goo blog サービス終了のお知らせ 

ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

負けて知る

2011-10-12 07:50:04 | Weblog
「我を知る」10月8日
 愛知学泉大学教授の出原泰明氏が、学校体育についてインタビューに答えていました。その中で出原氏は、『体育は能力差が生の姿で表れる』と述べていました。逆上がりができず、跳び箱が跳べず、徒競走はビリかブービーが定位置だった私にはとてもよく分かります。
 当然のことですが、体育に限らず、あらゆる事柄について、能力差があります。そんな当たり前のことが、なぜか学校現場、特に小学校では、無視されてしまう傾向があります。「すべての子供が無限の可能性をもつ」という迷信が蔓延っているのです。この迷信がもたらす悪影響はとても大きいものがあります。
 まず、教員側の問題です。教員が、今できなくてもそのうちにできるようになるはずだと考えていると、注意深く子供の状況を見、丁寧な評価をしようという意識が薄れてしまいます。そのうちにできるようになるのだから現時点で否定的な評価をして萎縮させたり、自信喪失させてはいけないという考え方になり、できないという事実(できるようにさせられない自らの指導力不足)を直視せず、曖昧な評価をし、子供や保護者の認識を狂わせてしまうのです。その結果、子供はいつまでも的はずれな全能感をもってしまうのです。
 次に、子供に無限の努力を強いることです。誰でもできるはずなのですから、できないのは子供本人の努力が足りないということになってしまいます。その結果、かなり頑張っている子供に「もっと頑張れ」と更なる努力を強いることになり、子供も「できないのは私の努力が足りないからだ」「努力しない私はダメな子だ」という自罰意識をもたせてしまうのです。
 さらに、自分よりも優れている人がたくさんいる、という当たり前の感覚が身に付かなくなってしまいます。そのことが教えを素直に受け入れるという、本来子供期特有の美質が失われ、そのことが学ぶ姿勢の欠如につながってしまうのです。
 また、「負け」を受容できず、自分に都合の悪い状況に陥ると、その原因はすべて自分以外の第三者のあるという責任転嫁の体質になってしまいます。いずれも、現代の子供に多く見られる性質です。
 他人に優る嬉しい経験も、他人に劣る悔しい経験もすべて体験することで健全な成長ができるのです。教員は、能力差を自覚させることを避けてはなりません。○○はダメだけど△△は素晴らしい、とその子供の強味を見つけ評価してやること、Aさんには敵わないけど1カ月前よりもこれだけ伸びたと努力を評価してやれること、だめなことばかりだけど君が好きだよと伝えられること、それが教員の役目なのです。「いつかはできる」は、無能無気力な教員の逃げ口上に過ぎません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教育基本条例に反対の理由

2011-10-11 07:55:39 | Weblog
「短絡的」10月7日
 読者投稿欄に兵庫県の公務員の方の投書が掲載されました。「大阪維新の会」が提案する教育基本条例に対する反対意見です。その中で公務員氏は、『条例案が可決されたら、どんな教育現場が生まれるだろうか。誰も発言しない職員会議、ただ過失のないことを願った生徒管理だけに打ち込む教師たち…。およそ、教育現場の活性化とは程遠い姿となるに違いない』と書いています。
 私は、何回も教育基本条例についてふれてきました。その中で明らかにしたように、私はこの条例制定に反対の立場です。そういう意味では公務員氏と同じ立場ですが、理由が異なります。そして、公務員氏のいうような状況と教育基本条例を結びつけるのは短絡的すぎると考えます。
 教育基本条例には、職員会議で発言する教員をマイナス評価するというような内容はありません。子供が引き起こす問題行動が、担当教員のマイナス評価に結びつくとも書かれていません。私は都教委に勤務していました。人事評価も担当しました。都教委でも、5段階評価はありましたし、職員会議についても合議機関ではないことを明確に位置付けていました。それでも、公務員氏が危惧するような事態にはなりませんでした。
 職員会議で建設的意見を述べることは、その教員の有能さを示す行為ですし、子供の問題行動が発生しても、その後の対処・指導が適切であれば、それはむしろプラス評価の要因になりました。私自身、そのように評価してきました。
 公務員氏は、条例→管理強化→教育活動の沈滞という図式を描いているようですが、そうした見方こそ、先入観や思い込みによるものです。学校は組織体なのですから、適切な管理は必要ですし、漏れ聞く範囲では、大阪府の学校現場は、東京都に比べれば職員団体の影響力が強く、教委や管理職の管理が不十分な点があるように判断できます。ですから私は、管理=悪という発想には与しません。
 教育基本条例が問題なのは、首長、即ち政治の教育行政への影響力を強めること、そのことが戦前の教育行政への反省に基づく戦後の教育委員会制度を形骸化させるものであること、なのです。そして、そのことが十分な議論を経ないまま、実施されそうなことなのです。
 短絡的な「管理=悪」論は、かえって反対論を弱めることになる危険性があります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本当の姿

