ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

自らを追い込む

2011-10-21 08:05:54 | Weblog
「追い込んで」10月19日
 川柳欄に気になる川柳が、掲載されていました。『本を読む時間が欲しくて本を買う』という桶川市の「句意なし」氏の川柳です。この川柳からは、教員の研究・研修を連想してしまいました。読書をしない人は、忙しくて本を読む時間がない、と言います。しかし、そういう考え方では、いつまでたっても読書に充てる時間は作れません。そうしたことを理解していればこそ、まず本を買い、読まなければもったいないと読まずにいられないように自分を追い込んでいくのです。
 教員の研究・研修も同じです。必要なことは分かっていても、忙しくて時間が取れないというのが多くの教員の実感でしょう。そして、研究・研修をサボったところで、すぐに授業の質が目に見えて低下するというわけではありません。ですから、まず目の前の業務を優先させ、研究・研修を後回しにしてしまうのです。しかし、こんなことをしていては、長い目で見たとき、その教員の授業力は確実に低下していきます。
 そこで、自己研鑽に励む教員は、まず最優先で研究・研修の時間を確保してしまいます。自らにノルマを課すのです。そして、その日に予定していた研究・研修を終えるまでは他の校務に取りかからないのです。初めは大変ですが、一度こうした習慣を身に付けてしまえば、苦にならなくなります。
 私の場合は、毎時間の社会科の学習指導案作成、授業記録と分析というノルマを課していました。大体1日に3時間費やしました。当時お世話になっていた先輩教員からの助言を受け、「やってみます」と約束してしまったので、辛くても後に退けなくなっていたのです。若いときのこの積み重ねが、自分を「社会科指導のスペシャリスト」にまで導いてくれたのだと思います。
 そして、この経験は、社会科だけでなく他の教科の授業や児童理解についても良い影響を及ぼしてくれました。私は怠け者です。それだからこそ、自分で自分を追い込んでいくことが必要だったのだと思います。
 若い教員のあなた、若い教員を指導する立場のあなた、自らに課しているノルマはあるでしょうか。

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訊かれても言えない

2011-10-20 08:14:28 | Weblog
「訊かれても言わない」10月18日
 精神科医の香山リカ氏が、『心を触診する』という標題でコラムを書かれていました。その中で香山氏は、『知人たちの食事の場で、「最近の若い医者はろくに触診もしてくれない」という話題が出た』と述べ、『しかし、診療の基本は「手当て」、文字通り医者が顔を近づけ手を当てて患者さんを丹念に診ることからしか、すべては始まらないはずだ。だとしたら、精神科においての「触診」って何なのだろう』と問題提起をなさっています。
 そして、ご自身の経験などを振り返りながら『精神医療の場合、「こうすれば患者さんの心に触れている」と思い込むのがいちばん危険、ということになりそう。それよりも必要なのは、そのつど「私はいま、きちんとあなたを手当てできていますか?」と本人に尋ねてみることかも』と結論付けていらっしゃいます。
 医師と教員の仕事には共通点があります。人と接する仕事であること、どうしてもその人間関係に疑似上下関係が生じやすいことです。医師と患者では、医師が医学的に無知な患者に教え諭し、患者は不満や疑問を抱えながらもそれを言い出せないという状況が見られますし、教員と子供、あるいは教員と保護者に間にも、子供・保護者側に何らかの遠慮が存在するのが普通です。
 ですから、香山氏の「結論」も教員の参考になるはずです。「自分は子供の心に触れている」と思い込んでいる教員がいるとしたら大変危険なことになります。では、子供に対して「先生は、今、Aさんの気持ちを理解できているかな」と訊いてみることが必要かといえば、少し違うと思います。
 子供は本当のことを言わないからです。「他の子もいるのに僕だけ手を煩わせることはできない」という教員への遠慮、「どうせ先生は分かってくれない」という教員への絶望、「いくら約束しても友達や親にしゃべってしまうんじゃないか」という教員への不信、「こんなことを言ったら駄目な子と思われてしまうのでは」という恐怖心、理由は様々ですが、子供はめったに本音をもらさないものです。
 私は、「先生は、今、Aさんの気持ちを理解できているかな」と訊くのではなく、「先生が、Aさんだったらこんな風に感じると思うんだけど、…違うかな」と訊くやり方をとることが多かったです。それがよいとは思いませんが、「本当に考えているよ」ということと「あなたの気持ちを勝手に決めつけることはしないよ」というメッセージを送ることができると思うからです。
 以前も述べましたが、子供の心を理解することは難しい、ということを自覚することこそが教員の基本です。
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わがままな一人っ子

