしていく空の下で、一人の男が歩いていた。
茶と白のTシャツ、焦茶のズボンという平凡な出で立ちで、キャップを目深に被っている。

男は口笛を吹きながら、とある建物を見上げた。
できるだけ目立たぬように、凡庸な一通行人に見えるように、何気ない仕草で。

男は建物を見上げたまま暫しその場に佇んでいたが、
通行人の姿が見えるとキャップをますます深く被り直し、その場を後にした。

男が吹く口笛が、不穏な旋律を奏でながらフェードアウトしていく‥。
そして男が見上げていた窓の中から、携帯電話の着信音がし始めた。
壁が薄いのか、その音は外まで聞こえている。

建物の中、その部屋の中では、一人の女性が机に突っ伏して眠っていた。
部屋は散らかっており、無造作に広げたノートやPCの前で、彼女は眠りこけていた。

深い眠りの淵から、呼びかけるように響く携帯電話の着信音。
彼女は、赤山雪はようやく目覚めた。

雪は弾かれるようにして飛び起きた。夢の中で、随分長い間着信音が鳴っていたような気がする。
慌てて隣室に面している壁の方を見やるが、そこは静かなままだ。

雪はヨダレを拭きながら、隣人の留守を思ってホッとした。
いつも大きな音を立てる度に、壁を叩かれて注意されるのが常だった。
そして次の瞬間、着信音が鳴り続けていることに改めて気が付き、通話開始ボタンを押す。
「もしもし?!先輩?!」

慌てて出した声が掠れる。
先輩が「出ないかと思った。寝てた?」と雪に問いかける。
雪は勉強しようと思っていたものの、気が付かない内に熟睡してしまったようだ。
今日の晩、先輩と夕食を共にする約束をしていたことを思い出し、何時にしますかと問い返した。
「じゃあ俺がそっちへ行くよ」

疲れている雪の声を聞いて、先輩がそう提案した。お酒でも飲もうか、とも。
雪も乗り気で賛成する。この近所は居酒屋が沢山あり、安くて美味しいお店がいっぱいあるからだ。
「じゃあ一時間以内に行くよ」

はいっ!と勢い良く返事をしたものの、雪は電話を切って我に返った。
散らかった部屋、ボサボサの髪の毛、ヨダレの垂れた顔‥。
雪は慌てて準備に取り掛かった。
「もう一回髪洗った方がいいかな?一応朝洗ったけど‥。ドライヤー時間かかるのにどーしよ?
な、何着てこう?あんまり気合入れすぎても不自然だよね?まさか家に入るなんてことないよね?」

アタフタと右往左往する内、雪は足を滑らせてその場で転んだ。
ドッターンと大きな音を立て、古い家が僅かに揺れた。
「?」

それを隣の部屋に居た遠藤が、訝しげな表情で窺っていた。
秀紀から隣室の女がうるさいと散々聞いていたことを思い出す。一体何者なのやら‥。
「ったく‥秀紀の勉強の邪魔だろうが‥」

舌打ちをしながら、再び読んでいた雑誌に目を落とす。
しかし内容は一向に頭に入ってこなかった。ギリッと唇を噛み、雑誌をその場に放る。

もう時刻は宵の刻。
遠藤はこの部屋でもう何時間もこうして座っていた。
秀紀の野郎、こんな時間までどこをほっつき歩いてやがるんだ‥。また音信不通だしよ

秀紀に苛つき、そしてこうしてまた待ちぼうけをくらっている自分自身にも苛立った。
この間電話でもう終わりだと、距離を置こうと自分から言い出したのに関わらず、またこの部屋で独りでいることに、
胸中はもうグジャグジャだった。

頭を抱えたまま、その場でゴロゴロと転がった。
苦しい胸の内を吐露するように、一人苦悶の唸りを上げながら。
暫し遠藤はそうしていたが、やがて横たわったまま携帯電話に手を伸ばした。
寝転がったまま、もう一度メールを打つ。
最後に会って話し合おう。頼むよ‥

いつも怒りが去った後は、虚しさと寂しさに襲われる。
そして寂しさが残ったまま、彼への愛しさを実感する。

まだ愛していることに、気が付かされてそれに苛立つのだ。
遠藤の目に涙が溢れた。
会いたい、二人で居たい、ただそれだけなのに‥。

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<受難の序章>でした。
遠藤さんが健気すぎて‥(T T)
そして謎の男、出て来ましたね‥。受難の始まりです。
次回は<夜に紛れて>です。
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