2011-10-10 07:45:57 | Weblog
「机上の論理」10月6日
 川柳欄に、『宿題がうれしいらしい1年生』という神奈川県のカトンボ氏の川柳が掲載されました。カトンボ氏は家庭での子供の様子を詠まれたようですが、教員経験者であれば、学校での1年生の様子からこの句に描かれた子供の姿を首肯できるはずです。
 1年生の子供は、緊張して新しい環境に入ってきます。彼らは、「学校は勉強するところ」というイメージをもって小学校の校門をくぐります。彼らの意識では、「幼稚園まで赤ちゃんみたいなもので遊んでばかりいたけれど、小学生はもう赤ちゃんじゃないから基とんと勉強もする」なのです。そして彼らの言う勉強とは、教室の椅子に座り本を読んだり字を書いたりする、というものです。ですから、彼らの多くは、1時間目に音楽で歌を歌い、2時間目に図工で絵を描き、3時間目に学校探検をして下校ということになると、「今日は勉強しないの」と不満そうに訊くのです。
 もちろん、歌も絵も大事な勉強です。しかし、彼らは彼らのイメージする勉強がしたいのです。宿題を喜ぶのもそうした心理のなせる業です。でも、高学年になると、多くの子供が勉強嫌いになっていきます。その原因は、1年生のときの純粋な「勉強したい」という気持ちをスポイルしてしまうことです。
 「子供は勉強嫌い」「教室に閉じこめ、椅子に座らせておくことは子供にとって苦痛」という思い込みが、一斉指導型、座学型、反復練習型の授業を過度に排除することになり、本来そうした形にあこがれをもち、望んでいた子供たちの期待を裏切ってしまったことがその原因の一つです。
 文章を写して字を書く練習、音読、足し算や引き算、そんな勉強を子供はしたいのです。私は高学年を担任していたとき、視写を取り入れた学習で子供の授業への集中力を高めたことがありました。高学年の子供にとっても、授業が終わった後、自分のノートが文字で埋まっていくのは、勉強したという満足感を得るものだったようです。
 子供は座学嫌いという机上の空論を排し、「子供はノートを埋め尽くすのが好き」という実態に基づいて、授業を、学校を考え直してみることが必要なのだと思い生ます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