2011-10-19 08:19:15 | Weblog
「何気ない言葉」10月17日
 川柳欄に『本当にわがままだろか一人っ子』という宝塚氏の「おーい銅将」氏の川柳が掲載されました。確かに、「一人っ子はわがまま」とはよく言われることです。本ブログで度々述べてきたことですが、こうした俗説に基づいて、他人を判断することは大きな間違いですし、偏見や差別の温床になってしまいます。
 しかし、血液型や星座で人の性格を分類するのは非科学的だが、「一人っ子はわがまま」というのは、それとは違うと言う人がいます。性格が形成される幼児期を過ごす家庭において、子供が自分一人しかおらず、大人に大切にされ、競い合う兄弟がいないために負けて悔しい思いをする機会が少なくなり、そうした積み重ねが性格形成に影響するというのは十分にありえるというわけです。
 その通りだと思います。しかし、こうした論理を展開する人は、大きな勘違いをしています。仮に「わがまま指数」というようなものがあるとして、1000人の一人っ子のグループと1000人の3人以上の兄弟がいるグループを比較すれば、前者の「わがまま指数」が統計的に有為な差をもって高くなるということはあるかもしれません。しかし、それはあくまでも統計上のことであり、目の前にいる一人っ子のAさんが「わがまま」であるということを意味してはいないのです。
 私が繰り返し述べてきたのは、仮に一般的に正しいとされる統計的事実があっても、それのみで人を評価しようとする姿勢は間違いであり、特に人に接する職業・立場の者は、絶対に慎まなければならないということなのです。
 私は、前日のブログで、地域の刑法犯事件の発生件数、地域住民の所得、学歴などと子供の学力との間には相関関係があると述べました。正しいと思っています。しかし、それらはあくまでも統計上の真実であり、そうした地域の学校に高学力の子供がいないということではありません。ですから、教育行政は地域のデータから適切な対策を打ち立てる必要がありますし、教員も学級経営や授業を構想する必要がありますが、一人一人の子供と接し言葉をかけるときには、おかしな先入観を捨て、一人一人をよく見ることが必要になるのです。
 「君がそういうわがままなことを言うのは、一人っ子だからなんだな」というような、何気ない言葉で子供を傷つけては成りません。
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天与の条件