衰亡への道

2011-10-09 08:15:00 | Weblog
「強味を育てる」10月5日
 作家の池井戸潤氏が、インタビューを受けていました。その中で池井戸氏は、『~(前略)この人たちの仕事ぶりはお金のためではない。自分の職務に忠実であろう、仕事の質を上げようという気持ちからです。できることは完璧にやろうという考えが染みついている。かつて日本の成長を支えてきたのは、こうした仕事への熱意ではないかと思います。私たちはそれぞれに居場所があり、そこできちんと働くことが求められている。いい意味で「社会の歯車」なんです』と語っています。
 その通りだと思います。そして、こうした日本の強味を育ててきたのが、学校教育なのです。終身雇用制度というと、我が国の伝統のように言われますが、実際には、戦後に広まり定着したものです。つまり、戦後の学校教育が、よい「社会の歯車」たる人間を育ててきたからこそ、敗戦で破壊され資源に乏しい我が国が発展し、豊かな社会が実現したのです。
 現在、「社会の歯車」というと悪い意味で使われることがほとんどです。これからは言われたとおりに仕事をこなす人材ではなく、自ら考え、新しい発想で新しい価値を創造する人材が求められているという趣旨の主張がなされています。しかし、頭脳だけでは組織は動きません。指令を受けて動く手足がなければ何事も実現しませんし、エネルギーを送るために黙々と消化吸収を続ける消化器や必要な酸素を取り入れるために動き続ける呼吸器がなければ、考えることさえできないのです。健康な人は、普段、自分の肺や腸を意識することはありません。しかし、一つ一つの臓器が地道に自分の役割を果たしているからこそ、人間らしい創造的な活動ができるのです。
 もし、学校教育が、よい「社会の歯車」を育てることを放棄すれば、日本社会はやがて病体となってしまいます。よい「社会の歯車」を育てる上で、大きな貢献をしてきたのは義務教育です。戦後日本を支えた「社会の歯車」の多くの学歴は高卒まででしたから、12年間のうちの9年間を占める義務教育の貢献度は明らかです。そして、戦後60年以上の間、義務教育は全国一律の画一的教育を行ってきました。「全国一律」「画一的」こそ、よい「社会の歯車」の要因だったのです。
 「全国一律」「画一的」を捨ててしまえば、よい「社会の歯車」は育っていきません。それは、我が国の衰亡への道です。心配です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

同じような子供

2011-10-08 08:25:06 | Weblog
「それはいいこと」10月5日
 川柳欄に、『いろんな子教育されて似たよな子』という芦屋市のみの吉氏の川柳が掲載されました。みの吉氏は、おそらく子供の個性を殺してしまう学校教育の通弊を風刺したのだと思います。でも私は、それこそ学校教育の役割だと思っています。生物としてのヒトは、教育を受けることによって社会的存在としての「人間」になると言われています。ヒトを人間にするのが教育なのです。
 学校教育では、個性尊重がお題目のように唱えられています。しかい、個性には「悪い個性」もあります。また、「良い個性」も、それを伸ばしていくためには放置したままではいけないのです。良い森を育てるには、枝打ちや下草刈りが必要であるようなものです。それが教育なのです。
 チャレンジ精神が旺盛なのはよいこととされていますが、慎重さも併せもたなければ暴走から破滅という悲劇が待っているかもしれません。思いやりは美徳とされていますが、それが過ぎれば他人のことばかりを考え主体性のない人生を歩むことになるかもしれません。個性は、放置したままでは危険なものでもあるのです。
 学校教育、特に義務教育は、不揃いな子供の個性にある要素を加味し、ある要素を抑制して、その後の人生において他人や社会、自分を傷つけることなく個性を伸長できるようにするのが役目です。そうした行為は一見すると、個性を削り取り型にはめ手いるように見えるかもしれませんが、実は、青年期以降に飛躍するための土台作りなのです。
 「守破離」という言葉があります。師の教えを「守る」段階が合ってこそ、師から離れ真の個性を確立できるという意味です。師が高く厚い壁として立ちふさがってこそ、それを破って花開く個性も素晴らしいものとなるのです。義務教育が、強く画一化を進めてこそ、高等教育で個性が芽吹くのです。その後の人生で個性を発揮して、自らの生を実り多いものとしていくことができるのです。
 似たような子を育て上げることができれば、義務教育は成功です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

強味を生かせ

2011-10-07 08:05:53 | Weblog
「強味を生かす」10月4日
 東京運動部の藤野智成氏が、『ラグビーW杯1次リーグ敗退の日本』という標題で記事を書かれています。その中で藤野氏は、我が国の敗因を『選手たちが「日本流」と信じていた戦術は世界の標準であり、どこもマネできないオリジナルの戦略を持っていなかったということ』と分析し、『相手を上回る「何か」を持ち合わせず、焦り、ミスを多発した』と断定しています。
 ラグビーファンの私も同じ感想をもっていました。しかし、私が注目したのは、このことではなく、次に挙げる藤野氏の提案です。藤野氏は上記の分析に基づき、今後の日本ラグビーの進むべき道について、『データでは見落とされた逸材を、現場を巡って拾っていくことが必要だ。まず戦術ありきでなく、集めた素材から何ができるか戦術を練り上げてほしい』と書いています。
 つまり、初めにあるべき姿を規定し、それに合わせて戦略を立てていくのではなく、今現在持ち合わせている「強味」に合わせて戦略を立てるべきだという発想です。「あるべき姿→戦略」型は、理論的には筋が通り、分かりやすく、支持されやすいものですが、ともすれば現実を無視し理屈に走りがちになるという落とし穴をもっています。一方、「強味→戦略」型は、大きな夢や希望を描きにくく、人気がないという傾向がありますが、着実に一歩一歩前進することが期待できます。
 どちらの手法が優れているというわけではないでしょう。達成すべき課題に応じて使い分ければよいのです。
 我が国の学校教育についての議論では、「あるべき姿→戦略」型が中心となってきました。そして、様々なアイデアが出されながらも、改革は頓挫してしまうということが繰り返されてきました。
 そこでは、我が国の学校教育がもつ「強味」について、分析・評価されることがほとんどありませんでした。我が国はラグビーでは二流国ですが、学校教育では間違いなく一流国です。もちろん問題はありますが、総合的に見て、世界のトップグループであることは間違いありません。ですから、我が国の学校教育にはいくつかの「強味」があるはずなのです。その「強味」を徹底的に分析し、その歴史的経緯、背景などを把握した上で、その「強味」をどのように生かしていくのかを考え、そのためのシステム調整をし、教育予算を集中投下するという発想で、教育改革を構想してみるべきです。仮に、そこで得た構想がうまくいかなくても、今までの改革の失敗の原因を相対的に浮かび上がらせてくれる効果はあるはずです。
 ちなみに、私が考える我が国の学校教育の「強味」は、教員の授業力の高さと様々な授業法研究の蓄積だと思っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真の競争原理導入

2011-10-06 08:03:35 | Weblog
「多様性」10月3日
 『韓国大学荒療治』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『就職率など八つの指標でランク付けし、総合的に低評価の学校は「不実学校」として処罰する。改善がなければ認可を取り消す』という仕組みが導入されたということです。
 さらに、この制度に対しては、『卒業生には美術作家や個人レッスン講師などフリーで活躍する人が多く、就職率の評価は不当だ』という苦情があることや、中小企業への就職を斡旋することが大切だという「対策」をとる大学の話、大学のイメージ悪化が自分のイメージ悪化につながるとして教授や幹部が辞任を表明する騒ぎを報じています。
競争原理導入という改革の方向性は、我が国と同じようです。しかし、大きく異なるのは、大学という高等教育の場における改革であるということです。さらに、『最下部の17校について、新入学生が韓国奨学財団に学資ローンを申し込んでも融資が減額される』というように、「罰」が学生個人にまで及ぶということです。
 一連の改革について、梨花女子大教授の朴釘洙氏は、『今後、研究開発に特化した学校や教育を中心に行う学校、地元の工業団地と連携し現場で必要な人材を養成する学校など、特色を出していく必要がある~(中略)~キーワードは大学教育の「多様性」だ』と述べています。要するに競争原理の導入は、大学などの高等教育において望ましく、その徹底には、教える側だけでなく、教わる側の学生にもペナルティを科すことが必要であるということです。
 院→大学→高校→中学校→小学校という順で、競争と多様性が求められるということは、小学校→中学校→高等学校→大学→院という順で画一性が求められるということでもあります。教育と競争、教育における多様性の導入では、この点が肝心です。
 また、競争原理の導入によって教育効果を高めるには、競争に負けた子供にも何らかのペナルティを科すことが必要だという考え方が、わが国において受け入れられるかという検討も大切になってきます。教員や学校にだけ責任を負わせるのではなく、例えば、学習意欲がなく、他人の学習の妨害をする子供に対する「停学」などの処分を世間は容認するでしょうか。私は難しいと思いますが。特にこの点については、徹底した議論が望まれます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何の助言ができるのか