2011-10-18 08:09:24 | Weblog
「天与の条件」10月16日
 東京都足立区の治安対策を取り上げた記事が掲載されました。記事によると、『10年4月に「治安再生アクションプログラム」を制定し、同年、都内の自治体で5年ぶりに刑法犯罪件数ワーストを脱却。しかし、今年になって都内全体の刑法犯件数が減る中、再び犯罪件数が増え、9月までに7680件(前年同期比18件増)とワースト2位の江戸川区の7096件を大きく上回った』ということです。
 私は東京の下町で育ち、指導主事として足立区と同じ城東ブロックに属する区教委に指導主事として勤務し、同ブロックの生活指導指導主事会のトップを務めました。ですから、足立区の小中学校の実態について、かなり知っているつもりです。いろいろな話を耳にしましたが、その中でも忘れられないのが、足立区の指導主事を務めていた某氏の「夜遅くの学校訪問には、女性の指導主事は行かせられないんだ。襲われるかもしれないからね。危ないと言って室長が行かせないんだよ」という言葉でした。
 夜遅くになっても、生徒が関わる「事件」が発生し、学校からの通報を受けて指導主事が飛び出していくことが珍しくなかったということですし、痴漢やかっぱらいに遭遇する可能性も無視できないほどだったということなのです。
 こうした環境の中で、教員は生活指導に多くの時間と労力をとられ、学校は警察や児童相談所などの関係機関との連携、家庭への指導、近隣区教委との連携などに人員を割き、疲れ果ててしまうのです。
 犯罪の多さは、家庭の経済状況の悪さ、教育への無関心の表れであり、そうした家庭で暮らす子供の学習意欲が低く、授業を成立させることさえ困難な状況が生まれるのです。足立区は、都内23区でも最も学力調査の結果がよくない区です。その結果だけを示して、教委や学校、教員の努力不足を責める人がいますが、それは間違いなのです。目黒区や武蔵野市などとは、そもそも与えられている条件が違うのです。スタートラインが違うのです。大きなハンディを背負って競争しているようなものなのです。
 人口10000人当たりの刑法犯罪件数と小中学校の学力調査結果、両者の関係をデータ化して示せば、そこには強い関連があることが分かるはずです。こうした指標は他にもあるはずです。所得や区民の学歴などについても同じ結果が得られるはずです。いくつかの指標に基づき、期待される学力を数値化し、その数値と実際の結果を比較するというような手法を生み出さないと、単純比較は意味がありません。
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お上頼み

2011-10-17 07:40:16 | Weblog
「当たり前のこと」10月14日
 『福島事故言及 前書きだけ』という見出しの記事が掲載されました。放射線教育の副読本が公表され、その内容を批判する記事です。副読本の内容の是非については、ここでは触れません。それとは別に、非常に気になる記述があったのです。
 『同(文部科学)省は授業などでの使い方については各教育委員会や学校の判断に委ねるとしており、実際に学校現場で活用が広がるかは不透明だ』という記述です。この記述の意図するところは、「放射線の問題は大切なのだから、その扱いを教委や学校任せにするのではなく、文部科学省(国)がきちんと指示すべきだ」ということでしょう。その根底には、学校や教委への不信感もありそうです。
 しかし、こうした見方は間違っていますし、危険でもあります。学校には様々な教育課題があり、副読本や資料が作成されていますが、文部科学省には、授業の専門家はいません。そして、そのことの当然の帰結として、それらについて、「何年生の何学期に、何時間授業して、副読本をこのように使いなさい」というような指示が出されたこともありません。授業のあり方、指導の仕方は専門家集団である学校や、指導のエキスパートである指導主事がいる教委に委ねるというのが、文部科学省の見識であったのです。子供の実態も授業の実際も知らない文部科学省が、具体的な指導のあり方を指示することなど間違いなのです。
 また、一度そうした前例ができれば、あらゆる教育課題、教科の内容についても、文部科学省が、いちいち言及することに成りかねません。それは、戦後の我が国の学校教育の伝統である、教育への政治の不介入の原則を破壊することにも成りかねないのです。
 多くのメディアは、教育への政治介入や何でも中央(文部科学省)が決めるような行政のあり方を批判してきたはずです。「文部科学省がきちんと指示しろ」というのは、自らその主張を否定する行為なのです。二重基準はメディアの自殺行為です。
 放射線教育の充実を願うのであれば、実際の実施状況をきちんと取材し、その結果を国民に提示し、そのことによって民意を動かすことです。それがメディアの役割です。

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反対論様々

2011-10-16 07:40:08 | Weblog
「反対論様々」10月13日
 橋下大阪府知事の政治手法についての特集が組まれました。その中で、教育基本条例が取り上げられ、数人の有識者が疑問や反論を述べていました。
 まず、元文部官僚の寺脇研氏です。寺脇氏『「極めて違法性が高い。彼は『有権者から直接選ばれた。有権者の声だ』と言うが、08年2月時点の公約にはなかった。今度の選挙で信を問おうとしているが、これこそ教育の政治利用で最もとがめられる」と批判』しています。
 次に、神戸女学院大名誉教授の内田樹氏です。内田氏は、『「彼は善意でやっているんでしょう。でも、条例を導入して教育現場を上意下達的に再編成したら、教育は大失敗する。現場は大混乱し、残るのはイエスマンだけ。学力は劣化する。その時には彼はもういない。府政への責任をどう考えているのかな」。中でも次の条例案(第2条)に着目する。<グローバル化が進む中、常に世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に迅速的確に対応できる、世界標準で競争力の高い人材を育てること>「これは1970~90年代くらいまでの世界観。教育はどんな状況でも生き残っていけるような力を高めていくこと。マーケットの動向と一緒に路頭に迷うような子どもを作るわけにはいかない。条例案は日本の未来を考えたら受け入れられない」』と述べています。
 教育基本条例については、私も反対の立場であることは繰り返し述べてきました。ですから、日ごろから教育について発言なさっているお二人の意見には注目せざるを得ませんでした。
 寺脇氏の主張は、政治の教育行政への過度の介入を警戒するもので、その根底には戦後の教育委員会制度を肯定する発想があると思います。私の主張と重なる点です。一方、内田氏の主張には不明な点があるように思えます。内田氏は、「教育現場の上意下達」に否定的であるように思われます。しかし、どんな組織でも「上意下達」なしには成り立ちません。現行の教育委員会制度の下でも、「上意下達」はあるのです。学習指導要領も、教科書採択も、ある意味「上意下達」です。そうした仕組みもいけないということなのでしょうか。内田氏は、それすら否定するのでしょうか。そうであるならば、反教育基本条例ではなく、反管理という主張になります。
 また、「上意下達」だとどうして「教育は大失敗」すると決めつけているのでしょうか。紙面の関係もあるのかもしれませんが、その理由が述べられていません。学校現場における「上意下達」といっても、その主たる対象領域が、教育内容なのか、教育方法なのか、教員の服務管理なのかによって、与える影響は異なります。私は、教育内容と服務管理については「上意下達」方式、教育方法については教員の創意工夫重視を原則にすべきだと考えているのですが。
 さらに、内田氏は、『激化する国際競争に迅速的確に対応できる、世界標準で競争力の高い人材を育てること』という学力観を時代遅れと批判しています。同感です。そうだとすれば、国際競争力強化のための小学校における英語導入、競争原理導入の具体化としての学校選択制導入などについてはどのように考えているのか、ということについても論じてほしかったと思います。教育基本条例の根底にある学力観は、産業界などからの要請を受け現在「主流」となっているものであり、橋下氏独自のものではないのです。逆に言えば、教育基本条例反対の根拠とはなり得ないとも言えるのです。
 何かと注目を浴びる橋下氏の教育基本条例ですが、その核心である「教育と政治」の関係に絞って議論したいものです。 

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生の体験

2011-10-15 08:06:05 | Weblog
「???」10月11日
 『急増した?囲碁人口』という見出しの記事が掲載されました。記事のよると、囲碁人口が、09年に倍以上に伸びたということです。その要因として、『囲碁といえば碁盤を挟んで対局するのが基本だったが、インターネットの普及と共に、ネット上で楽しむ人が急増』があげられています。当然の結果として、『街中の囲碁クラブなどがはやらない』のだそうです。
 近年、特色ある教育活動の一環として、囲碁を取り入れる学校が少しずつ増えています。その利点としては、思考力を鍛えること以外にも、礼儀正しさが身に付くことや目の前の相手に負けを認めることによる精神の成長などがあげられています。しかし、ネット対戦ではでは、そうした効果は期待できません。
 実は、私は将棋が趣味なのですが、街の将棋クラブで指すのとネット対戦では、対局時の精神状態が異なります。目の前に相手がいないのですから、「礼儀」は意識しません。極端な話鼻くそをほじりながらでもOKです。また、負けたときの悔しさも全く違います。少なくとも、相手の嬉しそうな顔は見ないで済みますし、悔しさを押し殺す必要もありません。延々と感想戦に付き合う必要もありません。もちろんネット対局にもメリットはありますが、昔ながらのアナログな対局とは別物と思います。
 同じことが、昔ながらの授業とネットを主たる学習ツールとした授業も違う特徴をもっていると考えられます。ネットによる情報収集や意見交流をした経験は、生での話し合いには生きないように思えます。話し合いのルールも異なりますし。学習仲間との共感や反感を体験しないままでは、共同してある結論を導き出すことはできません。
 まさか、ゲームのテニスやゴルフでテニスやゴルフをやったことにする運動クラブはできないでしょうが、学校における生の体験、アナログの学習の価値を軽視してはいけないと思います。

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嫌らしい人間

2011-10-14 08:17:19 | Weblog
「人間に対する見方」10月10日
 作家曾野綾子氏の対談が掲載されました。その中で曾野氏は、『私は「なせば成る」という言葉は全く間違いだと思っています。成らないのが人間で人生です』と述べていらっしゃいます。また、対談の立会人を務めた論説委員の重里徹也氏は、曾野氏について、『曾野さんの人気の理由の一つは性悪説にある。人間という矛盾に満ちた存在への洞察といってもいい~(中略)~世にはムード的な性善説があふれている~(中略)~曾野さんは自身の性格のいやらしさに苦しむと言うが、正直に自分を見つめる人はみんなそうだろう』と書いています。
 私は、以前から「曾野氏」のファンです。それは重里氏が指摘した点に共感するからです。私のブログを読んでくださっている人は、私が曾野氏から影響を受けていることが分かると思います。特に意識はしていないのですが、私の教員論は、曾野氏の「見方・考え方」が根底にあるように思います。
 まず、「なせば成る」の否定です。私が、「子供には無限の可能性がある」という教育界に主流の考え方に疑問を呈するのも、同じ考え方です。全力でぶつかってもできないことがある。大人であれば誰でも実感していることを、子供が相手だからと言ってごまかし、子供に「私は努力不足のダメな子」と思い込ませるのは残酷な行為です。
 次に、「性悪説」です。私は、人は様々な面をもち、その場そのとき、周囲の人によって良い面がでることもあれば悪い面が目立つこともあるという考え方です。曾野氏とは少し違うかもしれません。しかし、「性善説」が幅を利かしている教員の世界を考えると、意図的に「性悪説」を主張してこそバランスが取れると考えています。
 また、「自分の嫌らしさ」へのこだわりについても、教員に意識してほしいと思っています。私は特に「嫌らしい」人間なのではと思うことがしばしばです。嫉妬深いし、おかしなプライドをもっています。他人の失敗を喜ぶことも多いですし、ケチで、責任をとりたがりません。私ほどではないにしろ、ある程度は誰でも似たような気質をもっているはずです。そのことを自覚せずに、自分を天使か神のような高みに置いて、子供に「ここまできなさい」と諭すような恥知らずには、教員は向いていないのです。
 さらに、教員自身の自己認識だけの問題ではなく、子供に対しても「純真無垢」という見方をしている教員は、子供を理解することができません。子供だって嫉妬もするし、他人の不幸を願うことがあるものなのです。そうした認識をもたなければ、いじめ問題一つ解決できません。こういう教員に限って「握手をして仲直りしよう」などという茶番で、いじめを解決した気になっているものなのです。
 教員は、曾野氏の「人間観」「人生観」を学んでほしいものです。
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プレーヤーとコーチ

2011-10-13 08:04:53 | Weblog
「指導者の資質」10月9日
 『柔道死亡事故』という見出しの社説が掲載されました。中学校で必修化される武道、その中の柔道で死亡事故が頻発しているということについて、安全の徹底を唱える内容です。その中に『(指導者に)競技実績があるからといって適切な指導ができるわけでもない』という記述がありました。
 よくぞ言ってくれました、という思いです。中学校の教員には、良きプレーヤーであることが良き指導者の条件である、という考え方をする者が多いのです。ある中学校教員出身の指導主事は、「サッカーをしたことがない人がサッカーを教えているのが理解できない」と言ったことがあります。行政マンとしては、大変優秀な人物でしたが、彼も「名プレーヤ=名指導者」論に固執していました。
 もちろん、名プレーヤーが指導者としても優れた才能を示すことはあります。でもそれは、たまたまなのです。偶然に過ぎません。二つの才能には、何の関連もありません。
 ただ、誤解のないように付け加えれば、超一流のプレーヤーが生まれるには、超一流のプレーヤーの存在が不可欠です。超一流のプレーヤーになる素質の中では、模倣しそれを自分にあった形に改良する能力こそが重要です。超一流のプレーヤーの卵は、超一流のプレーヤーに憧れ、それを努力の動機付けとし、実際に超一流のプレーヤーを目にしてそのプレーの秘密を感知し、ついに自らのものにしていくのです。ですから、超一流のプレーヤーには何らかの形で前世代の超一流のプレーヤーの存在が必要です。
 しかし、学校体育や部活は、超一流のプレーヤーを育てる場ではありません。難しいと思っていたけどできた、スポーツって楽しいな、他のスポーツもやってみようかな、という意欲や態度を育て、そのことで人生を豊かにしてくれればそれでよいのです。
 指導者に求められるのは、子供理解、子供に伝わる言語表現、子供の思いを汲み取る力、一人一人の努力との美を正確に評価する能力なのです。このことは、実はスポーツに限りません。国語でも社会でも理科でも、その分野について多くの知識をもっていることがよい指導者の条件であるという発想の人がいますが、それも間違いなのです。研究者、学者としての資質と小中学校の教員としての資質は違うのです。

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プレーヤーとコーチ

2011-10-13 08:04:53 | Weblog
「指導者の資質」10月9日
 『柔道死亡事故』という見出しの社説が掲載されました。中学校で必修化される武道、その中の柔道で死亡事故が頻発しているということについて、安全の徹底を唱える内容です。その中に『(指導者に)競技実績があるからといって適切な指導ができるわけでもない』という記述がありました。
 よくぞ言ってくれました、という思いです。中学校の教員には、良きプレーヤーであることが良き指導者の条件である、という考え方をする者が多いのです。ある中学校教員出身の指導主事は、「サッカーをしたことがない人がサッカーを教えているのが理解できない」と言ったことがあります。行政マンとしては、大変優秀な人物でしたが、彼も「名プレーヤ=名指導者」論に固執していました。
 もちろん、名プレーヤーが指導者としても優れた才能を示すことはあります。でもそれは、たまたまなのです。偶然に過ぎません。二つの才能には、何の関連もありません。
 ただ、誤解のないように付け加えれば、超一流のプレーヤーが生まれるには、超一流のプレーヤーの存在が不可欠です。超一流のプレーヤーになる素質の中では、模倣しそれを自分にあった形に改良する能力こそが重要です。超一流のプレーヤーの卵は、超一流のプレーヤーに憧れ、それを努力の動機付けとし、実際に超一流のプレーヤーを目にしてそのプレーの秘密を感知し、ついに自らのものにしていくのです。ですから、超一流のプレーヤーには何らかの形で前世代の超一流のプレーヤーの存在が必要です。
 しかし、学校体育や部活は、超一流のプレーヤーを育てる場ではありません。難しいと思っていたけどできた、スポーツって楽しいな、他のスポーツもやってみようかな、という意欲や態度を育て、そのことで人生を豊かにしてくれればそれでよいのです。
 指導者に求められるのは、子供理解、子供に伝わる言語表現、子供の思いを汲み取る力、一人一人の努力との美を正確に評価する能力なのです。このことは、実はスポーツに限りません。国語でも社会でも理科でも、その分野について多くの知識をもっていることがよい指導者の条件であるという発想の人がいますが、それも間違いなのです。研究者、学者としての資質と小中学校の教員としての資質は違うのです。

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