2011-10-05 08:20:31 | Weblog
「助言の中身」10月2日
 千葉大学名誉教授の宇野俊一氏が、先頃逝去された歴史学者遠山茂樹氏の追悼文を書かれていました。その中で宇野氏は、『早くから歴史教育の重要性について発言を続け、日教組の教育研究全国集会の講師として10年間、社会科教育の実践報告に耳を傾け助言をしてきた』と、その「業績」を紹介しています。
 遠山氏の偉大さについては、何も言うつもりはありません。ただ、『 』の部分についてはいくつかの疑問があります。
 まず、歴史教育と社会科教育の違いについての理解です。両者は同じものではありません。社会科教育の一部に歴史教育が位置付けられているわけでもありません。歴史学と歴史教育の間にも一定の距離がありますが、歴史学と社会科教育の間にはもっと大きな距離があるのです。追悼文からは、その点の認識が曖昧なような印象を受けました。
 また、小中学校で社会科の授業をしたことのないにもかかわらず、社会科の実践報告に対して、適切な助言を行えたのでしょうか。日教組の幹部は、どのような助言を期待していたのでしょうか、ということも疑問です。
 授業は、教材・学習活動・学習形態・評価法・学習過程・学習環境・狭義の指導技術など様々な要素で成り立っています。ですから実践報告への助言は、こうした要素それぞれについて、それぞれの関連性について、分析評価できなければならないのです。失礼ですが、遠山氏にそれが可能であったとは思えません。
 おそらく、日教組が期待し、遠山氏がその期待に応えて行ったのは、『戦後の冷戦と逆コースの中で、平和と民主主義を守る』という視点からの歴史事象の評価だったのでしょう。それは、何らかの運動にはなっても、授業改善とは別物です。「授業」の専門家ではない遠山氏の自らの信念に基づいた純粋な行動は、その肩書きや知名度を不当に利用されたのであり、そうした意味で遠山氏は犠牲者だったのかもしれません。
 学習指導要領も子供の変容も考慮せず、伊藤博文を暗殺した安重根を取り上げた実践を「意欲的な試み」とし、南京大虐殺を中心に戦中史の授業をすれば「新しい教材を開発した」と讃えるような研究会は、授業改善という視点からは有害でさえあります。
 教員は、「授業」を研究し、「授業」で勝負するものです。理科の授業研究に物理学者、国語の授業研究に文学者、社会科の授業に歴史学者を呼んで助言を受けるのは、授業を「親学問」の知識の切り売り視する古い授業観であることを自覚しなければなりません。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広く意見を募ればよいのか

2011-10-04 08:15:26 | Weblog
「無責任体制」10月1日
 教育関係の取材を担当していると思われる大久保資宏氏が、『シャンシャンに異議』という標題で、沖縄県八重山地方の教科書採択についてコラムを書かれていました。その中で大久保氏は、『教育の土台作りに手抜きは決して許されない。混乱に乗じて現場はもちろん、生徒や塾の声をも反映させる原点回帰、いや一大転機としてはどうだろうか』と述べています。
 よく分からない提言です。そもそも教科書採択においては、日教組や全教といった職員団体の意向が強く反映され偏りが見られるという問題意識から、教育委員固有の権限として、他社の影響を排除するという仕組みが創られたのです。
 また、教科書会社による教員への働きかけが激化し、当時新卒の若造であった私にまで、社会科主任であるというだけで接待の席への誘いがあったほどだったのです。こうした状況が教育を歪めてしまうことは明らかでしょう。
 大久保氏は、こうした経緯を知った上で提案しているのでしょうか。さらに、現実問題として、どのような仕組みの中で、生徒や塾の声を反映させようと考えているのでしょうか。一教科だけに限っても、「A社の教科書がいい」と決定するには、膨大な量の教科書に目を通さなければなりません。小学校の国語の教科書でいえば、約60冊の教科書を読み込む必要があるのです。これだけの教科書を一応読んで理解することができるのであれば、そもそも授業を受ける必要がないくらいです。塾の意見はどのように反映させるのでしょうか。難関校への合格を目的とする塾と補習中心の塾とでは、結論が異なることは十分考えられます。100人が通う塾と10人が通う塾の意見とを同じように反映させるのでしょうか。
 採択の実際を知っていれば、大久保氏のような意見は出てこないと思います。私が教委で教科書採択の責任者であったときには、各教科ごとに10人ほどの教員を資料作成委員に任命し、各社の検討比較資料を作成させ、その代表者を教委の採択の場に呼び、教育委員からの質問に答えさせるという形をとり、その上で教育委員による投票で採択を決定しました。もちろん、事前に教育委員全員にすべての教科書を届け、読み込んでいただいた上でのことです。全教科の教科書を決定するのに休憩時間なしで5時間以上かかったものです。市民の傍聴者も多く、採択の話し合いには緊張感が漂っていたのを覚えています。
 現行の制度下でも、多くの教委はこの程度のことはしているのです。教員に、子供に、保護者に、市民に、関係者にと広く意見を募るというのは、民主的で公正な手続きのような印象を与えますが、実際には浅薄で、誰もが責任をとらない無籍にシステムに陥ってしまいがちなのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

半端職人

2011-10-03 07:50:20 | Weblog
「鉄は熱いうちに打て」9月28日
 論説副委員長の与良正男氏が、大学生が数人でチームを作り、合宿などをしながら、5年後の国の予算案作りを競う「未来国会」についてコラムを書かれていました。その中で与良氏は、『最優秀に選ばれたのは(1)大学や高校など最終教育課程を修了後、10年間は「新卒」扱いとする(2)若者には、この10年間で最低3業種の経験を義務づけ、企業もそれに対応して採用する(3)併せて国も補助金を出す--を柱とした「リベラル・ジョブ」なる制度の創設を提案したチームが選ばれた』と述べ、その発想を評価しています。
 私には、職業の特性を無視した暴論としか思えません。5年ほど前、「お試し転職」という内容のコラムが掲載されたことがあります。某国で導入された、自分が「これだ!」と思う職業に出会うまで気軽に転職できるシステムを評価したものでした。そのコラムを読んで、私がブログに掲載した文章が、今回の与良氏のコラムへの違和感と重なるので、引用しておきます。

 4月、我が子の担任が発表され、初めての保護者会で、冒頭、新担任から、「私は最終的には、写真家を目指しています。今度の教員という職は3つ目です。将来、子供を被写体とするとき、子供のことを理解していなければよい写真は撮れないと考え、教員を経験してみることにしました。教員を3年間務めたら、夜の大都会を知るためにバーテンダーを経験してみるつもりです。たとえ3年間とはいえ、教職にある間はこの仕事に全力でぶつかるつもりですのでよろしくお願いします」と挨拶があったとします。前向きな生き方が子供にもよい影響を与えるだろう、計画的な生き方ができる人で子供も人生設計を考えるようになるかもしれない、というように肯定的な受け止め方をする人が多いのかもしれませんが、私は戸惑ってしまうと思います。
 私の中に、「教職を何かのステップアップのための手段にするなんて不純だ」「教員の授業力は、書物を読んだり大学で講義を聞いたりするだけでは高まらず、長年の積み重ねで身に付いていくものだ」というような意識があるからです。まして、最終的な目的ももたずに「自分が何をしたいのか、何に向いているのかよく分かりません。教員採用試験を受けたら受かったので教員をやってみることにしました。そのうち、転職すると思いますが、何事も経験だと思っています」というような挨拶をされたら怒り出してしまいそうです。教職は子どものためにあるという当たり前のことが、無視されたように感じてしまうからです。
 また、自分自身がそうであったように、教育委員会の担当や学校の先輩教員という立場から考えてみても、後輩の指導、人材育成の取り組む熱意を失ってしまいそうです。その結果、授業の質も低下していってしまうように思います。
 「働く」ということはハタ(周囲の人)を楽にすること、というのは単なる語呂合わせですが、仕事は自分の満足や喜びのためにだけあるのではなく、他人や社会のためにあるものだという視点は職業を考える際に欠かすことができないと思うのですが、その点が転職礼賛からは抜け落ちているように思うのです。

 授業は職人芸、というのが私の年来の主張です。教員に限らず、「職人」の仕事には適齢期というものがあります。いろいろな仕事をしてみてから、30代半ばで教員になるという形が一般的になれば、授業力不足教員があふれかえってしまいます。教員という職に対する理解が広がり定着することを望みたいと思います。まあ「リベラル・ジョブ」が実現することはないと思いますが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする